詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇179)Obra, Antonio Pons

2022-08-21 17:32:17 | estoy loco por espana

Obra, Antonino Pons

Antonio Ponsのこの作品は、小舟に乗った仙人を思わせる。スペインに仙人がいるかどうかしらないが。つまり、どこか東洋的である。
夜、仙人は、小舟を浮かべ、どこかへ行こうとしている。
夜、と私が想像するのは、彼の顔が三日月の形をしているからである。
どこかへ行こうとしている、と思うのは、彼が立っているからである。座って、瞑想しているのではない。
それにしても、なんとリズミカルなのだろう。
形の変化と、色の変化が、静かで、美しい。
背後の茶色い夜。その空間の高さ。左手は、その背景からはみ出している。小さな舟も、背景からはみ出している。
こうした変化が、どこかへ行こうとしている、その動きを強調しているのだが、彼は決して急いでいない。
時間の中で、彼はダンスをしている。どこかへ行くということを楽しんでいる。目的地は問題ではない。移動するその時間を楽しんでいる感じが、とても楽しい。

Al ver esta obra de Antonio Pons, imagino a un ermita en una pequeño barco. Y es algo oriental.
Por la noche, el ermita flota en el barco y se dirige a algún lugar.
De noche, imagino, porque su cara tiene forma de luna creciente.
Creo que va a alguna parte porque está de pie. No está sentado, meditando.
Y sin embargo, qué ritmo tiene.
Los cambios de forma y color son tranquilos y hermosos.
La noche marrón detrás de él. La altura del espacio. La mano izquierda sobresale de su fondo. El barco también sobresale del fondo.
Estos cambios enfatizan el movimiento, intentando ir a algún sitio, pero nunca tiene prisa.
Está bailando en el tiempo. Le gusta la idea de ir a algún sitio. El destino no es importante. La sensación de disfrutar del tiempo que se mueve es muy agradable.

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Estoy loco por espana(番外篇178)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-21 17:30:04 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

二つの曲面が出会う。
それはたとえば男と女。出会ったときに、二人の間で動きが生まれる。ことばが交わされ、肉体が動く。それは、新しい音楽だ。
その瞬間、いままで、そこには存在しなかったものが生まれる。
細い針金が、それう象徴している。
それは、まだ二つの曲面のように頑丈ではない。
しかし、二人を超えてより高いところまで成長していく力を持っている。
その音楽に誘われて、二人はさらに高みを目指して動き始める。
この作品を見ていると、何かしら、新しい「家族」の誕生を見ているような気持ちになる。

Dos superficies curvas se encuentran.
Son, por ejemplo, un hombre y una mujer. Cuando se encuentran, se crea un movimiento entre ellos. Se intercambian palabras, los cuerpos se mueven. Es música nueva.
En ese momento, nace algo que nunca antes había existido.
El fino cable simboliza esto.
Todavía no es tan sólido como dos superficies curvas.
Pero tiene el poder de crecer más allá de los dos hasta alcanzar mayores alturas.
Invitados por su música, los dos comienzan a moverse hacia alturas aún mayores.
Al ver esta pieza, en cierto modo, me siento como si estuviera viendo el nacimiento de una nueva "familia".

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藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』

2022-08-21 11:46:56 | 詩集

藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』(思潮社、2022年07月31日発行)

 藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』を読んで「残す」という動詞が印象に残った。私が気づいたのは「汚職」という詩を読んだときだ。読み直して、点検したわけではないので、不確かだが、それは他の詩にも出てくるかもしれない。ほかのことばで「同じ意味」をもっていることばが動いているかもしれない。詩集を貫く「ことば」として響いてくる。
 「汚職」では、「のこす」という表記で、こうつかわれている。

