詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

帷子耀. 選『詩的●▲』

2022-08-12 23:41:21 | 詩(雑誌・同人誌)

帷子耀. 選『詩的●▲』(阿吽塾、小見さゆり『水辺の記憶』(書肆山田、2022年06月20日発行)

 帷子耀. 選『詩的●▲』は、阿吽塾が作品募集をし、帷子耀. が選んだ作品で構成されている。帷子耀. の選評もついている。
 豊原清明の「空中に搾取された生首」がおもしろい。なんとなく、帷子耀を思い出した。思い出したといっても、私が帷子耀の作品を読んだのはもう50年ほど前になり、気がついたら帷子耀は詩の世界(現代詩手帖)から消えていた。だから、おぼろげな記憶でしかないのだが。
 何を思い出したか。

霧のような前衛詩に
滅びて往く民の異性への興味
しなやかな曲線美

 リズムの絶対性。それが帷子耀に共通すると思った。たたいても、こわれないリズム。どこを叩いても、強靱な音がかえってくる。その強さ。
 こんな抽象的な書き方では、何も書いたことにならないが。
 当時、私が感じたのは、このリズムには、私は絶対に到達できないという感じである。完成されている。どんな詩人のことばでも、何かしら「ゆらぎ」のようなものがあり、それが好きであったり、嫌いであったりするのだが、好き嫌いを言わせない絶対的なリズムがある。生きているのか、死んでいるのかわからないが、書かれている(書いている人がいる)かぎりは生きているのだろう。だが、ほんとうに「書かれている」のか。それともすでに「書かれていた」のか。たぶん、「書かれていた」に近い。「書かれていた」というよりも、「書いた瞬間」に「印刷されていた」といえばいいのか。それは、最初から「活字」のリズムを持っていた。
 たぶん、そうなのだ。
 私が帷子耀の詩を読んだとき感じたのは、「声」を通り越して、「活字」になってしまったリズムだったのだ。「声」ならば、乱れるときがある。「活字」になってしまっていることばは「声」を超越して、「文体」になっている。
 「文体」という意識を、その当時、私は持っていなかったが、「文体」の絶対性、完成されたリズムによって動いている「文体」というものを、私は感じた。
 豊原の詩は、こうつづいていく。

とぼとぼと水を注ぎ
一気飲みする
個人の声の蔭に
秘め事、握りしめては
水に酔っぱらう
たぬき寝入りの男の頭部に
裸の人が削り取られて往く
氷菓のように、この世で子どもが
口にすることが出来る
価値の高さに
人は舌で感じるものありきで
疾走する風である
滅んで征く者同士としての
同盟に星は濡れている

 一連目の「往く」、二連目の「征く」は、書き分けなのか、誤植なのか、見当がつかないが、そうした「日常」とは違う漢字の使い方、「秘め事、握りしめては」「氷菓のように、この世で子どもが」の読点「、」の使い方。帷子耀の詩に読点があったかどうか思い出せないが、改行の強さからは書かれていない読点を感じた。それは「声」ではなく「活字」を感じたということと少し相反するかもしれないが「息」の正確さでもある。読点は、息をしっかりと伝えており、そこに「肉体」を感じたということでもある。「声」を出してはいないが、「息」でことばを制御し、それを「活字」に変化させている感じといえばいいのか。
 「とぼとぼ」というオノマトペにさえ、私は「声」(音)というよりも、「息」と「活字」の緊張を感じる。
 途中を省略して、最終連。

この頃、快楽主義者になり
極楽へ危険信号灯す
心地良さに対して存在が溶けそう
蜘蛛の巣に首締めつけられて
首を切断されるだろう
体を 自ら
地にたたきつけて得られる言葉
秋・療養の風吹く窓

 ここには助詞の省略と一字空きの「息」の調整がある。
 そういう運動の果の、最終行。これは、一行で、それまでの詩全体と拮抗している。しかし、拮抗しているといえば、それぞれの行が、また全体と拮抗している。緊張感をはらんだ「息」がつくりだすリズムが非常に印象に残る。
 こういう私の感想の書き方では、豊原の詩の感想を書いているのか、帷子耀の詩の(あるいは、この詩を選んだ帷子耀の批評眼の)感想を書いているのかわからないが、たぶん、それは区別ができないものなのだと思う。

 帷子耀. は「ピエ」24(2022年07月30日)に「ウウウウウウウウウウーウ」という詩を書いている。

ウ。母は何か言いたげだった。痰がからんでいるな。声が出
なかった。痰の吸引をお願いした。吸引が終わった。静かに
なった。母は死んだ。死ぬとわかっていれば、言いたかった
ことは見当がつく。心配していたであろうこと二つ三つを挙
げてそのことならば大丈夫だよと告げることができた。この
六年間、何度となく医師から母はいつ死んでもおかしくない
と言われた。その度に持ち直した。そう遠からず母は死ぬだ
ろう。だがそれは今ではない。海をもう一度見るまでは死な
ない。ウミ。母の海は諏訪湖だ。湖面に母の横顔が大写しさ
れる。ゆっくりと揺れる。半月。いくつもの乳房。揺れるも
のが揺れる。揺れるはずのないものが揺れる。ヒョウ柄の夢。

 「ウ。」という意味不明の音が、やがて「海」につながっていく。その過程の「息」の「肉体」そのもののたしかさ。「母は何か言いたげだった。」の「だった。」「痰がからんでいるな。」の「な。」「痰の吸引をお願いした。」の「お」。「吸引が終わった。静かになった。母は死んだ。」と短いことばのたたみかけのあと、「死ぬとわかっていれば、」と読点を含んで、息が長くなる。ことばが長くなる、そのリズムの絶対性。
 このたしかさに匹敵するのは、だれのことば(文章)だろうか。
 「揺れるものが揺れる。揺れるはずのないものが揺れる。」と書いた後、その「ゆ」を引き継いで「ヒョウ柄の夢。」のなかにあらわれる「ゆ」の音。それは、まるで、母の最後の「息」のようではないか。
 一連目について触れただけでは帷子耀. の詩の感想にはならないか。そうかもしれない。しかし、詩は意味ではないのだから、一連目について書いただけでも「感想(批評)」になると私は考えている。
 余分なことを書いて、「結論」をでっちあげる必要はない。

 

 

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「台湾有事」への疑問

2022-08-12 21:52:32 | 考える日記

 私は台湾のことも中国のこともよく知らないのだが、「台湾有事」について、とても疑問に思うことがある。
 台湾は、チベットや新疆ウイグルとは完全に違う。台湾に住んでいるひとは、基本的に中国人である。つまり、国語、文化が同じ。(もちろん、別の体制になってから、違う制度を生きているから違いも出てきているが。)
 中国人は、どうやって生きているか。
 単なる印象で書くのだが、いま中国人は世界中に散らばっている。そして、散らばりながら組織化もされている。チャイナタウンと俗にいうけれど、血族意識が強い。だれかがある国へ行く。そこで成功する(中国人にとっての成功とはなによりも、金を蓄える。金持ちになること)と親族を呼び寄せる。そして、「社会」が拡大する。
 頭がいいなあと感心するのは、このときの中国人の「かせぎ方」である。日本でいうコンビニみたいな店を開く。大儲けはできないが、少しなら、確実に売れる。最初から大儲けを狙うわけではない。それをこつこつと繰り返す。もうけが大きくなれば少しずつ店を広げていく。そして親族も呼びよせるというわけだ。
 こういうことを「生きる知恵」として身につけている中国人は、「中国・台湾」問題をどう生きるか。想像にすぎないのだが、台湾が誕生したときと、逆のことが起きると思う。つまり、台湾から、だれかが中国へ行く。そこで一生懸命働く。金がもうかったら、家族(親族)を中国へ呼び寄せる。中国人(台湾を含む)のひとが、アメリカやその他の国で展開していることを、中国本土で展開する。実際に、台湾で金をもうけ、それで中国にも家を持っているというひとがいる。そのひとは、状況次第では、自分の拠点を中国に移すだろう。そういうひとは、大勢いるだろう。
 「台湾有事」というのは、市民レベルでは起きようがないのだ。中国人の生き方は、それがどこであれ、金もうけをしたら、そこで家族(親族)と暮らし、「社会」を広げていくというやり方である。
 中国人は、文化(国語)が違う外国でさえ、そういうことを巧みにやってのけている。金持ちがいちばんえらいを、確実に実行している。

