100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

89
歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「イタリア物語」 フォロ・ロマノの夜1

2020年04月23日 07時50分29秒 | イタリア

 ローマでの夜、同行の皆さんとフォロ・ロマノ(注)あたりをぶらつきました。

(注)古代名は「フォルム・ロマヌム」で古代ギリシア、ローマ時代の各都市(国家)にあった公共の広場であり政治経済の中心地。ギリシアでは「アゴラ」。「フォルム」は英語の「フォーラム」になります。

 古代遺跡の林立するなか、なぜか1911年に建てられたイタリア建国の父とされるヴィクトリオエマニエレ2世記念館の夜景に惹かれました。


「イタリア物語」 カタコンベは単なるお墓3 教科書出版社からの変更訂正文

2020年04月20日 07時56分48秒 | イタリア

 2005年~2006年にかけてカタコンベ=迫害避難所ではないということ紹介したものを前々回、前回に修正再録しました。その後気にかかっていたので2018年に新しい広辞苑(7版)を開いてみました。前回の5版では「古代の地下墳墓。特に、ローマの初期キリスト教徒のものが有名で、迫害を避けてここに集まり祈ったという」と記載されていましたが、改訂された7版では「古代の地下墳墓。特にローマの初期キリスト教徒のものが有名」迫害以下の箇所が削除されていました。そこで教科書はということで少し調べてみると依然と同じく「カタコンベ=迫害、地下避難」がそのままでした。
そこで、いくつかの教科書出版社には連絡(電話)をしました。そのうち一社(帝国書院)から回答をいただきました。(写真)
写真が見難いかもしれないので主要な部分を転記し、私の意見を述べておきます。
「***この件につきまして、著者に確認いたしましたところ、カタコンベを迫害されたキリスト教徒の避難所とする学説は、近年では否定されつつあるということでございました。つきましては、「迫害」「避難所」といった記述を、平成31年度版より「初期キリスト教徒の地下共同墓地として使用された。」といった内容に変更する方向で検討します。なお、教科書の記述を変更するためには、文部科学省に申請を行い、承認を受ける必要がございます。***」
 この文章で「近年では」と書かれていますが、ちょっと引っかかりました。というのは私がそれに気づいたのは1996年のイタリア旅行のときでこのブログに書いたのは2005年と2006年でした。その時、参照した文献の一つがヨーロッパで共通の歴史認識を共有しようとして15歳から16歳を対象として書かれた欧州共通教科書「ヨーロッパの歴史」で当時に日本でも話題になりました。その出版は1992年のことでした。そこにはカタコンベの記載はありますが、迫害とか避難場所とかの記述はありません。(英語版p90)
 またより古い1977年出版の「世界宗教史叢書 キリスト教史ⅠⅡⅢ」(山川出版社)には全く記載はありません。というわけで「近年」のスパンをどのように考えるかでしょうが、かなり昔からカタコンベ→迫害の説は無かったのではないかと考えられると思います
 ついでにこの本の迫害について記述を蛇足的に紹介しておきます。
迫害については「帝国の迫害は伝えられるほど継続的でもなければ凄惨なものでもなく、一方,教会側は多くの背教者の群れを出した」(p116)
ネロについては「キリスト教徒であること自体を処罰の対象とする一般法が確立され、これを発動した迫害であった、と断定することは困難」(p129)
ディオクレティアヌスについては「全治世22年間のうち20年近くもキリスト教に対して寛容政策とってきたディオクレティアヌスが、なぜ治世もおわりに近い303年に突如身を翻して迫害に転じたのか、その理由は必ずしも明らかでない。ディオクレティアヌスの宮廷、側近にはキリスト教徒が多く登用されていたし、皇妃と皇女もキリスト教に接近したといわれ、属州官僚にも軍隊にもキリスト教徒の存在は許されていた」(p171~172)
ところでその他の教科書についてはどうなっているのかと気になっていました。
最近2019年8月出版(山川出版社)の「本書は、わが国の高等学校世界史教科書としてもっとも定評のある、山川出版社の『詳説世界史』を英訳したものです」という「英文 詳説世界史 World History for High School」という本に出合いました。この本のp47にcatacombの説明として”a place of refuge and clandestine worship during the persecution”
と書かれていました。まだこのような間違いが教科書に残っているようです。
 なぜこのような間違いが教科書などにあるのか私の年来の疑問です。最近の私の妄想ではどうも「米欧回覧実記」が元凶ではないか。日本にカタコンベが最初に紹介されたのはこの「米欧回覧実記」(4巻p310)の記述からと考えれば腑に落ちるような気がしています。
 「米欧回覧実記」について紹介しておきます。「岩倉使節団は、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合州国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団です。岩倉具視を正使とし、政府のトップ(実力者の半数)や留学生を含む総勢107名で構成されました。そのときの報告書が久米邦武による「米欧回覧実記」です。原文は和漢混交文で岩波文庫5分冊に収められています。私の偏見?ですが欧米に出かける現代日本人の必読の書です。このブログでも幾度か紹介しています。最近出版された。ジャレド・ダイアモンド著「危機と人類」上」(p152)には「欧米への視察旅行に参加した日本人が、外国を観察して借用したものが多い。その中でも非常に重要な一歩になったのが****岩倉使節団である」と紹介されています。
 

