うーん、これは、賛否両論別れるかなー。
いつもなら、阿良々木くんの出る物語シリーズは購入後、最長でも3日ぐらいで読み切れるのだけど、今回は、どうもいつもと違って物語に乗りきれず、えらく時間がかかってしまった。
そういう意味で、今回は、微妙・・・な感じ。
もっとも、最近読むものに対して、総じて同種の「ビミョーな感じ」を受けているので、どちらかというと、単純に読み手の側のコンディションの問題なのかもしれない。
要するに、こういう話に飽きてきたのかもしれない。
ということで、以下、感想を記そうと思うけど、部分的にはネタバレもあるので、スペースを開けておきます。読む人は一応了解の上でよろしく。
既にネットの上では多くの人が指摘しているように思うけど、今回の『終物語』は、大分、今までの物語シーズンの印象と異なる。もっとも、前作の『暦物語』も似たようなところがあったので、これはファイナルシーズンに特有の雰囲気なのかもしれない。
簡単にいうと、ミステリー色が濃くなった。
それも「無駄に」、ね。
無駄に、というのは、どうも、このミステリー展開は、今までの流れからすると、シリーズの引き伸ばし工作にも見えるんだよね。
今回、どうも読むのが遅くなったってのは、全編に亘って登場した忍野扇の存在がどうにも「ダーク」だったってこともあるのだけど(←これは結構マジでそう思ってる)、そもそも、第一話である「おうぎフォーミュラ」が、ミステリー色ってことだけでなく、そもそも題材にしている、紛糾した(阿良々木くんが議長を務めた)学級会の様子が、どうにも退屈だったから。
まぁ、西尾維新ワールドにおける「学級会」というのが、あるいは学校の「クラス」というのが、どうにも偽善的で、そこに居合わせるだけで鬱になるような魔窟空間であることはわかっているのだけど、それにしても、今回の、紛糾する学級会は気持ち悪かった。
皆で議論するってことを、これほどまでに2ちゃんの書き込み合戦、というか、炎上のように記さなくてもいいんじゃないの?、とまずは素朴に嫌悪感を持ったかな。
で、西尾維新らしい後味の悪さを示すのが、真犯人が担任の教諭だった、っていう事実のところね。
まぁ、扇ちゃんが扇動役ってこともあって、なおのこと、気味悪いわけだが。
で、面倒なのは、この胸糞悪い話が、『終物語(上)』全体としては、老倉育が登場するためのイントロでしかなかった、のがね。
いやー、さすがは西尾維新。迂遠過ぎる。
で、そこから先の「そだちリドル」にしても、「そだちロスト」にしても、老倉育はあくまでも話を進めるためのネタでしかなくて、やりたかったことは、阿良々木くんの過去話だけだった、ってことで。
それもエラく迂遠に感じたところ。
いやー、ホント、マジで、第三話で羽川が登場してくれなかったら、何なの?この話?ってキレるところだったな。
もっとも、その羽川にしても、どちらかというと、扇ちゃんの「悪のスペック」がどれだけのものか、強調するためのものでしかなかった、って気もするけど。
あー、でも、裏返すと、羽川の「善のスペック」もそれくらい高くて、傍目にはやはり「気持ち悪い」って範疇に入ってしまうのかもしれないが。
いやいや。それくらい、気持ち悪い。
もともと『終物語』が「おうぎダーク」として予告されていたことを考えると、やっぱり「扇=ダーク=くらやみ」ってのが「正解=真相」なんだろうけどね。
迷子探し → 八九寺の成敗、成仏
千石の下駄箱確認 → クチナワの仕込み
羽川の海外ロケハン → (多分)羽川を阿良々木くんから遠ざけるための催眠
戦場ヶ原のメール → (多分)扇による、なりすまし
前にも物語シリーズの感想で書いたと思うけど、多分、忍野扇は、一種のメタフィクション的作家のポジションで、その意味では、八九寺に近いポジション。
で、だからこそ、八九寺を早期に始末した。
忍野扇が関わることで、物語シリーズの「物語時空」そのものが歪められてしまって、どうも正規のルートから外れてしまっている感じがする。今回の阿良々木くんの、ありえなくらいの健忘症も、そうした扇の「物語改変力」の現れだろうし、簡単に阿良々木くんが言い含められてしまうのも、扇が作家ポジションの、というか、今風にいうなら、ゲームマスターのポジションを握っているからでしょ、きっと。
そういう意味では、忍野扇はラスボスの立ち位置にいる。
ゲーマスだからこそ、物語を容易にハックする。
ファイナルシーズンになって、妙にミステリー臭が強くなったのも、この扇が探偵=メタ作家=ゲーマス、として振る舞うことの必然といえる。