 これを逆に見れば、「台湾有事」がアメリカの「夢」であることがわかる。
 アメリカは、台湾が中国になりたい、という欲望を恐れている。中国に圧力をかけるためには、台湾という「基地」が必要なのだ。台湾から「共産主義」の中国の活動を制限したいだけなのだ。
 どういう活動? もちろん金もうけ(資本主義)の活動である。
 でも、なぜ、そんなことをするか。なぜ、中国人が金もうけをすることに対抗しようとするのか。
 理由は簡単である。
 アメリカ人は中国人になれないからである。中国人のように生きられないからである。簡単に言い直すと、中国人のように、世界のどこへでも出かけ、そこで金もうけができたら、家族(親族)を呼び寄せて幸せになる(さらに金もうけをする)ということがアメリカ人にはできないからである。
 アメリカ人は、アメリカ人ではない。彼らは、ヨーロッパからアメリカにやってきて、アメリカで金もうけをし、アメリカ人になった。アメリカ人は、アメリカから出ていったらアメリカ人ではなくなるのだ。だから、中国人の生き方が我慢できないのだ。中国から脱出し、よその国へ行って、なおかつそこで中国人として金を稼いで、生きている。
 何が中国人とアメリカ人では違うのか。持っている「文化」が違うのだ。アメリカ人は固有の文化を持たない。中国人は持っている。「文化」を手がかりに、いつでも中国人は「団結」できる。アメリカ人は、できない。アメリカに文化があるとしたら、それは最初から「マルチ文化」なのである。「固有の文化」ではないのだ。「マルチ文化」はどこへでも進出できるが(実際、「アメリカ文化」は世界をおおっているが)、進出した途端に「アメリカ文化」の固有性をなくす。
 「アメリカナイズ」ということばがあるが、実際は、アメリカナイズされているようにみせかけながら、それぞれの国の人がアメリカを消費しているだけである。アメリカ人がやってきて、アメリカを主張しようとしても、その主張をその国のものにしてしまう。マクドナルドにしてもジャズにしても、それぞれの国のスタイルがある。決して、アメリカの「方法」がそのまま根を張っているわけではない。

 アメリカが世界を理解できない理由はここにある。アメリカにはアメリカの文化がないからだ。(ネイティブアメリカンのことは、ここでは触れない。あくまでも、いま、大手を振るっているアメリカ人のこと、を対象として私は書いている。)
 それぞれの国には、それぞれの国語があり、同時にそれぞれの文化がある。
 アメリカは、これを根こそぎにしようとしているが、これは絶対に不可能だろう。すでに失敗したし、最近ではアフガンでも失敗した。
 NATOの東方拡大は、一見「成功例」に見えるかもしれないが、かつてソ連に支配されていた国が、ソ連支配下を逃れた瞬間から次々に「民族」を主体とした国にわかれた。一方で、ドイツは「民族」が団結し、ひとつの国になった。「文化」が共通だから、ひとつになるのは簡単なのだ。
 ここからまた「台湾」にもどれば、台湾が中国と統一するのは、とても簡単なのだ。中国(本土)の経済が世界一になれば、その瞬間に、台湾は中国と統一してしまうだろう。政府がそうするのではなく、市民がそうするのだ。「文化」が同じ。同じやり方で、中国本土でさらに金がかせげるなら、台湾にこだわる必要はない。もし中国本土へ行くのがいやなら、台湾のひとは世界のどこへでも行くだろう。ヨーロッパでも、南米でも、アフリカでもかまわない。そこで金を稼いで「チャイナタウン」をつくるだけである。
 「アメリカタウン」をつくることができないアメリカは、中国人には絶対に勝てない。アメリカの(つまり、新大陸の)成功は、中国が世界へ広がっていくための「過程」にしかすぎない。アメリカは「アメリカ合衆国」として北米大陸にそこにとどまりつづけ、そこで変質しつづけるしかない。

 中国のチベット、新疆ウィグル政策は間違っているが、それは「文化」の多様性を中国が拒んでいるからである。世界はマルチ文化の時代に入っている。マルチ文化をどう生きるか。マルチ文化(人種の坩堝)であるはずのアメリカが、それこそアメリカをマルチ文化が共存する社会につくりかえることができれば、そういう世界に成長できれば世界の事情は違ってくるが、アメリカはどうも逆行している。いまだに差別問題を抱え、女性の権利も抑圧し始めている。「台湾有事」も、古くさいアメリカ帝国主義というシステムに逆戻りしたいという欲望が生み出した「幻想」だ。
 恐ろしいのは中国ではなく、時代後れの「幻想」にしがみついているアメリカと、その政策を盲信している日本の古くさい政治家だ。

 

 

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小見さゆり『水辺の記憶』

2022-08-11 17:40:05 | 詩集

小見さゆり『水辺の記憶』(書肆山田、2022年07月08日発行)

 小見さゆり『水辺の記憶』には、詩とは何かの、ひとつの「模範解答」のようなものがある。「まばたき」という作品の後半部分。

まばたきをしている間に地球がすばやく回転した
まばたきをしている間にスカートがめくれあがった
まばたきをしている間に数式を忘れた
まばたきをしている間に地面から鳥の影が消えた

 「まばたきをしている間に」という共通のことばが、別々のことばを引き寄せてくる。無関係なものが「まばたきをしている間に」によって共通のものになる。それがほんとうに共通しているかどうかは、わからない。わからないが、「共通項(まばたきをしている間に)」があるために、共通のものとして見えてくる。
 ただし。
 共通といっても、そこには「断絶」がある。なぜ共通しているか、わからない。無意味(ナンセンス)な、「断絶」と「接続」。そして、この「断絶」は、ある世界から、たとえば「地球がすばやく回転した」「スカートがめくくれあがった」が「切断」されてきたものだとすれば、これを「切断」と「接続」と呼び直すことができる。
 「切断と接続」、これが詩である。

まばたきをしている間にさかあがりを覚えた
まばたきをしている間に海岸の麦穂がはためいた
まばたきをしている間に草の中で卵が孵った
まばたきをしている間に水滴がこわれた
まばたきをしている間に一匹のクロアゲハが昇天した

 この「切断と接続」がしてあり続けるためには、「驚き」が必要である。「驚き」(意外性)をどれだけ持続できるか。
 小見の課題といえる。この詩に限定された課題ではないような気がする。どこかに「結末」があるようなことばの動きを感じるからである。
 最後の部分を引用する。

まばたきをしている間にひとつの声が路上を横切った
まばたきをしている間に砂漠のことを考えた
まばたきをしている間に何も起こらなかった
まばたきをしている間にあなたはわたしだった
まばたきをしている間にわたしはあなただった
わたしたちは歩行だった呼吸だったときめきだった
わたしたちは水辺だった木漏れ日だった鳥のさえずりだった
すべてはただまぶしかった
世界は単なるまぶしさとしてそこにあった

