詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

帷子耀. 選『詩的●▲』

2022-08-12 23:41:21 | 詩(雑誌・同人誌)

帷子耀. 選『詩的●▲』(阿吽塾、小見さゆり『水辺の記憶』(書肆山田、2022年06月20日発行)

 帷子耀. 選『詩的●▲』は、阿吽塾が作品募集をし、帷子耀. が選んだ作品で構成されている。帷子耀. の選評もついている。
 豊原清明の「空中に搾取された生首」がおもしろい。なんとなく、帷子耀を思い出した。思い出したといっても、私が帷子耀の作品を読んだのはもう50年ほど前になり、気がついたら帷子耀は詩の世界(現代詩手帖)から消えていた。だから、おぼろげな記憶でしかないのだが。
 何を思い出したか。

霧のような前衛詩に
滅びて往く民の異性への興味
しなやかな曲線美

 リズムの絶対性。それが帷子耀に共通すると思った。たたいても、こわれないリズム。どこを叩いても、強靱な音がかえってくる。その強さ。
 こんな抽象的な書き方では、何も書いたことにならないが。
 当時、私が感じたのは、このリズムには、私は絶対に到達できないという感じである。完成されている。どんな詩人のことばでも、何かしら「ゆらぎ」のようなものがあり、それが好きであったり、嫌いであったりするのだが、好き嫌いを言わせない絶対的なリズムがある。生きているのか、死んでいるのかわからないが、書かれている(書いている人がいる)かぎりは生きているのだろう。だが、ほんとうに「書かれている」のか。それともすでに「書かれていた」のか。たぶん、「書かれていた」に近い。「書かれていた」というよりも、「書いた瞬間」に「印刷されていた」といえばいいのか。それは、最初から「活字」のリズムを持っていた。
 たぶん、そうなのだ。
 私が帷子耀の詩を読んだとき感じたのは、「声」を通り越して、「活字」になってしまったリズムだったのだ。「声」ならば、乱れるときがある。「活字」になってしまっていることばは「声」を超越して、「文体」になっている。
 「文体」という意識を、その当時、私は持っていなかったが、「文体」の絶対性、完成されたリズムによって動いている「文体」というものを、私は感じた。
 豊原の詩は、こうつづいていく。

とぼとぼと水を注ぎ
一気飲みする
個人の声の蔭に
秘め事、握りしめては
水に酔っぱらう
たぬき寝入りの男の頭部に
裸の人が削り取られて往く
氷菓のように、この世で子どもが
口にすることが出来る
価値の高さに
人は舌で感じるものありきで
疾走する風である
滅んで征く者同士としての
同盟に星は濡れている

 一連目の「往く」、二連目の「征く」は、書き分けなのか、誤植なのか、見当がつかないが、そうした「日常」とは違う漢字の使い方、「秘め事、握りしめては」「氷菓のように、この世で子どもが」の読点「、」の使い方。帷子耀の詩に読点があったかどうか思い出せないが、改行の強さからは書かれていない読点を感じた。それは「声」ではなく「活字」を感じたということと少し相反するかもしれないが「息」の正確さでもある。読点は、息をしっかりと伝えており、そこに「肉体」を感じたということでもある。「声」を出してはいないが、「息」でことばを制御し、それを「活字」に変化させている感じといえばいいのか。
 「とぼとぼ」というオノマトペにさえ、私は「声」(音)というよりも、「息」と「活字」の緊張を感じる。
 途中を省略して、最終連。

この頃、快楽主義者になり
極楽へ危険信号灯す
心地良さに対して存在が溶けそう
蜘蛛の巣に首締めつけられて
首を切断されるだろう
体を 自ら
地にたたきつけて得られる言葉
秋・療養の風吹く窓

 ここには助詞の省略と一字空きの「息」の調整がある。
 そういう運動の果の、最終行。これは、一行で、それまでの詩全体と拮抗している。しかし、拮抗しているといえば、それぞれの行が、また全体と拮抗している。緊張感をはらんだ「息」がつくりだすリズムが非常に印象に残る。
 こういう私の感想の書き方では、豊原の詩の感想を書いているのか、帷子耀の詩の(あるいは、この詩を選んだ帷子耀の批評眼の)感想を書いているのかわからないが、たぶん、それは区別ができないものなのだと思う。

