もう一点、記しておく。
やっぱりいい最終回だと、書きたいことが止まらなくなるなw
それは、ALOに入って、飛翔が可能な世界になったことの意味。
これは、最後の場面でわかるけど、やっぱり空間的移動の自由を保証してくれる飛翔は、何かを達成した時の爽快感を表すのに最適であること。多分、これが最大の意味だと思う。
SAOの時は、飛翔が使えないので、皆、地面をそのまま進んでいくことしかできない。そうやって、一層ずつアインクラッドを攻略していく。
これは、とても地道な作業。
裏返すと、集団でのスピードに欠けて、その分、集落が出来たり、リズやエギルのように、攻略の第一線には参加せず、いわば後方支援に徹する人たちも出てくる。
その分、世界はリアルになる。
で、これはこの世界での死がリアルの死を意味する設定にした茅場明彦からしてみれば当然の措置といえる。
ついでにいえば、SAOの世界に「魔法」がなく、剣技でしか攻略出来なかったのも、身体的なリアルを維持するためのものだったのだろう。
こうした地べたを這うようなリアルが、SAOの設定上、どうしても必要だった。
対して、ALOは飛翔も魔法も可能で、ある意味、誰もが、スタートから少しだけ全能感を味わうことができる。作中でエギルも言っていた通り、「飛ぶこと」自体が一般ユーザーにとっての魅力になるから。そして、その魅力は、ALOを、SAO出身者の300人を実験用に拉致した須郷からすれば、その実験の隠れ蓑としての電脳空間を維持するのに好都合だったから。
なので、実は、こんなところにも、つまりはゲームのフィールドの設定自体にも、茅場と須郷の目的の違いが現れていたことになる。
とはいえ、飛翔は、やはり爽快で、その爽快さは、最終話の締めのためにも必要だった。
一つは、前のエントリーに書いたように、リーファの想いの比喩として機能させるため。
そして、もう一つは、最後に登場した新生アインクラッドを、外部から客観視するため。
つまり、VRMMOの世界を俯瞰する地位を得るために必要だった。
いうまでもなく、俯瞰は、「上から目線」そのものだ。つまり、キリトらが、この世界を基本的には掌握した、ことも表している。
その俯瞰する視点を獲得してSAOの世界を眺めることで、初めて攻略が終わることを意味する。そして、攻略した事実をきちんと示すことで、初めてこの物語を閉じることができるから。
なにしろ、キリトが茅場を倒した場面自体は、他のプレイヤーは直接には見ていない。
だから、確かにこのゲームは一旦クリアされたんだ、ということを、プレイヤーの全員に明らかにしてやる必要があった。そのためにも俯瞰する視点を皆に与える必要があった。そして、飛翔は、そのための鍵だったといえる。
まぁ、確かに、クラインやエギルが、羽を使って飛んでるところは、今一つぱっとしないのだけどw
でも、そうやって飛翔させることで、攻略の事実を明らかにすることができたのだと思う。
つまりは、プレイヤーにとっての記憶の鍵をちゃんと作ってやるということで。
ということで、SAOを完結させるためには、ALOでは飛ぶ必要があったわけだ。
もちろん、飛翔は、過度に全能感を与えかねない。
だから、リミットがあることも同時に示されなければならない。
そして、そのリミットの存在は、前のエントリーに書いたように、リーファ/直葉の心象風景を表現することにも貢献した。
飛ぶことは、かくも偉大な効果を持っていたということだ。
とにかく、彼らが飛べなかったら、この最終回の大団円はなかった。
とりわけ、リーファ/直葉の物語を畳むことができなかった。
ということで、SAOからALOへの流れは、うまく作られていたと思う。
ソードアート・オンラインは、本当に緻密な作品で驚く。
そして、それが映像にしたことで、はっきりしたことが素晴らしい。
なぜなら、映像化することで、魅力が格段に上がったわけだからw
やっぱりいい最終回だと、書きたいことが止まらなくなるなw
それは、ALOに入って、飛翔が可能な世界になったことの意味。
これは、最後の場面でわかるけど、やっぱり空間的移動の自由を保証してくれる飛翔は、何かを達成した時の爽快感を表すのに最適であること。多分、これが最大の意味だと思う。
SAOの時は、飛翔が使えないので、皆、地面をそのまま進んでいくことしかできない。そうやって、一層ずつアインクラッドを攻略していく。
これは、とても地道な作業。
裏返すと、集団でのスピードに欠けて、その分、集落が出来たり、リズやエギルのように、攻略の第一線には参加せず、いわば後方支援に徹する人たちも出てくる。
その分、世界はリアルになる。
で、これはこの世界での死がリアルの死を意味する設定にした茅場明彦からしてみれば当然の措置といえる。
ついでにいえば、SAOの世界に「魔法」がなく、剣技でしか攻略出来なかったのも、身体的なリアルを維持するためのものだったのだろう。
こうした地べたを這うようなリアルが、SAOの設定上、どうしても必要だった。
対して、ALOは飛翔も魔法も可能で、ある意味、誰もが、スタートから少しだけ全能感を味わうことができる。作中でエギルも言っていた通り、「飛ぶこと」自体が一般ユーザーにとっての魅力になるから。そして、その魅力は、ALOを、SAO出身者の300人を実験用に拉致した須郷からすれば、その実験の隠れ蓑としての電脳空間を維持するのに好都合だったから。
なので、実は、こんなところにも、つまりはゲームのフィールドの設定自体にも、茅場と須郷の目的の違いが現れていたことになる。
とはいえ、飛翔は、やはり爽快で、その爽快さは、最終話の締めのためにも必要だった。
一つは、前のエントリーに書いたように、リーファの想いの比喩として機能させるため。
そして、もう一つは、最後に登場した新生アインクラッドを、外部から客観視するため。
つまり、VRMMOの世界を俯瞰する地位を得るために必要だった。
いうまでもなく、俯瞰は、「上から目線」そのものだ。つまり、キリトらが、この世界を基本的には掌握した、ことも表している。
その俯瞰する視点を獲得してSAOの世界を眺めることで、初めて攻略が終わることを意味する。そして、攻略した事実をきちんと示すことで、初めてこの物語を閉じることができるから。
なにしろ、キリトが茅場を倒した場面自体は、他のプレイヤーは直接には見ていない。
だから、確かにこのゲームは一旦クリアされたんだ、ということを、プレイヤーの全員に明らかにしてやる必要があった。そのためにも俯瞰する視点を皆に与える必要があった。そして、飛翔は、そのための鍵だったといえる。
まぁ、確かに、クラインやエギルが、羽を使って飛んでるところは、今一つぱっとしないのだけどw
でも、そうやって飛翔させることで、攻略の事実を明らかにすることができたのだと思う。
つまりは、プレイヤーにとっての記憶の鍵をちゃんと作ってやるということで。
ということで、SAOを完結させるためには、ALOでは飛ぶ必要があったわけだ。
もちろん、飛翔は、過度に全能感を与えかねない。
だから、リミットがあることも同時に示されなければならない。
そして、そのリミットの存在は、前のエントリーに書いたように、リーファ/直葉の心象風景を表現することにも貢献した。
飛ぶことは、かくも偉大な効果を持っていたということだ。
とにかく、彼らが飛べなかったら、この最終回の大団円はなかった。
とりわけ、リーファ/直葉の物語を畳むことができなかった。
ということで、SAOからALOへの流れは、うまく作られていたと思う。
ソードアート・オンラインは、本当に緻密な作品で驚く。
そして、それが映像にしたことで、はっきりしたことが素晴らしい。
なぜなら、映像化することで、魅力が格段に上がったわけだからw