 「まばたきをしている間にあなたはわたしだった/まばたきをしている間にわたしはあなただった」はナンセンスな詩(ことば)が抒情(感情的意味)にかわるために、必然だったかもしれない。小見には。しかしナンセンス(わからない/無意味)を抒情に仕立てた瞬間、死んでしまう詩というものがある。
 小見は、それまで書いてきたものを「歩行だった呼吸だったときめきだった……」と要約して、そのあとで「切断と接続」の、そのナンセンスなスパークを「まぶしかった」と「定義」している。「結論」を出している。
 「結論」を書かないと落ち着かないのだと思うが、詩は結論ではない。ましてや、ナンセンスに「抒情」という「結論」があるのでは、それまでの「まぶしさ(ナンセンスのまぶしい輝き)」は消えてしまう。
 「まばたきをしている間に地球がすばやく回転した」で始まり、「まばたきをしている間に砂漠のことを考えた」で終わればよかったのになあ、と残念な気持ちになる。
 意味とは、作者がつくらなくても、読者がかってにつくってしまうものである。

 

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Estoy loco por espana(番外篇171)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-10 22:33:57 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens



植物の芽吹きを感じさせる二つのやわらかい形。
台座に対応する2つの形状。
バランスと調和が面白い。

Dos formas suaves....me parece  que son a las plantas en ciernes.
Dos formas correspondientes en el pedestal.
Interesante equilibrio y armonía.

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N氏の手紙

2022-08-09 22:30:24 | 考える日記

 中井久夫に「N氏の手紙」というエッセイがある。(『記憶の肖像』、みすず書房、1992年10月21日発行)「N氏とは最近物故された有名な詩人である。」とはじまる。読みながら、私は、このことばをコピーするように「N氏とはきのう(8日)物故された有名な訳詩人である。」と書きたくなった。中井久夫が死んだ。
 中井久夫は、そのエッセイの中で西脇順三郎に手紙を書いたこと、西脇から返信が来たことを書いている。私も中井久夫に手紙を書いたことがある。『カヴァフィス全詩集』(みすず書房)を読んで、感想を書いた。訳語のリズムに感心した、口語のリズムに肉体を感じた、というようなことを書いたと思う。私は中井久夫を知らず、単に「翻訳者」であると思っていた。しかし、その「翻訳」は「翻訳」というよりも、完全に日本語になった詩だった。中井語だった。、感動を抑えられずに思わず手紙を書いたのだと思う。そのとき、同人誌「象形文字」を一緒に送ったかもしれない。
 中井久夫から返信が来た。私の詩への感想も書いてあった。それで、私はまた手紙を書いた。「私が、お礼の形でもう一度、氏に手紙を書いたのは、多少の得意と多量の甘えであったろう。」と中井は「N氏への手紙」で書いているが、私も、そんな気持ちだっただろう。「氏と私との手紙の往復は二回で終わった。」と中井は書いているが、中井と私との手紙の往復は、その後も何回もつづいた。
 そうしているうちに、中井から、未発表の訳詩がある、「象形文字」に掲載できないか、と聞かれた。とても驚いた。しかし、同時に、大好きな中井の訳詩(ことば)を同人誌に掲載できるのなら、こんなにうれしいことはない、と思った。そして、掲載がはじまった。ヴァレリーの『若きパルク/魅惑』の(みすず書房)は、岩波書店の『へるめす』にも掲載されたものだが、実は、初出は「象形文字」である。このことは、「初版あとがき」にも書いてある。(私が持っているのは「改訂普及版」なのだが、収録されている。「初版」は、どこへ行ったのか、見当たらない。)こんなことは「自慢話」のようで、あまり書きたくはないのだが、書かずにいられないのは「私の自慢話」を通り越して、そこに中井の「人格」を感じるからである。「象形文字」に書いたことなど、わざわざ「あとがき」に書く必要はない。それを読んだとしても、だれも「象形文字」のことは知らないし、私の名前だって知らない。しかし、中井は、そういうことをきちんと書く人間なのである。出会った人をないがしろにしない。あったことは、そのままきちんと書く。「経過」を省かない。これは手紙のやりとりで感じたことでもある。
 その後も、中井との「文通(と、中井は、あるとき手紙で書いてきた)」はつづいた。新たに、中井から「リッツォス」の訳詩を「象形文字」に掲載しつづけた。経済的事情で「象形文字」の発行ができなくなったあと、ブログで掲載(発表)をつづけた。未発表のまま終わらせてはいけないと思った。預かった訳詩に対して、なんとか責任を果たしたいと思った。私の「感想」も同時に掲載した。
 私の「感想」に、便箋で20枚近くの「返信」が来たことがある。引っ越しの過程で紛失してしまったが、ことばと色、ことばと音などについて書いてあった。私が中井の訳から音楽と色を感じるというようなことを書いたからだと記憶している。リッツォスの詩だけではなく、日本人の詩集、さらにだれかの訳した訳詩集についても、ことばと音楽、ことばと色彩について何度か「文通」した。どんなことにも、とてもていねいに中井自身の体験と考えを聞かせてくれた。
 リッツォスの訳詩のブログ掲載が終わってから数年。突然、中井久夫から「リッツォス詩集を出したい。谷内の書いた感想と一緒にした一冊にしたい」という電話があった。「私の感想は、リッツォスのことばの出自、時代背景を無視している。組み合わせて一冊にするのは不適切ではないか」と言ったら「詩だから、それでいい」という返事だった。それで好意に甘えることにした。甘えられるときは、甘える方がいい、というのが私の考えである。甘えさせてくれるのは、私のことを大事にしてくれているからだろう。中井の書いている「多少の得意と多量の甘え」を、私はそのまま生きたのである。 『リッツォス詩選集』(作品社、2014年7月15日発行)は、そうやって生まれた。
 中井はあるとき、友人に会った。その友人は精神医学関係の人で、彼に会った西脇が「中井を知っているか、今どうしているか」と聞かれたと、中井に告げた。「書簡往復の七年後である。」と書いている。中井から自宅に電話があったのも、リッツォスの訳詩掲載が終わって「七年後」くらいだったかもしれない。
 何か、いろいろなことが重なり、よみがえるのである。
 中井は、最後の方に、こう書いている。友人と西脇の対話のつづきである。

 私が医学部に行ったむねをいうと、氏は「そりゃいかん」と叫ばれたそうである。その意味はわからない。

 「象形文字」を発行しなくなった。そのことに対して、中井は「そりゃいかん」と言ってくれたのかもしれない。そして、私を励ますつもりで、共著を出そうと誘ってくれたのかもしれない。「その意味はわからない。」もちろん、これは私の「多少の得意と多量の甘え」のまじった感想である。
 「甘え」で終わらせないために、私は、また詩を書かなければ、と思う。「感想」を書かなければ、と思う。

 

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中井久夫が死んだ

2022-08-09 20:00:59 | 考える日記

中井久夫が死んだ。
なんと書いていいのかわからない。
でも、書かずにいられない。
 
カブァフィス、リッツォスの訳詩。
そして、最初のエッセイ集『記憶の肖像』も好きな一冊だ。
実は、私は「特別版」を持っている。
カバーの写真が「裏焼き」なのだ。
中井さんからもらったものだが、もらったあと、「写真が裏焼きだった」と教えてもらった。
たぶん、すぐにカバーを作り替えていると思う。(確かめてはいない。)
ふと開いたページに「花と時刻表」という短い文章がある。
「今年の夏は福岡から佐賀、最後に山口と各駅停車の旅行をした。」とはじまる。
偶然開いたのに「福岡」の地名が出てくる。
その偶然の一致がうれしい。
 