だから、多分、何の予告もなく突然ファイナルシーズンに前作の『暦物語』が書かれたのも、シリーズ全体の構成として、扇によるメタミステリーの導入を不自然に感じさせないための工夫、仕掛け、といえるのだろう。
前作で、米澤穂信的な、針小棒大な日常ミステリーを『暦物語』で導入しておけば、本作の忍野扇探偵の登場もそれほど唐突には見えないしね。
で、そうなってくると、やっぱり気になるのは、次作の『終物語(下)』への続きよりも、『暦物語』の最後に起こった事件、つまり、臥煙伊豆湖による阿良々木くんの殺害の意味、だよね。それと、八九寺の再登場。
やっぱり、臥煙伊豆湖vs忍野扇、という大きな対立があるのかなー。
それにしても、どうして「忍野扇」と名乗っているのか。
これ、普通に考えると、忍野メメないし忍野一族が、忍同様、名前で怪異としての存在を縛ったってことだよね。
つまり、阿良々木くんたちの命名による「くらやみ(仮称)」に対して名を与えることで縛った。
そういえば、『鬼物語』の中で、忍、というか、キスショットが昔、くらやみに襲われて身体の半分だか3分の2だか、を食われた、って話があったけど、そこから考えると、忍野扇の正体は、くらやみそのもの、というよりも、くらやみに食われたキスショット=忍の半身の成れの果て、なのかもしれない。あるいは、同様にくらやみに食われたキスショットの最初の眷属の成れの果てなのかも。さらには、その両者が混合し融合して発生した怪異なのかもしれない。
つまりは、忍のダークサイドが扇、ということ。
でないと、『傾物語』でわざわざパラレルワールドの自己崩壊した忍が登場する意味とかないのではないかな、と。
だから、阿良々木くんと仲のいい、幼女枠wの、八九寺や斧乃木ちゃんの存在を亡き者にするように画策したり、
千石を蛇神化させることで、羽川や戦場ヶ原との阿良々木君の関係を破綻させようとしたりしたんじゃないのかなーと。
そして、だから、そうした忍のダークサイドである扇の動機を解消ないし緩和するために、忍と阿良々木君のリンケージが一時的にはずされたのではないかな、とか。
もしかしたら、臥煙伊豆湖さんがアララギ君の存在を抹消させたのも、くらやみ=扇=忍のダークサイドを孤立させて、文字通り、成敗するためだっからではないかな?とかね。
となると、もちろん、扇の道連れに、忍も臥煙伊豆湖たちに消されてしまって、阿良々木くんは、めでたく吸血鬼属性を失い、人間に戻ることができる、ということではないのかな。
どうも、物語的には、こうした感じで、最終的には因果が回りそうな気がするのだよね。
てか、そうでもしないと、セカンドシリーズ以後の物語が余りにも破綻したものになってしまうから。
要するに、ファイナルシーズンとは、阿良々木くんと忍との関係、怪異としての、吸血鬼としての関係を破談に持ちこみ、晴れて人間となった阿良々木君が戦場ヶ原たちとともに生きていくところで、終わるのではないから。
それが、直江津高校を卒業する意味ではないのかとl
でないと、延々、阿良々木君の高校三年生の一年間を根掘り葉掘りしていかないだろうし、そのための俯瞰視点を得るための『暦物語』なんて書かれなかったと思うのだよね。
少なくとも、物語の「語り」上は、物語シリーズ全体を、一種のメタミステリーとして読んでくださいね、というのが、ファイナルシーズンになってからの大きなメッセージなのだろう。
となると、ホントに『終物語(中)』が出るかもねw
だって、そうじゃないと、今書いたような、メタミステリー的見方のための素材を提供することが難しくなるだろうから。
それに、『続・終物語』とは、シリーズ全体の後日譚になるだろうと思っているから。
でないと、「暦ブック」なんて副題をつけないでしょ。
「第本話」だしw
メタミステリー的に、これは、阿良々木暦が「語った」本であった、その「語り」はいくらでも変えていくことができる・・・、という具合のエンディング。
まぁ、以上は一種の妄想なわけだがw
しかし、『終物語(上)』を読むと、あながち外れてないんじゃないかな―、って思う。
ということで、ちょっとだれてきてるところもあるのだけど、あと2冊か3冊で示されるフィナーレを楽しみにしたいと思う。
要するに、阿良々木君が先延ばしにしてきた、
吸血鬼としての「永遠の楽園」を選択するのか、
それとも、
人間としての「有限な幸福」を選択するのか。
その選択が行われるのだと思う、最後にはね。
それはつまり、忍/八九寺/斧乃木 を選ぶのか、
戦場ヶ原/羽川/神原 を選ぶのか。
もっといえば、忍をとるのか、戦場ヶ原をとるのか、という二択になるのだと思う。
そして、そういう「苦い選択」を主人公に迫ってこそ、西尾維新なはずだから。
ということで、続きを早く!