 帷子耀. は「ピエ」24(2022年07月30日)に「ウウウウウウウウウウーウ」という詩を書いている。

ウ。母は何か言いたげだった。痰がからんでいるな。声が出
なかった。痰の吸引をお願いした。吸引が終わった。静かに
なった。母は死んだ。死ぬとわかっていれば、言いたかった
ことは見当がつく。心配していたであろうこと二つ三つを挙
げてそのことならば大丈夫だよと告げることができた。この
六年間、何度となく医師から母はいつ死んでもおかしくない
と言われた。その度に持ち直した。そう遠からず母は死ぬだ
ろう。だがそれは今ではない。海をもう一度見るまでは死な
ない。ウミ。母の海は諏訪湖だ。湖面に母の横顔が大写しさ
れる。ゆっくりと揺れる。半月。いくつもの乳房。揺れるも
のが揺れる。揺れるはずのないものが揺れる。ヒョウ柄の夢。

 「ウ。」という意味不明の音が、やがて「海」につながっていく。その過程の「息」の「肉体」そのもののたしかさ。「母は何か言いたげだった。」の「だった。」「痰がからんでいるな。」の「な。」「痰の吸引をお願いした。」の「お」。「吸引が終わった。静かになった。母は死んだ。」と短いことばのたたみかけのあと、「死ぬとわかっていれば、」と読点を含んで、息が長くなる。ことばが長くなる、そのリズムの絶対性。
 このたしかさに匹敵するのは、だれのことば(文章)だろうか。
 「揺れるものが揺れる。揺れるはずのないものが揺れる。」と書いた後、その「ゆ」を引き継いで「ヒョウ柄の夢。」のなかにあらわれる「ゆ」の音。それは、まるで、母の最後の「息」のようではないか。
 一連目について触れただけでは帷子耀. の詩の感想にはならないか。そうかもしれない。しかし、詩は意味ではないのだから、一連目について書いただけでも「感想(批評)」になると私は考えている。
 余分なことを書いて、「結論」をでっちあげる必要はない。

 

 

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「台湾有事」への疑問

2022-08-12 21:52:32 | 考える日記

 私は台湾のことも中国のこともよく知らないのだが、「台湾有事」について、とても疑問に思うことがある。
 台湾は、チベットや新疆ウイグルとは完全に違う。台湾に住んでいるひとは、基本的に中国人である。つまり、国語、文化が同じ。(もちろん、別の体制になってから、違う制度を生きているから違いも出てきているが。)
 中国人は、どうやって生きているか。
 単なる印象で書くのだが、いま中国人は世界中に散らばっている。そして、散らばりながら組織化もされている。チャイナタウンと俗にいうけれど、血族意識が強い。だれかがある国へ行く。そこで成功する(中国人にとっての成功とはなによりも、金を蓄える。金持ちになること)と親族を呼び寄せる。そして、「社会」が拡大する。
 頭がいいなあと感心するのは、このときの中国人の「かせぎ方」である。日本でいうコンビニみたいな店を開く。大儲けはできないが、少しなら、確実に売れる。最初から大儲けを狙うわけではない。それをこつこつと繰り返す。もうけが大きくなれば少しずつ店を広げていく。そして親族も呼びよせるというわけだ。
 こういうことを「生きる知恵」として身につけている中国人は、「中国・台湾」問題をどう生きるか。想像にすぎないのだが、台湾が誕生したときと、逆のことが起きると思う。つまり、台湾から、だれかが中国へ行く。そこで一生懸命働く。金がもうかったら、家族(親族)を中国へ呼び寄せる。中国人(台湾を含む)のひとが、アメリカやその他の国で展開していることを、中国本土で展開する。実際に、台湾で金をもうけ、それで中国にも家を持っているというひとがいる。そのひとは、状況次第では、自分の拠点を中国に移すだろう。そういうひとは、大勢いるだろう。
 「台湾有事」というのは、市民レベルでは起きようがないのだ。中国人の生き方は、それがどこであれ、金もうけをしたら、そこで家族(親族)と暮らし、「社会」を広げていくというやり方である。
 中国人は、文化(国語)が違う外国でさえ、そういうことを巧みにやってのけている。金持ちがいちばんえらいを、確実に実行している。

