詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』(2)

2022-08-15 22:26:09 | 詩集

谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』(2)(ポエムピース、2022年07月16日発行)

 「かなしみ」という作品がある。『二十億光年の孤独』のなかの一篇。私はかつて「谷川俊太郎の10篇』という「アンソロジー」をつくったことがある。(いま、どこにあるか、わからない。)「鉄腕アトム」「カッパ」「父の死」というのは絶対に譲れない三篇。あとは、その日の気分によって選ぶものが違うだろうなあ、と思う。しかし、あと一篇、「かなしみ」も外したくないなあ、と思う。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

 青年というよりも、少年という感じ。しかし、幼い少年ではなく、思春期の少年。
 でも、どうして、そういう印象を持つのかなあ。
 たぶん、「かなしみ」と言っても、「おとし物」くらいのかなしみ。成長すると、もっとおおきな悲しみがある。と、言っていいかどうかわからないが、なんとなく、そう思う。それは、私が過去の「おとし物」を思い出し、いま、悲しくなることがないからだ。
 だからこそ、ここに書かれていることが、美しい、真実だとも思う。
 特に、一行目が「美しい」し、谷川にしか書けない「真実」が書かれている、と思う。

 ところで、この詩集には、ときどき歌人の枡野浩一の「つぶやきコラム」というのがついている。一口感想、かな。
 枡野も一行目に注目している。私とは、ちょっと注目の仕方が違う。枡野のコラムを全行引用する。

おとし物をよくするから、遺失物係にもよくお世話になる。なくしたものは、みつからない。なくしたものに似たものならある。《青い空の波の音が聞こえるあたり》は、空のようでもあり海のようでもある。手がかりのない広い世界で何かを探し続ける覚束なさこそが、生きる実感に思えてくる。

 読んだ瞬間、私は、非常に違和感を覚えた。「あれっ」と声に出してしまった。そして、谷川の詩を読み直してしまった。同じ書き出しの一行に注目しているのだが、注目のポイントが私とはぜんぜん違う。そして、私が、思わず「あれっ」と声に出してしまったのは、「あれっ、私が読み違えた?」とびっくりしたからである。もう一度読み返したのも、そのためである。
 でも、私は間違っていなかった。枡野の引用が間違っているというのではないが、不十分だ。不完全だ。谷川は、こう書いている。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

 「あの」がある。枡野の引用には「あの」がない。行末の「に」も枡野は省略している。文字数の制限があり、省略したのかもしれないと思ったが、どうもそうではない。もっと長い「つぶやき」があるから。
 枡野は「あの」には「意味」がないと思ったのだろう。
 でも、私にとっては「あの」は「意味」がある。「意味」のほかにも、大切な働きをしていると思う。
 「あの」というのは、「ここ(近く)」「そこ(少し離れている)」ではなく「あこ(遠い)」に通じる。「青い空」だから、「遠い」。そこは「空の波の音」が聞こえるくらいだから、ちょっと「空想的」という意味でも「遠い」。
 でも、「あの」には、もう少し違った使い方がある。
 「このまえ食べた、あのカレーおいしかったね、また食べにいこうか」
 「あ、駅前のあのカレー屋?」
 こういう会話のときの「あの」は、会話しているひとの間で、カレー屋が「共通認識」としてある。ふたりとも知っている。だから「あのカレー(屋)」になる。
 それと同じように、

あの青い空

 という書き出しを読んだとき、私には、谷川が思い浮かべている空と同じものであるとはいえないけれど、なんとなく、一緒に見たことがある(あるいは、いま一緒に見ている)という感じがする。「あの」が私と谷川を結びつける。
 それは、それにつづく「青い空の波の音が聞こえる」という変なことば、空なの? 海なの?という疑問を消してしまう、強烈な「結びつき」だ。
 「青い空の波の音が聞こえるあたり」では、「結びつき」が生まれない。谷川少年がかってに「夢想」しているだけになる。
 引用するとき、「あの」を省略してほしくないなあ、と思う。
 それに。
 この「あの」があるから、「あたりに」がとても耳になじみやすい。「あ」の音が繰り返される。「あ」の「あ」おい波の音が聞こえる「あ」たりに。私なら「あの青い空の波の音が聞こえるあのあたりに」と「あの」を繰り返してしまうかもしれない。でも、そうすると、ちょっと音がうるさくなるというか、「あ」の音が多すぎる。「空」「波」のなかにも母音の「あ」があるからね。それに「あの」のなかの「の」のなかの「お」という母音の隠れ具合とも考えると、「あの青い空の波の音が聞こえるあたり」がいちばん美しいね。
 「音」のついでにいうと、二行目も「あ」と「お」の響きが交錯する。「し」という新しい音がくわわって、三行目に「し」が繰り返されるのも、とても自然。
 もっとも、こういう「音(音楽)」の問題は、ひとそれぞれの「好み」が大きく影響するから、いちがいには言えない。
 脱線しすぎたかも。
 脱線ついでにいえば、谷川が書いているのは「おとし物」であって、「忘れ物」ではない。「なくし物」でもない。これも、いいなあ、と感じる。「おとし物」は自分から完全に切り離されてしまった感じ。「忘れ物」なら、家に忘れた場合は、家に帰れば「ある」。「なくし物」は微妙。「なくす」よりも「落とす」の方が私には「肉体的」な切断感、痛みがあって、感覚的にしっくりくる。枡のは「なくしもの」に重点を置いているが、私の場合、とくに少年時代を思い出すと「なくし物」という意識はほとんどない。「おとし物」しかない。(忘れ物、はある。)
 二連目についても少し書いておく。
 二連目では「遺失物係の前に立ったら」がとてもいい。大好き。(変な感想かも。)
 最初に、私はこの詩の主人公を「少年」と書いたが、「少年」にとって「遺失物係」というのは、ちょっといかめしい。「遺失物」と漢字のテストで出たら「少年」には書けないかもしれない。ちょっと背伸びした感じが、「かなしみ」にぴったりくる。(「昼下がりの情事」のオードリー・ヘップバーンの背伸びした悲しみ--悲しみには背伸びが似合う。)
 それに「遺失物係の前に立ったら」が、ほんとうに美しい。こういうとき「立ったら」と、書ける? 遺失物係へ「行ったら」(行って、問い合わせたら)と書いてしまいそう。「立ったら」には、何か、教室で叱られて、「立っていなさい」と言われるような響きもある。叱られている感じ。
 それに。「係」にも母音「あ」があるが「立ったら」にも「あ」だらけ。それが「悲しくなってしまった」と響きあう。
 こういう「音楽」は「作為」ではむずかしい。谷川は、根っからの「耳の詩人」なのだと思う。

