松本秀文『詩後(2014-2022)』(思潮社、2022年07月31日)
松本秀文『詩後(2014-2022)』を読みながら、どの詩を引用しようか、考えた。どれを引用しても同じことを書きそうだ。だから、いったん閉じて、テキトウに開く。
「ゲンエイの人 あるいはセカイ」。あ、いやなものを引いてしまった、というババヌキの感じがするが、まあ、これがきょうの私の仕事(?)だ。
とめどなく描線がブレつづける街で
青空の向こうに
なぜ(ひかりの分布図
星のようなものがあるのかを
死んでいるうさぎと考える(うそ
詩の(半減期
孤独(?)はいつもセカイとつながっていて
タイトルの「ゲンエイ」は「渡辺玄英」の「玄英」である。ほんとうに「ゲンエイ」と読むのかどうかわからないが、わからないからこそそれですませるのだろう。私もよく知らないので「ゲンエイ」と読んでいる。別に間違えたってかまわない。私はテキトウな人間である。
で、間違えてもかまわないといいながら、私は「ゲンエイ」にこだわる。なぜか。そう読む方が、私にとってはわかりやすい。私のことばのリズムにあう。そして、そのリズム、音は「幻影」と結びつきながら、それを否定する。このときのチグハグさ、あるいはデタラメさ、あるいはテキトウさ加減が、渡辺玄英の詩に似ているなあ、と感じるからである。渡辺玄英は「チグハグ、デタラメ、テキトウ」を書いているわけではないと言うかもしれないが。
で。
この「ゲンエイの人 あるいはセカイ」は、そういう「ゲンエイ」の音を引き継いでいるところが、まあ、楽しい。
松本の「音」は、すべてをテキトウにしてしまう。「音」さえ、リズムに乗って響いていけば、それが詩。「意味」は、読者がかってに考える。だれの作品を読んだとしても、そこから理解できるのは自分の知っている「意味」だけである。自分の知らない「意味」を他人のことばに接続することはできない。「断絶(不可解)」を含めて、それは「意味接続」のひとつであり、そこからことばが逃げ出すことは、できない、と私は思う。たとえ、そこから逃げ出すことを試みていることばであったとしても。
ということは、「金閣詩」を読んで、思った。
今村昌平監督作品『楢山節考』で左とん平は犬とセックスをする
そして戦争
人間も死んで
犬も死んだ
「戦争とはわれわれ少年にとって、一個の夢のような実質なき慌しい体験であ
り、人生の意味から遮断された隔離病室のようなものであった」
あなたの胸の中に金閣がある
「あなた」って、だれ? 左とん平? 今村昌平? それとも三島由紀夫? まさか、私がこの詩を読むことを想定して松本がこの詩を書いたとは思わないが、その「まさか」が「まさかのまさか」で、私のことだったとしてもかまわない。
「あなた」と言われれば、「私」かもしれない、と私は思ってしまう。
それから「金閣詩」からは「金閣寺」(三島由紀夫)よりも先に「金隠し」を連想するのだが、それがそのまま一行目の「セックス」につながっていく。それも「犬とセックス」というような、まあ、最低なのか、最高なのか、わけのわからないセックスである。どんなことであれ、それをしているひとにとってはそれしかないのだから、最高と感じて悪いわけがない。
それにしても、
今村昌平監督作品『楢山節考』
か。
「意味」はわかる。何を指しているかは、わかる、という意味であるが。そして、同時に、なんとまあ、律儀なと私は感じる。
律儀はテキトウとは反対の概念だと私は思うが、松本はテキトウを律儀につづけるひとであり、その音/リズムを支えるは、実はテキトウではなくて、律儀なのだ。これは、先に引用(?)した渡辺玄英にも通じる。
詩を書く(ことばを書く)ときは、どんなテキトウな詩であっても(テキトウに見える詩であっても)、どこかで律儀でなくてはならない。
「腐眠」は、こんな感じ。
眠り続けているだけなの
それは儀式なのだろうか
破れた体の底で呼吸して
ただ
生きている私を表現して
橋の上で疲れて死んだら
落下する夢の捕虜となる
使者
十一文字三行のあと二字というスタイルで詩がつづいていく。タイトルを考えると二字のあと十一字三行、二字一行、十一字三行なのだろうが。つまり、ここでは音を「視覚」でも制御し、リズム化している。丁寧に、最後まで。律儀だね。
この詩集全体では、いろいろな「文学作品」が引用されている。アレンジされている。テキトウにつかわれている。でも、きっと、それはテキトウではないな。きちんと原典に当たっているだろう。変更があるにしても、それは「記憶違い」というのではなく、意図的変更だろう。そういうことを律儀というのだが。
で、その律儀さは松本にとって長所なのか、短所なのか。
私は、もっと「破れた」方がいいと思う。「律儀」と感じるのは、それがもう「定型」になっている、ということでもあるのだから。まあ、どんなものでも「定型」になってしまうものだけれど。それでも「破れ」の解放感がほしいと思ってしまう。読者というのは(あるいは、私だけ?)わがままだからね。
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