*
 
ふつうは「中井久夫が死んだ」と書かないだろうし、「(本を)もらった」とも書かないだろう。
しかし、私は「中井久夫氏が死去した」とか「本をいただいた」とか、書けない。
遠いひと、私とは無関係な「立派なひと」になってしまう感じがする。
もっと、「近しい」。
その感じを、ことばでごまかしたくない。
 
*
 
新神戸の駅では佐賀県の入り口「唐津」までしか切符を売らない。後は向こうで買ってくれという。筑肥線の車中で乗り継ぎの手続きをするついでに、なぜかをたずねた。機械が出さないのだそうである。ほんとうだろうか。
これは書き出しの一行につづく文章だが、とても不思議な気持ちになる。
列車を乗り継いで、知らない世界へ入っていく。その知らない世界は、「出発地」では売ってくれない。
たどりついた場所で買い足さないといけない。
たどりついたところから、さらに少しずつ、少しずつ、先へ進む。
中井久夫が書いている「結論」はそういうことではないのだが(末尾の文章は美しいが、引用しない)、私は、いま引用した文章に中井の「生き方」を見る感じかする。
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Estoy loco por espana(番外篇170)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-08 23:15:27 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

街角の孤独。
深夜の街に、一つだけ明かりがついているビルを見るような感じ。
他にもビルはあるのだが、それはもう眠っている。
明かりのついたビルを、ひとりの男が見ている。
男もまた、眠ることができないのだ。

La soledad en las calles.
Es como ver un edificio de la ciudad a altas horas de la noche con una sola luz encendida.
Hay otros edificios, pero ya están dormidos.
Un hombre vigila el edificio con las luces encendidas.
El hombre tampoco puede dormir.

 

 

 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇169)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-07 21:48:43 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

水平と垂直のバランスが美しい。交差する線がつくりだす空間の変化がとてもリズミカルだ。
斜めの方角から撮影した写真では、動きにスピード感がある。
動かない彫刻なのに、スピード感があるというのは、とてもおもしろい。

El equilibrio entre la horizontalidad y la verticalidad es precioso. Los cambios de espacio creados por las líneas que se cruzan son muy rítmicos.
En la fotografía tomada desde un ángulo oblicuo, hay una sensación de velocidad en el movimiento.
Es muy interesante que la escultura tenga una sensación de velocidad aunque no se mueva.

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エマニュエル・クルーコル監督「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」(★★★)

2022-08-07 17:00:31 | 映画

エマニュエル・クルーコル監督「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」(★★★)(2022年08月07日、KBCシネマ、スクリーン2)

監督 エマニュエル・クルーコル 出演 カド・メラッド、マリナ・ハンズ、ロラン・ストッカー

 ベケットの「ゴドーを待ちながら」を囚人が演じる。「待っているだけ」という状況が囚人の状況と重なる。そこから、ふいに「現実」が噴出してくる。それをそのまま舞台に生かす、という演出方法で演劇そのものは大成功を収める。
 映画は、その成功までの過程を手短に紹介する。そして、「それ以後」をていねいに描写していく。これがなかなかおもしろい。芝居の中に、隠れていた現実(意識できなかった現実)がことばとして動き始めるとき、そのことばを語った役者たちの現実はどうなるのか。たとえば芝居の上演後、刑務所へ帰って来た囚人たちは、持ち物検査や身体検査を受ける。それは現実? それとも「芝居」(虚構)の一部? もし、それが絶対に隠すことのできない現実だとすれば、それをことばにするとどうなる? ベケットは、もう助けてくれない。つまり、自分のことばを探し、自分で語らないといけない。どう語ることができるか。
 このむずかしい問題を、囚人たちは、とてもみごとに解決して見せる。
 語らないのである。最終公演の直前、「ゴドーを待ちながら」を演じた五人は、逃げ出してしまう。「現実」の世界へ「隠れてしまう」。声を出せば、見つかり、刑務所に戻される。もちろん、再び逮捕されるかもしれないという「不安」はあるが、それよりも求めていた「現実」のなかに隠れてしまう。その「現実」がどんなものか、彼らが語ることはないから、それが何なのか、私にはわからない。ただ、事実として、そのことが伝えられる。
 ことばにしてはいけないことがあるのをことばにしたのが「ゴドーを待ちながら」だとすれば、ことばにしてはいけないことをことばにしないまま生きているのが、逃亡した五人の囚人たちである。
 このことに、芝居にかかわった人間は、どう向き合うことができるか。五人を演出した演出家(ほんとうは役者、「ゴドー」を演じたこともある)は、どうことばにすることができるか。それは、ほんとうはことばにしてはいけないことかもしれない。しかし、人間だからことばにしてしまう。それがクライマックスなのだが。
 このクライマックス寸前の、二、三分の描写がてともおもしろい。ここだけなら★10個をつけたいくらいの、わくわく、どきどき、はらはら、なのである。五人が逃亡したことを知った演出家は、五人を探し回る。上演開始まで20分。劇場内を探し、街を探し、鉄道(地下鉄)の駅にまで行く。ひとりで走り回る。この間、ひとこともしゃべらない。いや、「五人を見なかったか」というようなことは訪ねるが、ほかはことばにならない。ことばは彼の肉体の中で動き回っている。ことばは、それが自分の声なのに、聞き取れないくらいに錯綜しているだろう。つまり、聞こえすぎて、わかる必要がないくらい明確になる。
 あ、この瞬間こそが、「ゴドー」の舞台なのだ。「ゴドーの登場人物」は、彼ら自身の声が「わかりすぎる」。わかりすぎて、わからなくなる。他人に説明のしようがない。それがわかりすぎるということだ。
 だからね、映画は、ここで、中途半端のまま終れば、大傑作になったと思う。
 でもね、映画だから「結末」が必要になる。「結末」に本物のベケットの反応まで「引用」してしまう。しようがないといえばしようがないが、それでは「ベケットの反応」は明確になることで、逆に存在しなくなってしまう。
 あ、何を書いているか、たぶん、誰にもわからない文章になっていると思う。
 それでいいのだと思う。
 私はこれから「ゴドーを待ちながら」を読み返すことにする。
 

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NATOと統一教会

2022-08-07 10:06:36 | 考える日記

 NATOと統一教会は、何の関係もないように見える。(あるかもしれないが、私は、知らない。)けれども、非常に類似点があると私は感じている。2022年08月07日の読売新聞(西部版・14版)は3面で「対ロシア 欧州政局不安/インフレ拍車 高まる不満/英伊首相辞任/仏政権 議会苦戦」という見出しで、現在のヨーロッパの「揺れ」を報告している。
 ロシアのウクライナ侵攻を非難するために、ヨーロッパは団結して「経済制裁」に踏み切ったが、うまくいかない。物価が上がり、不満が続出している。それを政権が抑えきれない、ということが起きている。
↓↓↓↓
 経済的な余裕が失われ、国民の関心はウクライナ情勢から離れ始めた。調査研究機関「欧州外交問題評議会」が欧州主要10か国で実施した調査(6月中旬発表)では、英仏伊とスペイン、ポルトガル、ルーマニアの6か国で「ウクライナ危機にこれ以上、軍事費を拠出するべきではない」との意見が多数派となった。ウクライナへの「支援疲れ」は、無視できないレベルにある。
↑↑↑↑
 やっと「政権の声」ではなく「市民の声」に注目し始めたということだと思うが、これはロシアのウクライナ侵攻が起きたときから想像できたことである。「政権の声」は「市民の声」ではないのだ。

