安藤元雄『恵以子抄』(書肆山田、2022年08月12日発行)
安藤元雄『恵以子抄』(「恵」は、正しくは旧字。本文中も)は、妻の死を書いている。死を書いていると書いたが、死は書きようがなく、書こうとすればどうしても生にもどってしまう。その生は、妻の生であり、安藤自身の生である。そこに人間の悲しみがある。
この不思議な感じ、どうしようもない何か絶対的な不条理が「恵以子抄」に書かれている。
21ページから22ページにかけての、次の一連。
思うように歩けなくなった恵以子のために
家中に手すりを取りつけた
寝室に居間 廊下と階段 手洗い
洗面所や風呂場 玄関に勝手口
恵以子がいなくなって手すりだけが残った
いまは足腰の衰えた私が
もっぱらそれに頼って暮らしている
死は「いなくなる」ことである。それ以外のことは、わからない。死んだ人は死について語らないし、死を経験した人もいない。だから「いなくなった」人間を思い出す。たとえば、残された「手すり」を通して、「思うように歩けなくなった恵以子」を。
そして、この「思うように歩けなくなった」は、恵以子が生きていたときは、一種の想像である。安藤が、恵以子は思うように歩けなくなったと思っている。それがどういうことか、わかるようで、わからない。自分の「肉体」ではないからだ。想像はできるが、想像は「わかる」ではあるけれど、どこかもどかしいものがある。
それがいま、「足腰の衰えた」安藤が、追体験している。「思うように歩けなくなった」安藤が、「思うように歩けなくなった恵以子」になって、それを再確認している。繰り返すとき、事実は真実になる。このとき、真実とは変更できない、という意味である。事実は繰り返しによって真実になる。
この真実から、かけがえのないものが現れてくる。
もっぱらそれに頼って暮らしている
「頼る」という動詞。そこに「かけがえのない真実=正直」が、しっかりと現れてくる。安藤が頼っているのは「手すり」という「もの」ではない。「手すり」をつくったひとだ。それは、安藤の場合、安藤自身ということになるかもしれない。しかし、恵以子にとってはどうか。やりは安藤がつくってくれたのだが、その安藤は安藤という固有名詞であり、また「支えてくれるひと」という普遍(愛という真実)につながる人間である。恵以子は、「手すり」に頼ることで安藤に頼った。そのことを追体験するとき、安藤の中で何かが交錯する。いま残された「手すり」に頼ることは、恵以子に頼ることである。生きていた恵以子に頼って、安藤は「手すり」に触れるのだ。
そして、このとき「頼る」とは、「思う」ことであり、「思い出す」ことである。その「思う」が「思うように歩けなくなった」ということばのなかにある。「思うように歩けなくなった」の「思う」は「自分の思うように」である。そして、そのとき「他人の(愛しているひとの)思い=思う力」に「頼る」ということが生まれる。恵以子が「手すり」をつけてくれと頼んだわけではないかもしれない。けれども安藤は、「手すり」をつけた。そのとき、安藤は「頼られるひと」になった。これが、生きているということだろう。
そして、いま、安藤は「手すり」に頼っているのだが、それは「手すり」という形で残っている恵以子に「頼って」生きるということになるだろう。もちろん、そこに恵以子の「意思」を確認することは、客観的にはできない。しかし、主観は(安藤の主観)は、「手すり」になって安藤を助けようとする恵以子の意思を感じるだろう。
恵以子は生きており、生きて、いま安藤を助けている。安藤は、その助けに頼っている。頼ることで、恵以子をよみがえらせている。
いろいろな思い出がこの詩集には書かれているが、そしてそれは楽しく忘れられない思い出なのだが、その美しい思い出よりも、この「思うように歩けなくなった恵以子」という、いわばつらい思い出と、安藤自身の肉体が重なり、その重なりの中で「頼る」ということばが動き、ふたりがいっしょに生きる瞬間がとても美しい。
「頼りあっていた」ふたりの姿がはっきりみえる。
「愛しあっていた」というのかもしれないが、「頼りあっていた」ということばの方を私は選びたい。「頼りあう」というのは、やがては死んでいくしかない弱い人間(死の絶対性の前では、人間はかならず敗北する)の、「正直」をあらわしていると思う。
私は、この七行を、繰り返し繰り返し読んでしまった。