「イタリア物語」 カタコンベは単なるお墓2

2020年04月17日 07時51分51秒 | イタリア


 boschさんのお考えは「カタコンベは本来墓地ではない(→迫害を逃れての地下である)」と「すべての皇帝が寛容であったわけではありません」の2点に要約されると思います。
まず前者からですが、私の知識の範囲では、カタコンベを「迫害」と関連づけて書いているのは130年前の岩倉使節団の「米欧回覧実記」(岩波文庫四p310この本については次回紹介の予定)と日本の世界史の教科書、広辞苑(5版)だけです。
手ごろのところから紹介しますと、正確さにおいて、かのブリタニカに匹敵されるとされるインターネット上の百科辞典wikipedia(日本語版、英語版)では墓地であるとしか書いていません。
ノーマン・デイヴィスの膨大なヨーロッパ史全4巻(各冊500ページ以上)では「死者の復活に対する信仰は、初期キリスト共同体の中で埋葬に特別な意味を与えた。*****42のカタコンベのうち3つはユダヤ人の墓である」(ヨーロッパ1 p364~365)とあります。
ヨーロッパでは共通の歴史認識を共有しようということで1992年に15歳から16歳を対象として欧州共通教科書「ヨーロッパの歴史」(写真は英語版)が作られました。筆者はイギリス、ドイツ、フランス、アイルランド、デンマーク、オランダ、ベルギー、イタリア、スペイン、ポルトガルから選ばれた10人です。そこにはカタコンベの内部に描かれた「初期のキリスト教の芸術」として壁画が紹介されているだけです。(p89)迫害、避難などとの関連記述はありません。日本の世界史の教科書とはえらい違いです。またこの本はキリスト教徒迫害については以下のように記しています。
「迫害が組織的に行われたことはまれで、決して一般的現象ではなかった。キリスト教の殉教者をたたえる物語は数え切れないほどあるが、これは聖者伝作家の大げさな熱狂によるところが大きい」(p88)
なおネロについては古代ローマ史の専門家秀村欣二氏の論文「ネロのキリスト者迫害は、その動機と性格に不明な点があり、またそれはローマ市に限定され属州に及んでいない」(岩波講座 世界歴史3 p59)に注目したいと思います。
 以上は2005年~2006年にかけてブログに紹介したものです。その後、この問題について変化がありました。それは次回に。