 

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朝日新聞よ、それでいいのか。平気なのか。正気なのか。

2022-08-15 19:48:10 | 考える日記
朝日新聞デジタル版、
「特異集団は旧統一教会」閣議決定 公安調査庁の05・06年報告書
この見出し、この記事の書き方は、これでいいのか。
辻元清美の「質問趣意書」が掲載されていないので、その内容がわからないが、辻元は単に「2006年、2005年」の公安調査庁が「特異集団」と書いてあるのは、いったいどの団体かと質問しただけなのか。
↓↓↓
 政府は今回の答弁書で、いずれも旧統一教会を指すと認め、特異集団を「社会通念とかけ離れた特異な主義・主張に基づいて活動を行う集団」と定義した。
 一方、第1次安倍政権下の07年分では特異集団の項目がなくなった。理由について答弁書は「時々の公安情勢に応じて取り上げる必要性が高いと判断したものを掲載している」とした。
↑↑↑
問題は、記事の末尾に書いてある「第1次安倍政権下の07年分では特異集団の項目がなくなった」だろう。
「時々の公安情勢に応じて取り上げる必要性が高いと判断したものを掲載している」とあるが、「取り上げる必要性がない」というふうに判断基準を変えたのは誰なのか、それが問題だ。
辻元も、きっとこのことを問題にしているはずだ。
「特異集団」が「統一教会」であると推測し、その推測が当たっているなら、問題は、2007年以降、統一教会を「特異集団」と判断しなくなったものがいるはずであり、それを追及するための「準備」として「質問趣意書」を出したのだろう。
記事の書き方から「第一次安倍政権」が関係していたと推測できる。「第一安倍政権」とまで書いているのだから、それをもとに朝日新聞はもっと追及すべきである。
見出しは、
「特異集団=統一教会」07年報告書から消える
だろう。
この問題は、この先さらに辻元が追及するだろうけれど、辻元だけに追及をまかせるのではなく、「援護追及」するために、朝日新聞も書くべきだろう。
今の書き方では、07年報告書から「特異集団(=統一教会)」と明記しなくなったのは「当然」という意味になってしまう。
政府の言い分を鵜呑みにし、それを垂れ流すのではなく、閣議決定された「答弁書」に問題がないかどうか、それを書かないといけない。
朝日新聞が、朝日新聞の名前(記者の名前)で書けないのだとすれば、せめて辻元の意見、あるいは他の評論家なりの意見を紹介すべきだろう。
こんな、政府の宣伝を書いて、それで平気なのだろうか。
読者をだますことになるとは思わないのか。
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Estoy loco por espana(番外篇176)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-15 16:38:52 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

影もまた作品の一部だと教えてくれる作品。
作品そのものもシンプルでリズミカルだが、それにそって踊る影が、作品をより美しくしている。
作品をどこで見るか。そのときの空間、光がつくりだす変化をどう楽しむか。
どんな作品も、やはり、その度書へ見に行かないといけないと思う。

Esta obra nos dice que las sombras también forman parte del trabajo.
La obra en sí es sencilla y rítmica, pero las sombras que danzan junto a ella la hacen aún más bella.
¿Dónde se mira el trabajo? ¿Cómo disfruta de los cambios creados por el espacio y la luz en ese momento?
Creo que hay que ir a ver cualquier obra de arte cada vez que se va a ver.

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Estoy loco por espana(番外篇175)Obra, Antonio Pons

2022-08-15 07:25:09 | estoy loco por espana

Antonio Pons

Mangrana amb la palma
Gres CH, ferro i acer
(890x420x380 mm.)

素材がつくりだす対比、色の変化が美しい。
左の局面の光の変化は、宇宙がつくり出す一瞬のものだが、まるで最初からその変化を知っているかのような落ち着きがある。

Los contrastes y cambios de color creados por los materiales son hermosos.
El cambio de luz en la fase izquierda es algo momentáneo creado por el universo, pero hay una calma en él, como si el artista hubiera sabido del cambio desde el principio.

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