いつもなら、阿良々木くんの出る物語シリーズは購入後、最長でも3日ぐらいで読み切れるのだけど、今回は、どうもいつもと違って物語に乗りきれず、えらく時間がかかってしまった。
そういう意味で、今回は、微妙・・・な感じ。
もっとも、最近読むものに対して、総じて同種の「ビミョーな感じ」を受けているので、どちらかというと、単純に読み手の側のコンディションの問題なのかもしれない。
要するに、こういう話に飽きてきたのかもしれない。
ということで、以下、感想を記そうと思うけど、部分的にはネタバレもあるので、スペースを開けておきます。読む人は一応了解の上でよろしく。
既にネットの上では多くの人が指摘しているように思うけど、今回の『終物語』は、大分、今までの物語シーズンの印象と異なる。もっとも、前作の『暦物語』も似たようなところがあったので、これはファイナルシーズンに特有の雰囲気なのかもしれない。
簡単にいうと、ミステリー色が濃くなった。
それも「無駄に」、ね。
無駄に、というのは、どうも、このミステリー展開は、今までの流れからすると、シリーズの引き伸ばし工作にも見えるんだよね。
今回、どうも読むのが遅くなったってのは、全編に亘って登場した忍野扇の存在がどうにも「ダーク」だったってこともあるのだけど(←これは結構マジでそう思ってる)、そもそも、第一話である「おうぎフォーミュラ」が、ミステリー色ってことだけでなく、そもそも題材にしている、紛糾した(阿良々木くんが議長を務めた)学級会の様子が、どうにも退屈だったから。
まぁ、西尾維新ワールドにおける「学級会」というのが、あるいは学校の「クラス」というのが、どうにも偽善的で、そこに居合わせるだけで鬱になるような魔窟空間であることはわかっているのだけど、それにしても、今回の、紛糾する学級会は気持ち悪かった。
皆で議論するってことを、これほどまでに2ちゃんの書き込み合戦、というか、炎上のように記さなくてもいいんじゃないの?、とまずは素朴に嫌悪感を持ったかな。
で、西尾維新らしい後味の悪さを示すのが、真犯人が担任の教諭だった、っていう事実のところね。
まぁ、扇ちゃんが扇動役ってこともあって、なおのこと、気味悪いわけだが。
で、面倒なのは、この胸糞悪い話が、『終物語(上)』全体としては、老倉育が登場するためのイントロでしかなかった、のがね。
いやー、さすがは西尾維新。迂遠過ぎる。
で、そこから先の「そだちリドル」にしても、「そだちロスト」にしても、老倉育はあくまでも話を進めるためのネタでしかなくて、やりたかったことは、阿良々木くんの過去話だけだった、ってことで。
それもエラく迂遠に感じたところ。
いやー、ホント、マジで、第三話で羽川が登場してくれなかったら、何なの?この話?ってキレるところだったな。
もっとも、その羽川にしても、どちらかというと、扇ちゃんの「悪のスペック」がどれだけのものか、強調するためのものでしかなかった、って気もするけど。
あー、でも、裏返すと、羽川の「善のスペック」もそれくらい高くて、傍目にはやはり「気持ち悪い」って範疇に入ってしまうのかもしれないが。
いやいや。それくらい、気持ち悪い。
もともと『終物語』が「おうぎダーク」として予告されていたことを考えると、やっぱり「扇=ダーク=くらやみ」ってのが「正解=真相」なんだろうけどね。
迷子探し → 八九寺の成敗、成仏
千石の下駄箱確認 → クチナワの仕込み
羽川の海外ロケハン → (多分)羽川を阿良々木くんから遠ざけるための催眠
戦場ヶ原のメール → (多分)扇による、なりすまし
前にも物語シリーズの感想で書いたと思うけど、多分、忍野扇は、一種のメタフィクション的作家のポジションで、その意味では、八九寺に近いポジション。
で、だからこそ、八九寺を早期に始末した。
忍野扇が関わることで、物語シリーズの「物語時空」そのものが歪められてしまって、どうも正規のルートから外れてしまっている感じがする。今回の阿良々木くんの、ありえなくらいの健忘症も、そうした扇の「物語改変力」の現れだろうし、簡単に阿良々木くんが言い含められてしまうのも、扇が作家ポジションの、というか、今風にいうなら、ゲームマスターのポジションを握っているからでしょ、きっと。
そういう意味では、忍野扇はラスボスの立ち位置にいる。
ゲーマスだからこそ、物語を容易にハックする。
ファイナルシーズンになって、妙にミステリー臭が強くなったのも、この扇が探偵=メタ作家=ゲーマス、として振る舞うことの必然といえる。
だから、多分、何の予告もなく突然ファイナルシーズンに前作の『暦物語』が書かれたのも、シリーズ全体の構成として、扇によるメタミステリーの導入を不自然に感じさせないための工夫、仕掛け、といえるのだろう。