 「政権の声」と「市民の声」のいちばんの違いがあらわれたのが「NATOの東方拡大」だろう。ベルリンの壁が崩壊し、ワルシャワ条約機構が解体したあと、なぜNATOは存在し続けるだけではなく、東方に拡大し続けたのか。「ロシアは危険だ」と言い続けたのか。実際に、ロシアのウクライナ侵攻が起きると、NATOの「ロシアは危険」(いつか攻撃してくる)という「予測」は当たっているかのように見える。しかし、クルミア侵攻(併合)のときは、今回のような「ヨーロッパ全体の統一行動(経済制裁)」は起きなかった。何が違ったのか。違うのか。わからないことは、保留しておいて、私はわかることだけ考える。
 NATOの東方拡大は、ソ連から独立した(?)国(政権)の要求に応じる形で起きたかのように言われているが、ほんとうなのだろうか。(ウクライナは、今回、たしかにウクライナ側から加盟を申請した。フィンランド、スウェーデンも加盟申請した。)東欧諸国が加盟申請したのだとしても、それは「自発的意思」だったのかどうか、私は疑問に思っている。
 むしろ、ワルシャワ条約機構が解体し、NATO事態の「軍備増強」の理由がなくなったことが影響しているのではないのか。それまでのNATO加盟国に軍備増強を呼びかけても、応じる国は少ないだろう。これでは、アメリカの軍需産業は成り立たない。そこで目をつけたのが、かつてソ連に支配されていた東欧諸国である。「またロシアに支配されるかもしれない。ロシアに支配されないためには(安全に暮らすためには)、アメリカの軍事体制のなかに入り、アメリカに守ってもらう必要がある」。こう呼びかければ、ソ連支配下の記憶がある「政権」は、それになびくだろうなあ。一方で「不安」をあおり、他方で「安全」を手に入れるためにはどうすべきかを語る。これって、統一教会の「地獄へ落ちる」(これが正しい表現かどうかわからないが)、「天国へ行くためには、壺を買え」に似ていない? ロシアに再び支配されたくなかったら、NATOに加盟し、アメリカ産の軍備を買え。私には、おなじにしか見えない。
 だいたいねえ。
 ベルリンの壁崩壊後に起きたことは、NATOの東方拡大とは「逆」ともいえることだ。いくつもの国が協同して「防衛」に専念するということとは逆のことだ。ひとつと思われていた国が、つぎつぎに「独立」した。「チャコスロバキア」とか「ユーゴスラビア」とかは、かつての「国(権力)」のなかで「分裂」した。私が中学生の頃、まったく知らなかった国が、まるでアフリカ諸国の「独立」のように、つぎつぎに「内部分裂」の形で増殖した。そして、そのとき、その「市民」が要求したのは、自分たちのアイデンティティーの確立である。文化の多様性の主張が始まり、それがつぎつぎに認められていった。つまり、ヨーロッパは、文化の多様性を生きる「地域」として充実していった。それをヨーロッパは受け入れた。その延長線上に、たとえば「難民」の受け入れがある。多様な文化をもった人間が、自分たちの国に入ってくる。そして共生する。それを「いいこと」として受け入れた。
 このとき、困るのは誰?
 アメリカが困るだけだ。アメリカが「ヨーロッパ化」したらどうなるか。「文化の多様性」を受け入れることを求められたらどうなるか。いまも白人以外への差別が根強く残るアメリカに、さまざまな文化をもった人間が押し寄せてきて、「共生」を求められたら、アメリカはどうなるか。多様性に対する許容力を持たないアメリカは、大混乱になる。東欧で起きたような「独立運動」が各地で起きるかもしれない。
 なんといっても、ヨーロッパが「多様性許容」という形で団結してしまったら、「武器」を売る相手がいなくなる。「多様性許容/多様性共存」の世界では、戦争が起きるはずがないのである。戦争は「排他性」からはじまる。ヨーロッパは「言語の多様性」を生きている。「一つのことば」で団結しようとはしていない。「複数のことばの共存」は「複数の思想の共存」である。これは、「一つの思想」で世界を統合しようとする立場の「権力」から見ると、いちばん、目障りだろう。
 アメリカが目の敵にするのも、統一教会が目の敵にするのも、「統一された思想」への「疑義」である。「それは違うんじゃないか」という疑問を持つ人間である。だからこそ、「洗脳」をめざす。アメリカがリーダーになって、世界の安全を守る。統一教会がリーダーになって世界を支配する。アメリカは、その「洗脳」の道具として「武器(アメリカの核の傘下)」を掲げ、統一教会は「天国へ行ける壺」を掲げる。アメリカも統一教会も、それぞれ「仮想敵(国)」を用意し、それをちらつかせる。
 そして、このアメリカと統一教会では、「共産主義」が「仮想敵国」として「共通」した。「自由主義」とは「金持ちがどこまでも自由に金をかせげるシステム」のことであり、そのシステムのもとでは、貧乏人はどこまでも貧乏人のまま金持ち(権力)に奉仕するという形で完結する。今の日本だ。正規雇用者は非正規雇用者に、非正規雇用者はパートに、パートはアルバイトにとどんどん賃金を下げられながら、資本家の金もうけを支える。
 ヨーロッパは、多様な言語の国である。言語が違えば思想が違う。「国語」は、その国の思想の到達点である。それぞれのことばを話す人間が「権力」に対して異議を唱え始めた。それが、ロシアのウクライナ侵攻によって、次第に見えてきたということだろう。市民にとって大切なのは自分の生活であり「国家権力」という抽象的な「概念」ではない。
 今後、どうなるのか予測はつかないが、「権力」による「統合」は、もう起こり得ないと考えた方がいいと思う。どの「権力」を選ぶかではなく、どういうかたちの「多様性」を生きるか、多様性の共存のために、自分の「思想」をどう鍛えなおすか、考えないといけない。

 いまは、暑いから想像しにくいが、これから冬に向かうとき、ヨーロッパは悲鳴を上げる。ロシアの石油、ガスを拒絶したまま、冬を越せるのか。すでに、そういうことを心配しているヨーロッパのひとはたくさんいる。暖房がない、食糧がない。それなのにNATOに支出する。そんなことは許せない、という声が高まるだろう。
 一方、フランスには原子力発電所がたくさんあるが、他の国はそうではない。これから建設するにしても、今年の冬には間に合わないだろう。しかし、今回(次の冬)の体験が呼び水になって、原発の増設は、ヨーロッパでドミノ倒しのように広がるだろう。以前にも書いたが、それは核の原料の確保でもあるから、アメリカは大歓迎するだろう。原発建設の技術をもっている日本も大歓迎するだろう。でも、そのとき、世界はどうなるのか。「多様性の要求」は、また違った形で噴出するだろう。電力確保のためには「原発が必要だ/原発は経済的だ」という「統一概念」への反動が起きるはずである。
 いま必要なのは「統一」ではなく、「統一への疑義」であり、「分裂の許容(多様性の許容)」であると思う。
 NATOや統一教会の「脅し(洗脳)」に対抗するには、多様な思想の確立しかない。私は私の書いていることが「正しい」かどうか知らない。ただ、いま流布している「概念(たぶん権力が用意したもの)」に対する疑問を持ち続けたいから、そのことを書く。

 

 

