詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇169)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-07 21:48:43 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

水平と垂直のバランスが美しい。交差する線がつくりだす空間の変化がとてもリズミカルだ。
斜めの方角から撮影した写真では、動きにスピード感がある。
動かない彫刻なのに、スピード感があるというのは、とてもおもしろい。

El equilibrio entre la horizontalidad y la verticalidad es precioso. Los cambios de espacio creados por las líneas que se cruzan son muy rítmicos.
En la fotografía tomada desde un ángulo oblicuo, hay una sensación de velocidad en el movimiento.
Es muy interesante que la escultura tenga una sensación de velocidad aunque no se mueva.

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エマニュエル・クルーコル監督「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」(★★★)

2022-08-07 17:00:31 | 映画

エマニュエル・クルーコル監督「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」(★★★)(2022年08月07日、KBCシネマ、スクリーン2)

監督 エマニュエル・クルーコル 出演 カド・メラッド、マリナ・ハンズ、ロラン・ストッカー

 ベケットの「ゴドーを待ちながら」を囚人が演じる。「待っているだけ」という状況が囚人の状況と重なる。そこから、ふいに「現実」が噴出してくる。それをそのまま舞台に生かす、という演出方法で演劇そのものは大成功を収める。
 映画は、その成功までの過程を手短に紹介する。そして、「それ以後」をていねいに描写していく。これがなかなかおもしろい。芝居の中に、隠れていた現実(意識できなかった現実)がことばとして動き始めるとき、そのことばを語った役者たちの現実はどうなるのか。たとえば芝居の上演後、刑務所へ帰って来た囚人たちは、持ち物検査や身体検査を受ける。それは現実? それとも「芝居」(虚構)の一部? もし、それが絶対に隠すことのできない現実だとすれば、それをことばにするとどうなる? ベケットは、もう助けてくれない。つまり、自分のことばを探し、自分で語らないといけない。どう語ることができるか。
 このむずかしい問題を、囚人たちは、とてもみごとに解決して見せる。
 語らないのである。最終公演の直前、「ゴドーを待ちながら」を演じた五人は、逃げ出してしまう。「現実」の世界へ「隠れてしまう」。声を出せば、見つかり、刑務所に戻される。もちろん、再び逮捕されるかもしれないという「不安」はあるが、それよりも求めていた「現実」のなかに隠れてしまう。その「現実」がどんなものか、彼らが語ることはないから、それが何なのか、私にはわからない。ただ、事実として、そのことが伝えられる。
 ことばにしてはいけないことがあるのをことばにしたのが「ゴドーを待ちながら」だとすれば、ことばにしてはいけないことをことばにしないまま生きているのが、逃亡した五人の囚人たちである。
 このことに、芝居にかかわった人間は、どう向き合うことができるか。五人を演出した演出家(ほんとうは役者、「ゴドー」を演じたこともある)は、どうことばにすることができるか。それは、ほんとうはことばにしてはいけないことかもしれない。しかし、人間だからことばにしてしまう。それがクライマックスなのだが。
 このクライマックス寸前の、二、三分の描写がてともおもしろい。ここだけなら★10個をつけたいくらいの、わくわく、どきどき、はらはら、なのである。五人が逃亡したことを知った演出家は、五人を探し回る。上演開始まで20分。劇場内を探し、街を探し、鉄道(地下鉄)の駅にまで行く。ひとりで走り回る。この間、ひとこともしゃべらない。いや、「五人を見なかったか」というようなことは訪ねるが、ほかはことばにならない。ことばは彼の肉体の中で動き回っている。ことばは、それが自分の声なのに、聞き取れないくらいに錯綜しているだろう。つまり、聞こえすぎて、わかる必要がないくらい明確になる。
 あ、この瞬間こそが、「ゴドー」の舞台なのだ。「ゴドーの登場人物」は、彼ら自身の声が「わかりすぎる」。わかりすぎて、わからなくなる。他人に説明のしようがない。それがわかりすぎるということだ。
 だからね、映画は、ここで、中途半端のまま終れば、大傑作になったと思う。
 でもね、映画だから「結末」が必要になる。「結末」に本物のベケットの反応まで「引用」してしまう。しようがないといえばしようがないが、それでは「ベケットの反応」は明確になることで、逆に存在しなくなってしまう。
 あ、何を書いているか、たぶん、誰にもわからない文章になっていると思う。
 それでいいのだと思う。
 私はこれから「ゴドーを待ちながら」を読み返すことにする。
 