前作で、米澤穂信的な、針小棒大な日常ミステリーを『暦物語』で導入しておけば、本作の忍野扇探偵の登場もそれほど唐突には見えないしね。
で、そうなってくると、やっぱり気になるのは、次作の『終物語(下)』への続きよりも、『暦物語』の最後に起こった事件、つまり、臥煙伊豆湖による阿良々木くんの殺害の意味、だよね。それと、八九寺の再登場。
やっぱり、臥煙伊豆湖vs忍野扇、という大きな対立があるのかなー。
それにしても、どうして「忍野扇」と名乗っているのか。
これ、普通に考えると、忍野メメないし忍野一族が、忍同様、名前で怪異としての存在を縛ったってことだよね。
つまり、阿良々木くんたちの命名による「くらやみ(仮称)」に対して名を与えることで縛った。
そういえば、『鬼物語』の中で、忍、というか、キスショットが昔、くらやみに襲われて身体の半分だか3分の2だか、を食われた、って話があったけど、そこから考えると、忍野扇の正体は、くらやみそのもの、というよりも、くらやみに食われたキスショット=忍の半身の成れの果て、なのかもしれない。あるいは、同様にくらやみに食われたキスショットの最初の眷属の成れの果てなのかも。さらには、その両者が混合し融合して発生した怪異なのかもしれない。
つまりは、忍のダークサイドが扇、ということ。
でないと、『傾物語』でわざわざパラレルワールドの自己崩壊した忍が登場する意味とかないのではないかな、と。
だから、阿良々木くんと仲のいい、幼女枠wの、八九寺や斧乃木ちゃんの存在を亡き者にするように画策したり、
千石を蛇神化させることで、羽川や戦場ヶ原との阿良々木君の関係を破綻させようとしたりしたんじゃないのかなーと。
そして、だから、そうした忍のダークサイドである扇の動機を解消ないし緩和するために、忍と阿良々木君のリンケージが一時的にはずされたのではないかな、とか。
もしかしたら、臥煙伊豆湖さんがアララギ君の存在を抹消させたのも、くらやみ=扇=忍のダークサイドを孤立させて、文字通り、成敗するためだっからではないかな?とかね。
となると、もちろん、扇の道連れに、忍も臥煙伊豆湖たちに消されてしまって、阿良々木くんは、めでたく吸血鬼属性を失い、人間に戻ることができる、ということではないのかな。
どうも、物語的には、こうした感じで、最終的には因果が回りそうな気がするのだよね。
てか、そうでもしないと、セカンドシリーズ以後の物語が余りにも破綻したものになってしまうから。
要するに、ファイナルシーズンとは、阿良々木くんと忍との関係、怪異としての、吸血鬼としての関係を破談に持ちこみ、晴れて人間となった阿良々木君が戦場ヶ原たちとともに生きていくところで、終わるのではないから。
それが、直江津高校を卒業する意味ではないのかとl
でないと、延々、阿良々木君の高校三年生の一年間を根掘り葉掘りしていかないだろうし、そのための俯瞰視点を得るための『暦物語』なんて書かれなかったと思うのだよね。
少なくとも、物語の「語り」上は、物語シリーズ全体を、一種のメタミステリーとして読んでくださいね、というのが、ファイナルシーズンになってからの大きなメッセージなのだろう。
となると、ホントに『終物語(中)』が出るかもねw
だって、そうじゃないと、今書いたような、メタミステリー的見方のための素材を提供することが難しくなるだろうから。
それに、『続・終物語』とは、シリーズ全体の後日譚になるだろうと思っているから。
でないと、「暦ブック」なんて副題をつけないでしょ。
「第本話」だしw
メタミステリー的に、これは、阿良々木暦が「語った」本であった、その「語り」はいくらでも変えていくことができる・・・、という具合のエンディング。
まぁ、以上は一種の妄想なわけだがw
しかし、『終物語(上)』を読むと、あながち外れてないんじゃないかな―、って思う。
ということで、ちょっとだれてきてるところもあるのだけど、あと2冊か3冊で示されるフィナーレを楽しみにしたいと思う。
要するに、阿良々木君が先延ばしにしてきた、
吸血鬼としての「永遠の楽園」を選択するのか、
それとも、
人間としての「有限な幸福」を選択するのか。
その選択が行われるのだと思う、最後にはね。
それはつまり、忍/八九寺/斧乃木 を選ぶのか、
戦場ヶ原/羽川/神原 を選ぶのか。
もっといえば、忍をとるのか、戦場ヶ原をとるのか、という二択になるのだと思う。
そして、そういう「苦い選択」を主人公に迫ってこそ、西尾維新なはずだから。
ということで、続きを早く!