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広島原爆の日。

2022-08-06 18:28:32 | 考える日記

 広島原爆の日。
 原爆に限定せずに、戦争について考えるところからはじめたい。
 「戦争放棄(軍備放棄)」を語るとき、多くの人が、敵が愛する人(家族)を殺そうとしているの時、戦わないのか、という質問をする。
 だが、誰かが私を(そして家族を)殺そうとしているとき、対処方法は一つだけではない。つまり、戦うという方法しかないわけではない。まず、何よりも「逃げる」という方法がある。もちろん逃げても、敵は追いかけてきて殺すかもしれない。しかし、立ち向かっても殺すだろう。だから、まず最初は逃げる。
 こんな例がいいかどうかわからないが。
 安倍は暗殺された。それは逃げなかったからだ。たとえば大きな物音(銃声と思わなくても)がしたとき、安倍が逃げるとか、しゃがむということをしていたら、それだけでも事態は変わっていただろう。
 殺されたくなかったら、死にたくなかったら、まず逃げる。怖いものからは逃げる。これがいちばん。敵だって、逃げる人を追いかけて殺すよりも(その逃げている人が、とても重要なら別だが)、逃げずに戦いを挑んでくる人間を標的にするだろう。つまり、自分が殺されないようにしながら戦うだろう。
 それから、これから書くことの方がもっと大事。
 愛する人(大切な人)を守るために戦う、家族のために戦うというのと、「国家」のために戦うというのは別のこと。「国家」というのは、家族のように具体的ではない。抽象的な概念である。そんなもののために、私は戦えない。概念なんか、いつでも捨ててしまえる。ほかのものに取り替えても、何も困らない。「国家」というものが抽象的で、具体的ではないからこそ、戦争の問題が話題になったとき、ひとは「国家のために戦わないのか」と大上段に質問するのではなく、「家族が殺されようとしているのに戦わないのか、卑怯者」という具合に論理を展開するのである。抽象を具象に変えて、人を批判する。抽象的な概念のままでは、具体的な人間の行動を批判し続けることはできない、訴えることができないと知っているからだ。人間は、だれでも「具体的」にしか考えることができないし、行動することができない。だから、こう言う。「家族のために戦わないのは、男ではない」。(なんと、ずるい人たち!)
 はい、わかりました。
 でも私は言うのだ。「家族」は具体的だけれど、「国家」は具体的じゃない。そんなものは、私とは関係がない。たとえば、私が「家族」を考えるとき、飼っている犬も含めるが、それは他人から見れば「家族」ではなく単なる犬だろう。逃げるにも足手まといの存在だろう。具体的な存在というのは、それくらい「意味」が違う。「あなたの家族は?」と問われれば、私は「妻と犬がいる」と答えるだろうが、「あなたの国家は?」と問われたら、答えようがない。「国家」には天皇がいるのか、岸田がいるのか。いるかもしれないが、私は彼らを妻や飼っている犬のように具体的に考え、感じることができない。
 私は「ばか」だから(反知性主義者と批判されている)、具体的に考えられないものについては考えない。具体的に考えられないものに対して、ことばを動かさない。「愛国心」なんて、持っているひとの神経がわからないし、「愛国心」を主張するひとの考えもわからない。「家族」のために戦うのはわかる。でも「国家」のために戦うなんて、わからない。「家族」を守るためなら逃げるという方法があるが、「国家」をまもるために国家ごと逃げるということはできる? わけがわからないでしょ?
 こういうわけのわからないもの(抽象的なもの)が声高に語られるとき、それは大惨劇を生み出してしまう。たとえば、広島原爆を。
 アメリカは、日本という「国家」を破壊したかった。戦争ができない状況に追い込みたかった。でも、その「国家」というものをきちんと考えることをしなかった。広島は日本の一部である。つまり「国家」の一部である。だから、それを破壊すれば、「国家」が変わる。戦うことをやめる。たしかに、そうなったけれど、このとき破壊されたもの、犠牲になったのは「国家」ではなく、あくまでも市民という具体的な存在である。名前を持ったひとりひとりが死んでいったのであり、「国家」が死んだわけではない。
 人間というのは、いつでも「具体的」なのだ。多くの人を対象に「人間」を考えるのはむずかしい。だからこそ、「家族」でもいいし「友人」でもいいが、「具体的」に考え、そこから自分の考え(ことば)を点検しないといけない。
 広島の市民は、わけのわからない「国家」というものの存在のために、殺されたのだ。一義的にはアメリカが殺したのだが、日本という「国家」もまた広島市民を殺したのだ。「国家」がなければ、この惨劇は起きなかった。
 アメリカは、原爆投下を「国家」への攻撃という。しかし、実際は、「国家」という抽象的な存在ではなく、広島市民という「具体的な存在(人間)」への攻撃だった。原爆からは、だれも逃げられない。家族を守るために一緒に逃げる、ということができない。そういう逃げることができない市民を、アメリカは殺したのだ。このことは、絶対に、日本人として訴え続けなければいけないことである。

 すこし論点を変えて。
 今年の式典にロシアは招待されなかった。ウクライナへ侵攻し、核兵器の仕様も示唆しているということが原因のようだが、これももっと「具体的」に考えよう。核兵器がどんな惨劇をもたらすか、それがわかるのは広島と長崎だけである。そうであるなら、ロシアの代表は絶対に招待しなければならない。式典に招待するだけではなく、資料館に招待し、惨劇がどういうものであったか「具体的」に理解させる。被爆者の声を「具体的」に聞かせるということが必要なのだ。一発の核爆弾が何を引き起こすか、そのとき市民は「具体的」に、どんなふうに死んでいくのか認識できたら、核兵器を使用するということはできないだろう。
 死んでゆくのは「国家」ではなく「市民」である。原子爆弾ほど、「国家」を守ることと、「具体的な愛する人(家族)」を守ることの違いを明確に教えてくれるものはない。「逃げる」という方法を拒む、殺害されるだけというのが核兵器なのだ。

 