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NATOと統一教会

2022-08-07 10:06:36 | 考える日記

 NATOと統一教会は、何の関係もないように見える。(あるかもしれないが、私は、知らない。)けれども、非常に類似点があると私は感じている。2022年08月07日の読売新聞(西部版・14版)は3面で「対ロシア 欧州政局不安/インフレ拍車 高まる不満/英伊首相辞任/仏政権 議会苦戦」という見出しで、現在のヨーロッパの「揺れ」を報告している。
 ロシアのウクライナ侵攻を非難するために、ヨーロッパは団結して「経済制裁」に踏み切ったが、うまくいかない。物価が上がり、不満が続出している。それを政権が抑えきれない、ということが起きている。
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 経済的な余裕が失われ、国民の関心はウクライナ情勢から離れ始めた。調査研究機関「欧州外交問題評議会」が欧州主要10か国で実施した調査(6月中旬発表)では、英仏伊とスペイン、ポルトガル、ルーマニアの6か国で「ウクライナ危機にこれ以上、軍事費を拠出するべきではない」との意見が多数派となった。ウクライナへの「支援疲れ」は、無視できないレベルにある。
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 やっと「政権の声」ではなく「市民の声」に注目し始めたということだと思うが、これはロシアのウクライナ侵攻が起きたときから想像できたことである。「政権の声」は「市民の声」ではないのだ。

 「政権の声」と「市民の声」のいちばんの違いがあらわれたのが「NATOの東方拡大」だろう。ベルリンの壁が崩壊し、ワルシャワ条約機構が解体したあと、なぜNATOは存在し続けるだけではなく、東方に拡大し続けたのか。「ロシアは危険だ」と言い続けたのか。実際に、ロシアのウクライナ侵攻が起きると、NATOの「ロシアは危険」(いつか攻撃してくる)という「予測」は当たっているかのように見える。しかし、クルミア侵攻(併合)のときは、今回のような「ヨーロッパ全体の統一行動(経済制裁)」は起きなかった。何が違ったのか。違うのか。わからないことは、保留しておいて、私はわかることだけ考える。
 NATOの東方拡大は、ソ連から独立した(?)国(政権)の要求に応じる形で起きたかのように言われているが、ほんとうなのだろうか。(ウクライナは、今回、たしかにウクライナ側から加盟を申請した。フィンランド、スウェーデンも加盟申請した。)東欧諸国が加盟申請したのだとしても、それは「自発的意思」だったのかどうか、私は疑問に思っている。
 むしろ、ワルシャワ条約機構が解体し、NATO事態の「軍備増強」の理由がなくなったことが影響しているのではないのか。それまでのNATO加盟国に軍備増強を呼びかけても、応じる国は少ないだろう。これでは、アメリカの軍需産業は成り立たない。そこで目をつけたのが、かつてソ連に支配されていた東欧諸国である。「またロシアに支配されるかもしれない。ロシアに支配されないためには(安全に暮らすためには)、アメリカの軍事体制のなかに入り、アメリカに守ってもらう必要がある」。こう呼びかければ、ソ連支配下の記憶がある「政権」は、それになびくだろうなあ。一方で「不安」をあおり、他方で「安全」を手に入れるためにはどうすべきかを語る。これって、統一教会の「地獄へ落ちる」(これが正しい表現かどうかわからないが)、「天国へ行くためには、壺を買え」に似ていない? ロシアに再び支配されたくなかったら、NATOに加盟し、アメリカ産の軍備を買え。私には、おなじにしか見えない。
 だいたいねえ。
 ベルリンの壁崩壊後に起きたことは、NATOの東方拡大とは「逆」ともいえることだ。いくつもの国が協同して「防衛」に専念するということとは逆のことだ。ひとつと思われていた国が、つぎつぎに「独立」した。「チャコスロバキア」とか「ユーゴスラビア」とかは、かつての「国(権力)」のなかで「分裂」した。私が中学生の頃、まったく知らなかった国が、まるでアフリカ諸国の「独立」のように、つぎつぎに「内部分裂」の形で増殖した。そして、そのとき、その「市民」が要求したのは、自分たちのアイデンティティーの確立である。文化の多様性の主張が始まり、それがつぎつぎに認められていった。つまり、ヨーロッパは、文化の多様性を生きる「地域」として充実していった。それをヨーロッパは受け入れた。その延長線上に、たとえば「難民」の受け入れがある。多様な文化をもった人間が、自分たちの国に入ってくる。そして共生する。それを「いいこと」として受け入れた。
 このとき、困るのは誰?
 アメリカが困るだけだ。アメリカが「ヨーロッパ化」したらどうなるか。「文化の多様性」を受け入れることを求められたらどうなるか。いまも白人以外への差別が根強く残るアメリカに、さまざまな文化をもった人間が押し寄せてきて、「共生」を求められたら、アメリカはどうなるか。多様性に対する許容力を持たないアメリカは、大混乱になる。東欧で起きたような「独立運動」が各地で起きるかもしれない。
 なんといっても、ヨーロッパが「多様性許容」という形で団結してしまったら、「武器」を売る相手がいなくなる。「多様性許容/多様性共存」の世界では、戦争が起きるはずがないのである。戦争は「排他性」からはじまる。ヨーロッパは「言語の多様性」を生きている。「一つのことば」で団結しようとはしていない。「複数のことばの共存」は「複数の思想の共存」である。これは、「一つの思想」で世界を統合しようとする立場の「権力」から見ると、いちばん、目障りだろう。
 アメリカが目の敵にするのも、統一教会が目の敵にするのも、「統一された思想」への「疑義」である。「それは違うんじゃないか」という疑問を持つ人間である。だからこそ、「洗脳」をめざす。アメリカがリーダーになって、世界の安全を守る。統一教会がリーダーになって世界を支配する。アメリカは、その「洗脳」の道具として「武器(アメリカの核の傘下)」を掲げ、統一教会は「天国へ行ける壺」を掲げる。アメリカも統一教会も、それぞれ「仮想敵(国)」を用意し、それをちらつかせる。
 そして、このアメリカと統一教会では、「共産主義」が「仮想敵国」として「共通」した。「自由主義」とは「金持ちがどこまでも自由に金をかせげるシステム」のことであり、そのシステムのもとでは、貧乏人はどこまでも貧乏人のまま金持ち(権力)に奉仕するという形で完結する。今の日本だ。正規雇用者は非正規雇用者に、非正規雇用者はパートに、パートはアルバイトにとどんどん賃金を下げられながら、資本家の金もうけを支える。
 ヨーロッパは、多様な言語の国である。言語が違えば思想が違う。「国語」は、その国の思想の到達点である。それぞれのことばを話す人間が「権力」に対して異議を唱え始めた。それが、ロシアのウクライナ侵攻によって、次第に見えてきたということだろう。市民にとって大切なのは自分の生活であり「国家権力」という抽象的な「概念」ではない。
 今後、どうなるのか予測はつかないが、「権力」による「統合」は、もう起こり得ないと考えた方がいいと思う。どの「権力」を選ぶかではなく、どういうかたちの「多様性」を生きるか、多様性の共存のために、自分の「思想」をどう鍛えなおすか、考えないといけない。