 これを逆に見れば、「台湾有事」がアメリカの「夢」であることがわかる。
 アメリカは、台湾が中国になりたい、という欲望を恐れている。中国に圧力をかけるためには、台湾という「基地」が必要なのだ。台湾から「共産主義」の中国の活動を制限したいだけなのだ。
 どういう活動? もちろん金もうけ(資本主義)の活動である。
 でも、なぜ、そんなことをするか。なぜ、中国人が金もうけをすることに対抗しようとするのか。
 理由は簡単である。
 アメリカ人は中国人になれないからである。中国人のように生きられないからである。簡単に言い直すと、中国人のように、世界のどこへでも出かけ、そこで金もうけができたら、家族(親族)を呼び寄せて幸せになる(さらに金もうけをする)ということがアメリカ人にはできないからである。
 アメリカ人は、アメリカ人ではない。彼らは、ヨーロッパからアメリカにやってきて、アメリカで金もうけをし、アメリカ人になった。アメリカ人は、アメリカから出ていったらアメリカ人ではなくなるのだ。だから、中国人の生き方が我慢できないのだ。中国から脱出し、よその国へ行って、なおかつそこで中国人として金を稼いで、生きている。
 何が中国人とアメリカ人では違うのか。持っている「文化」が違うのだ。アメリカ人は固有の文化を持たない。中国人は持っている。「文化」を手がかりに、いつでも中国人は「団結」できる。アメリカ人は、できない。アメリカに文化があるとしたら、それは最初から「マルチ文化」なのである。「固有の文化」ではないのだ。「マルチ文化」はどこへでも進出できるが(実際、「アメリカ文化」は世界をおおっているが)、進出した途端に「アメリカ文化」の固有性をなくす。
 「アメリカナイズ」ということばがあるが、実際は、アメリカナイズされているようにみせかけながら、それぞれの国の人がアメリカを消費しているだけである。アメリカ人がやってきて、アメリカを主張しようとしても、その主張をその国のものにしてしまう。マクドナルドにしてもジャズにしても、それぞれの国のスタイルがある。決して、アメリカの「方法」がそのまま根を張っているわけではない。

 アメリカが世界を理解できない理由はここにある。アメリカにはアメリカの文化がないからだ。(ネイティブアメリカンのことは、ここでは触れない。あくまでも、いま、大手を振るっているアメリカ人のこと、を対象として私は書いている。)
 それぞれの国には、それぞれの国語があり、同時にそれぞれの文化がある。
 アメリカは、これを根こそぎにしようとしているが、これは絶対に不可能だろう。すでに失敗したし、最近ではアフガンでも失敗した。
 NATOの東方拡大は、一見「成功例」に見えるかもしれないが、かつてソ連に支配されていた国が、ソ連支配下を逃れた瞬間から次々に「民族」を主体とした国にわかれた。一方で、ドイツは「民族」が団結し、ひとつの国になった。「文化」が共通だから、ひとつになるのは簡単なのだ。
 ここからまた「台湾」にもどれば、台湾が中国と統一するのは、とても簡単なのだ。中国(本土)の経済が世界一になれば、その瞬間に、台湾は中国と統一してしまうだろう。政府がそうするのではなく、市民がそうするのだ。「文化」が同じ。同じやり方で、中国本土でさらに金がかせげるなら、台湾にこだわる必要はない。もし中国本土へ行くのがいやなら、台湾のひとは世界のどこへでも行くだろう。ヨーロッパでも、南米でも、アフリカでもかまわない。そこで金を稼いで「チャイナタウン」をつくるだけである。
 「アメリカタウン」をつくることができないアメリカは、中国人には絶対に勝てない。アメリカの(つまり、新大陸の)成功は、中国が世界へ広がっていくための「過程」にしかすぎない。アメリカは「アメリカ合衆国」として北米大陸にそこにとどまりつづけ、そこで変質しつづけるしかない。

 中国のチベット、新疆ウィグル政策は間違っているが、それは「文化」の多様性を中国が拒んでいるからである。世界はマルチ文化の時代に入っている。マルチ文化をどう生きるか。マルチ文化(人種の坩堝)であるはずのアメリカが、それこそアメリカをマルチ文化が共存する社会につくりかえることができれば、そういう世界に成長できれば世界の事情は違ってくるが、アメリカはどうも逆行している。いまだに差別問題を抱え、女性の権利も抑圧し始めている。「台湾有事」も、古くさいアメリカ帝国主義というシステムに逆戻りしたいという欲望が生み出した「幻想」だ。
 恐ろしいのは中国ではなく、時代後れの「幻想」にしがみついているアメリカと、その政策を盲信している日本の古くさい政治家だ。

 

 

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