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ペロシのことばと読売新聞の書き方

2022-08-06 11:39:24 | 考える日記

 2022年08月06日の読売新聞(西部版、14版)。1面に「日米、台湾情勢で連携/首相、ペロシ氏と会談 中国演習批判」という記事が書いていある。ペロシの台湾訪問の続報。
↓↓↓
 岸田首相は5日、来日中のナンシー・ペロシ米下院議長と首相公邸で会談した。軍事的な緊張が高まっている台湾情勢をめぐり、日米の連携を確認した。首相は、中国による台湾周辺での大規模軍事演習を「地域や国際社会の平和と安定に深刻な影響を与える」と批判した。
↑↑↑
 中国が台湾周辺での大規模軍事演習をしたのは事実だ。そして日本のEEZ内にミサイル(?)が落下したのも事実だ。しかし、ここにはなぜ中国が台湾周辺で軍事演習をしたのか、その理由が書かれていない。私が何度か問題にしている「時系列」でいえば、「時系列」が省略されて、中国が突然一方的に軍事演習をしたように書かれている。
 中国の軍事演習はペロシの台湾訪問が原因だ。ペロシが台湾を訪問しなかったら、こういうことは起きなかった。
 ペロシは台湾訪問について、こう語っている。(番号は、私がつけた。)
↓↓↓
①ペロシ氏は議員団でアジアを歴訪しており、今月2~3日に台湾を訪問した。首相との会談後、東京都内の在日米大使館で記者会見し、「中国は台湾を孤立させようとしている。我々の台湾との友情は強固だ」と強調した。
②台湾訪問に関しては「台湾やアジアの現状変更が目的ではない」と説明。中国が、世界保健機関(WHO)など国際機関から台湾の締め出しを進めていることなどを挙げ、「中国は台湾の訪問や参加を妨げるだろうが、我々の訪問を阻止して台湾を孤立させることはできない」とけん制した。
↑↑↑
 この順序(時系列)で発言したのかどうかわからないが、①の「台湾の孤立化」とはなにか。②で「中国が、世界保健機関(WHO)など国際機関から台湾の締め出しを進めている」と言っているが、これか。もしそうなら、それは国際機関でアメリカが発言すればいいことだ。台湾を訪問する必要はない。
 さらに「中国は台湾の訪問や参加を妨げるだろうが、我々の訪問を阻止して台湾を孤立させることはできない」には、書かれていないことがある。「我々の訪問」とは具体的には誰のことか。たとえば日本の衆院議長のことか。ヨーロッパ諸国(NATO加盟国の首脳)のことか。主語が明示されているようで、明示されていない。もっと問題なのは、その訪問方法である。ペロシのように、軍用機(たぶん)で台湾に直接乗り込むのか。
 立場を変えて読んでみるといい。日本を例にして考えてみるといい。たとえば、ロシアや中国が、沖縄の米軍基地が沖縄県民を苦しめているという認識を公言し、米軍基地の撤去を求める沖縄県民と連携することを目的に、ロシア、中国の首脳が「軍用機」で沖縄を訪問したら、いったいどうなるのか。大問題になるだろう。
 しかもペロシ(あるいはアメリカ政府)は、「一つの中国」を認めていいる。それなのに①の「中国は台湾を孤立させようとしている。我々の台湾との友情は強固だ」というようなことを言うのは大問題だろう。(①の発言は、台湾でおこなわれたものではないが。)中国は台湾を孤立化、さらには独立させようとはしていない。
 「中国が台湾を孤立させようとしている」のではなく、ペロシが台湾を中国から「孤立/独立」させようとしている。そして、中国を、戦争にむけてあおっている。挑発している。
 もし中国と台湾が「統合」して、ほんとうの「一つの国」になったとき、困るのは誰なのか。台湾の住民か。何度でも書くが、中国人の基本的な姿勢は、金がもうかるならそれがいちばん、である。中国に統合されることでいまよりも金もうけができるなら、それでかまわないと考えるだろう。「金持ち」は、なんだかんだといって「自由」である。それが「資本(自由)主義」の根本。日本でも、貧乏人は「不自由」だけれど、金持ち(資本家)は「自由」でしょ? 政治家と連携して、なんでもできるでしょ? 統一教会は、平気で悪徳商法でもうけているでしょ? 
 共産主義の国になったら「金持ち」は「自由」に生活できない、ということはない。中国にもロシアにも「大富豪」はいる。彼らは「自由」だ。金さえあればなんでもできる、「権力」の一部になれる、というのは、もう「世界共通」の生き方である。それを私はいいとは思わないが、それが現実である。私は年金生活の貧乏人だが、世界をそんなふうに見ている。
 「貧乏人」でもないペロシが、では、何を考えているのか。「大金持ち」はまず自分の「金」を考える。貧乏人のことなんか考えたりはしない。どうやったら、もっと金もうけができるか。いま、世界経済において中国が占める部分は大きい。世界中で中国製品が売られている。私のスマートフォンは中国製だ。スペインの友人の何人かもおなじメーカーのものをつかっている。安いから、売れるのだ。中国製品が売れるということは、アメリカ製品が売れないということだ。(アップル製品は売れているが。)
 その中国に対して、なんらかの「抑圧」をかけることを考えたとき、アメリカは台湾を必要としているのだ。台湾の軍事基地を強化して、中国が「一つ」になることを阻止し続ける。それだけが狙いである。中国以上に、アメリカが台湾を必要としている。
 私のような「見方」は、アジア諸国では「常識」になっているように思える。
 これはASEAN関連会議のニュースを読めばわかる。読売新聞は、外電面で「米中巡り各国温度差」という見出しで内容を伝えている。見出しはさらに「マレーシア『双方の友人でいたい』」「カンボジア 台湾や香港『内政問題』」とつづく。ペロシが台湾を訪問したよかった、と発言している国はない。(読売新聞は、一覧表をつけている。https://www.yomiuri.co.jp/pluralphoto/20220806-OYT1I50025/)
 台湾問題を、米中の対立問題と見ていることがわかる。

 アジアの一国であるはずの日本は、しかし、まるでアジアの国ではないかのように、ひたすらアメリカの言うがままにしたがっている。ペロシに対して、どんな「疑問」も投げかけない。アメリカと一緒になって、中国と戦争をすれば金もうけができると考えている人間が、読売新聞の記者の中にいるということだろう。そして、その「見方」を読売新聞は正しいと言うために、情報操作しているということだろう。日本はアジアの国であるということろから、世界を見直す必要がある。連携すべきなのは、隣国の中国、韓国であり、アジアの諸国なのだ。10年先には、日本人は中国へ出稼ぎに行くしかないのである。日本の経済力が中国を上回るということは、今後、絶対にない。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇168)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-05 08:43:04 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Llorens 
Obra que ha estado seleccionada y expuesta en Cangas (Pontevedra)..Certamen Internacional Arte Morrazo 2022 junio
   

ボタンの花を思い出した。
短歌(日本の短い詩)に「牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ」という作品がある。
牡丹の大輪の花が占める位置は揺るぎなく静かである。
この作品は、その牡丹の花のように、豪華で、同時にその空間(場)を安定させる。
とても美しい。

Me recordó a una flor de peonía.
Hay un tanka (poema corto japonés) : "BOTANKAHA SAKISADAMARITE SHIZUKANAR HANANOSHIMRTAEU ICHINOTASHIKASA".
La gran peonía florece y ocupa el espacio.Entonces el espacio es muy tranquilo y muy estable. Nadie puede entrar en allí.
Esta obra, al igual que la flor de la peonía.
Es muy hermosa.

 