 いまは、暑いから想像しにくいが、これから冬に向かうとき、ヨーロッパは悲鳴を上げる。ロシアの石油、ガスを拒絶したまま、冬を越せるのか。すでに、そういうことを心配しているヨーロッパのひとはたくさんいる。暖房がない、食糧がない。それなのにNATOに支出する。そんなことは許せない、という声が高まるだろう。
 一方、フランスには原子力発電所がたくさんあるが、他の国はそうではない。これから建設するにしても、今年の冬には間に合わないだろう。しかし、今回(次の冬)の体験が呼び水になって、原発の増設は、ヨーロッパでドミノ倒しのように広がるだろう。以前にも書いたが、それは核の原料の確保でもあるから、アメリカは大歓迎するだろう。原発建設の技術をもっている日本も大歓迎するだろう。でも、そのとき、世界はどうなるのか。「多様性の要求」は、また違った形で噴出するだろう。電力確保のためには「原発が必要だ/原発は経済的だ」という「統一概念」への反動が起きるはずである。
 いま必要なのは「統一」ではなく、「統一への疑義」であり、「分裂の許容(多様性の許容)」であると思う。
 NATOや統一教会の「脅し(洗脳)」に対抗するには、多様な思想の確立しかない。私は私の書いていることが「正しい」かどうか知らない。ただ、いま流布している「概念(たぶん権力が用意したもの)」に対する疑問を持ち続けたいから、そのことを書く。

 

 

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