「汚職で、逮捕されるまえに」と、
父は言いのこし、『詩集』を一冊、
家族の元に書き置いて、

きょう、帰らない旅に出ると言って、
それきり、帰って来ません。

新聞にはだれもが悪く言い立てるけれども、
私には汚職が、父ののこしたしごとなら、
非難をしにくいのです。

 一連目にすでに「言いのこす」という形でつかわれているのだが、私は、それには気がつかなかった。(だからこそ、他の詩でも「残す」、あるいは、その意味のことばがつかわれているかもしれないと想像する。「書き置いて」の「置く」も「のこす」に通じるから。だが、確認はしない。そういうことをしていると、印象が違ってきてしまうから。)
 私が三連目で「のこす」という動詞に気づいたのは、それが「仕事」といっしょにつかわれ、さらに「非難をしにくい」と「非難」ということばといっしょにつかわれているからだ。
 「のこす」は「のこる」である。そして、「のこったもの」は「受け継がれる(残されたものが、受け継ぐ)」。もし非難の対象になれば、受け継がれることはないかもしれない。
 もちろん、非難しながら、受け継ぐということもある。
 だから、私が感じたのは、「のこす」のなかにある、何かしらの「接続/継承/つながり」を含んだ動きである。それは「のこす」がなければ、存在しない。「のこす」という「意思」を感じないときもあるかもしれないが、きっとこの世界にあるものは、だれかが「のこした」ものなのである。そうであるなら、それは、ときとして単に「受け継ぐ」のではなく、「見つけ出し、受け継ぐ、生きなおす」ということになるかもしれない。
 詩は、こうつづいていく。

詩を書くことが、汚れたしごとなら、
汚れた言葉を『詩集』にまとめることが、
この世から見捨てられる人の、
さいごの証しなら、

 「のこす」のは「さいごの証し」。それがないなら、人は完全に「見捨てられる。」消えるのか。ということを考えると、かなりめんどうになる。
 私は「のこす」が「まとめる」と言い直されていることに、なんとなく、こころを動かされた。「のこす」ためには、なんらかの作業が必要なのだ。あるものは、単純に「のこる」わけではない。「のこす」と「のこる」は違うのだ。

怒りで汚れたこころを、
ぼくだって、うたうだろうと思います。

汚い言葉で、書いたらまとめたくなる。
それが汚職なら、
あなたのこころに従いました。

 いいなあ。「のこす」を引き継ぐことを「こころに従う」と言い直している。「従う」がいい。「継承」は「受け継ぐ」のではなく、「従う」のだ。
 では、そのときの「こころ」とは?
 「文法の夢」という詩を、私は思い出す。最後の方に、こんな二行がある。

それでも係り結びは、結ぶことよりも大切な、
思いを託して文末を解き放つのです。

 「思い」が「こころ」だろう。「終わり」はない、ただ「係り結び」という「構造」がある。託された「思い」がある。書いた人(語った人)は「結末」を書かない、言わない。読んだ人、聞いた人が、その「解き放たれたまま」(見完結のままの)ことば受け止め、その運動に「従う」のである。
 「係り結び」は「結末」は書かれていないが、たいてい、「予測」されている。その「予測」に従うのである。
 えっ、でも、それで、どうなる?
 「予測」が正しいかどうかは、だれが判断する?
 そんなものは、だれも判断しない。
「物語りするバクーニン」の末尾に、こう書いてある。

そのあとはどうなるかだって?
古典なんか、なかったのです。
現代語だけがあったのです。

 「現代」だけがある、ということだ。「受け止め、従う」という運動があるだけ。そして、その「受け止め方、従い方」は、それぞれ自由だから、可能性としてどこまでも広がっていく。そういう運動があるだけだ。
 だから「汚い」を受け止め、従ったとしても、それは「美しい」にかわってしまうかもしれない。もっと汚くなるかどうかは、従ってみないと、わからない。
 で、思うのだ。
 「物語」ということばにふれて、私は唐突に思うのだ。
 「のこす」のは「物語(構造)」だろうか、「うた(歌/詩/音楽)」だろうか。「のこる」のは「物語」だろうか、「うた」だろうか。
 物語は詩の容器、散文は詩の容器だと思う。
 詩は物語の構造を破壊し、破片として、残る。それを集め、まとめるとき、また新しい物語が生まれる。あるいは、生まれてしまい、それに抵抗するようにして、内部から詩が爆発し、物語を壊してしまう。
 「係り結び」は完結しない。永遠に運動し続ける。でも、それは「物語」? それとも「詩」? どっちでもない。「係り結び」という運動なのだ。あえていえば「文法」。「法」とは共有された「生き方」だ。「のこす」のは「係り結び」という生き方、「のこる」のも「係り結び」という生き方。「法」を生きる。それが、読んで、書く、という行為ということになるのだと思う。

 

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