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読売新聞のウソのつき方

2022-08-04 17:11:16 | 考える日記

 2022年08月04日の読売新聞(西部版・14版)の一面。「米台の団結を強調/下院議長、蔡総統と会談」という見出しで、こう書いている。(番号は私がつけた。)
↓↓↓↓↓
①【台北=鈴木隆弘、北京=大木聖馬】ナンシー・ペロシ米下院議長は3日、訪問先の台北で蔡英文総統と会談した。米国の台湾に対する揺るぎない支持を表明し、中国の脅威に直面する台湾との連携を強化する意向を示した。中国はペロシ氏の訪台に反発し、射撃訓練や軍事演習で圧力を強める構えで、緊張が高まっている。
②蔡氏は会談で「台湾海峡の安全は世界の焦点だ。台湾が侵略を受ければ、インド太平洋地域の衝撃となる。台湾は軍事的脅威に屈しない。台湾は民主主義を守り、世界の民主主義国家と協力する」と訴えた。
③ペロシ氏は「台湾が多くの挑戦を受けている中で、米台が団結することが非常に重要だ。それを外部に示すため、訪台した」と台湾重視を強調した。
↑↑↑↑↑
 ①は「前文」。記事全体のことを「要約」している。
 問題は②③の順序。これを読む限り、蔡が台湾の危機を訴え、ペロシが、台湾を守るということを中国に示すために台湾を訪問し、蔡との会談で、それを表明したと読める。どうしても、そういう時系列を想定してしまう。
 ところが、実際の「時系列」は違う。
 読売新聞は、「時系列」を「ペロシ下院議長の台湾での動静」という表にしている。
 (https://www.yomiuri.co.jp/pluralphoto/20220804-OYT1I50016/)
 それによると、2日深夜にペロシは台湾に到着し、そこで声明を発表している。「台湾の民主主義を支持するという米国の揺るぎない関与に敬意を評するものだ」。
 これは、非常にわかりにくい表現である。ことばを補うと、「台湾の民主主義を支持するという米国『政府』の揺るぎない関与に『下院議長として』敬意を表するものだ」ということである。アメリカの下院議長(立法機関のトップ)が、アメリカ政府(行政機関、バイデン大統領)の姿勢に敬意を表するために、台湾を訪問した」と言っている。台湾の姿勢を支持するために台湾を訪問したのではなく、アメリカ政府の姿勢を支持しているということを表明するために(アメリカでは政府と議会の意見が一致している表明するために)台湾を訪問した、と言っているのだ。つまり、台湾のことなんか、ぜんぜん気にしていないのだ。
 番号をつけるとすれば、これは「0」(出発点)なのである。
 これを受けて、蔡は①のように言っている。だから、ここにもことばを補えば、「『アメリカ政府が言っているように』台湾海峡の安全は世界の焦点だ。台湾が侵略を受ければ、インド太平洋地域の衝撃となる。台湾は軍事的脅威に屈しない。台湾は『アメリカと協力して』民主主義を守り、世界の民主主義国家『のリーダーであるアメリカ』と協力する」と言っているのである。
 つまり、これは、そう言わされているのである。もちろん、蔡は中国の侵攻を望んではいないが、侵攻を防ぐ手だてととしてアメリカとの軍事協力が最適であると考えているかどうかは、この発言からだけでは、わからない。
 蔡にそういわせておいて、ペロシは「アメリカと台湾の団結を示すために、台湾を訪問した」と念を押している。つまり、アメリカと協力しないなら、どうなっても知らないぞ、と脅しているのである。
 だからこそ、会談のあと、ペロシは釈明している。大慌てで、つけくわえている。
↓↓↓↓↓
④会談後の記者会見でペロシ氏は、1979年の断交後の米台関係を定めた「台湾関係法」に触れ、「『一つの中国』政策を尊重しながら、米台が共通の利益を進めるため制定された」と述べた。ペロシ氏の訪台に反発を強める中国に対し、配慮する思惑があったとみられている。
↑↑↑↑↑
 「『一つの中国』政策」に反対するわけではない、と。
 ばかみたいだねえ。「一つの中国」を認めているなら、中国が台湾を専用機(たぶん米空軍機)で訪問する必要はない。アメリカ(空軍)はいつでも台湾に上陸できる、ということを「見せつける」必要はない。中国の「許可(認可)」を事前にとって、中国本土を訪問し、ついでに台湾を訪問するということもできるはずなのに、そういうことはしていない。どうやって中国空軍の管制領域をくぐり抜けたのか知らないが、あくまでも、中国の「意思」とは無関係に、アメリカは台湾に米軍機を着陸させることができるかということを、「具体的」に「見せつけたの」のである。
 こんなことをされたら(つまり、アメリカ軍はいつでも台湾に、アメリカが望むときに上陸できる、ということを示されたら)、蔡は「アメリカに協力する」としか言いようがない。「アメリカのやり方には反対である」といえるはずがない。(蔡が実際に、どう考えているかはわからないが。)中国だって、こんなことをされたら気分がいいはずがない。「台湾は中国の一部(一つの中国)」なのに、アメリカの軍用機が「領空」を侵犯し、台湾に着陸したのである。アメリカの民間機でもないし、マレーシア(出発地)の民間機でもない。時間も、なんと、深夜である。

 問題は、ここからである。
 「台湾有事」がしきりにいわれているが、それはいったい誰が「望んでいる」ことなのか。台湾は、もちろん、そんなことを望んでいない。台湾が戦場になることを望むはずがない。
 中国はどうか。中国だって、望んではいない。世界から批判されるだろうし、だいたい、台湾に侵攻しなくても、中国の経済発展がつづけば、台湾は中国への「統合」を希望するだろう。そんなことは中国人なら、だれでもわかる。中国本土が「貧乏」だった時代に、金持ち連中が「台湾」へ逃亡したのである。いま台湾の金持ち連中は「中国」にも家を構えている。中国人は非常に明確な思想を持っている。アメリカ人以上に、「金持ちがいちばん幸せ」という考え方である。「中国」で金がかせげるなら、「台湾」を捨てて「中国」へ行く。「民主主義」なんて「金次第」と考えている。(と、書くと、台湾のひとに叱られるかもしれないが。中国人にも叱られるかもしれないが。)これは、金をかせげるなら、なんでも中国でつくり、それを世界に売るという「資本主義」を実践していることからもわかる。アメリカが何を言おうが、世界中が中国製品を買っている。それで中国が儲かっている。何か文句ある?というのが中国の生き方だ。この経済活動を中国人そのものが支えている。世界で中国製品を売って、中国人が金持ちになる、を着々と実践している。台湾に住む人(金持ち)も、その流れに乗りたいと思っているだろう。
 そうなったとき、困るのは、アメリカである。アメリカの製品が売れない。それが、アメリカにとっては困る。では、どうするか。中国の製品が、世界で売れなくなるようにするためにはどうすればいいか。
 ウクライナと同じことをすればいいのである。ウクライナをそそのかして、ロシアにウクライナ侵攻をさせる。ロシアを戦争を引き起こした国として批判すれば、世界の多くはロシアから製品を買わなくなる。経済ボイコットである。これは、成功するのか。ヨーロッパでは、半分成功したが、半分失敗している。ロシアのガスは確かにヨーロッパでは売れなくなった。しかし、その反動で、ヨーロッパはガス不足に陥り、ウクライナの小麦も輸入できなくなり、物価はどんどん上がっている。ヨーロッパの方が、音を上げ始めている。それだけが原因ではないが、イギリスでは首相が辞任した。イタリアでも、同じことが起きた。ヨーロッパ全体が、揺れている。アメリカも、アメリカの石油、武器が売れるのはいいが、物価高に苦しんでいる。
 ヨーロッパだけではうまくいかなかったから、それをアジアで展開することで、中国(経済)を封じ込めたい。それがアメリカの狙いだろう。アメリカの「経済的優位」をどうやって維持するか、を考えたとき、アメリカから遠い場所で戦争を起こし、その地域の「経済」をめちゃくちゃにするというのがいちばん簡単な方法なのだ。

 最初にもどろう。
 台湾が、ペロシに台湾に来て、と言ったわけではない。だいたい、それを訴えるなら、まず蔡がアメリカへ行って、「台湾はいま危機にされられている、助けて」というのがいちばんの方法だろう。ペロシが台湾に押しかけて、彼女の考えを押しつけたのである。ペロシの考えに同調するように、蔡に求めたのである。
 だれが最初に行動を起こしたか、だれが最初に発言したか。そこをごまかして、蔡が協力を求め、ペロシがそれに応じたという形で、ニュースをでっち上げてはいけない。
 ロシアがウクライナを侵攻したのは、確かにロシアが悪い。しかし、その前に何があったか。その隠れている「時系列」から、いま起きていることをみつめないといけない。
 安倍の暗殺もおなじ。安倍を殺したことは悪い。容疑者は悪い。しかし、容疑者が安倍を殺そうと思ったのはなぜなのか。そこから見つめなおさないと、何も解決はしないだろう。
 どんな行動にも「時系列」がある。そして、その「時系列」は、ときどき「操作」されて表現される。過去を隠しただけでは「ウソ」とは言わないかもしれない。しかし、それが知らずにしたことなら「ウソ」ではないだろうが、知っていて「過去」を隠して「時系列」をでっちあげるのは「ウソ」の始まりである。
 とんでもない「大ウソ」がはじまっている。そして、それに日本が巻き込まれる。わかっていて、読売新聞は、それに加担している。「別表」にしたペロシの「声明」を記事本文に書き込むだけで印象がまったく違うのに、あえて「時系列」がわからないように操作している。きっと、私のように、書かれている「素材」を組み立て直し「時系列」を確かめる読者はいないとタカをくくっているのだろう。

 

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