「イタリア物語」 カタコンベは単なるお墓1

2020年04月14日 07時51分53秒 | イタリア


カタコンベ(カタコーム)についてのこの時点(1996年5月16日)でのわたくしの理解は広辞苑(第五版)「古代の地下墓所。特に、ローマの初期キリスト教徒のものが有名で、迫害を避けてここに集まり祈ったという」、高等学校世界史教科書の「キリスト教徒は、ローマ皇帝の迫害に対し、カタコンベ(地下墳墓)にかくれて信仰を守った」(三省堂世界史{B}2003年版p40)、「このような地下墓所は、禁圧されたキリスト教徒の集会場」(山川出版社 詳説世界史p39 2003年版)でした。いずれも「迫害」と「カタコンベ」との関連性が述べられています。この時点での私の理解もこの程度でした。
 言語別のグループに分かれての見学でした。日本語のグループがなかったので英語のグループに入りました。写真はカタコンベの内部での皆さん。
 しかし、このとき何かおかしいな、と思いました。というのは、アッピア街道という日本では東海道に相当する交通量の多いいところ、気づかれ易いところにわざわざ隠れ場所を作るはずがないということです。目立たない人里はなれたところに作るはずだと。中に入って説明を受けたのですが英語だったので殆ど分かりませんでしたが、迫害の話はなかったような気がしました。
 というわけで、日本に帰り色々調べたところこのカタコンベとキリスト教徒迫害とは関係がないことを知りました。なぜ日本の高等学校の世界史の教科書に誤った記載があるのしょう。カタコンベが単なるキリスト教徒の地下墳墓だとすればわざわざ教科書に取り上げる価値はないと思います。
私が調べたかぎりでは一冊だけカタコンベに触れていない教科書を見つけました。「実教出版 高校世界史B 平成14年版」でした。そこでは迫害についても「ローマ帝政は宗教にがいして寛容でキリスト教は下層民や奴隷のあいだで信者を獲得し、上層民の信徒もしだいにふえていった」(P24)どうもこれが真実に一番近いようです。
以上の文章は2005年12月24日に記載したもの(一部修正)です。これに対して以下のような対照的な二方からのコメントをいただきました。
そのほうが納得できます (colo)(元高校世界史教諭)
「 ウーン、そう言われればその通り、なぜ今まで教科書を鵜呑みにしていたのかと我ながら可笑しくなります。人間はだまされやすい・・・」

 納得できません (bosch)
「キリスト教徒はローマのネロ帝による、ローマの大火の責任転嫁やディオクレティアヌス帝によって大迫害を受けました。事実、ペテロ、パウロは殉死しています。カタコンベは本来墓地ではなく、迫害されたキリスト教徒が地下に作った信仰の場所です。303年以降キリスト教の大迫害はなく、その後何度もの会議が重ねられて少しずつ認められていきましたが、キリスト教成立初期の頃はローマの全ての皇帝が寛容だったわけではありません」

そこで (bosch)さんへの説明を兼ねてもう少し詳しくキリスト教徒迫害、迫害とカタコームは無関係ということについて調べたことを紹介することにしました。それは次回に。


「イタリア物語」 カラカラ浴場~アッピア街道~カタコンベ1

2020年04月11日 07時48分52秒 | イタリア


 イタリアには2度旅行をしました。最初は「イタリア物語」1996年5月11日~5月25日でシチリアを含めて主に北イタリアの旅でした。2回目は「南イタリアからシチリア島、マルタ島へ」2014年5月8日~5月22日でした。このブログの開設は2005年10月15日なので2回目の旅は紹介済みです。1回目については少し紹介している部分もあるのですが、今回未紹介と既紹介部分の修正追加再録をしたいと思います。
 この「カラカラ浴場~アッピア街道~カタコンベ」と次回からの「カタコンベは単なるお墓1~3」は2005年12月~2018年5月12日にかけて数回記載したものを修正し、まとめて再録します。

 ローマでは午後半日が自由時間でした。「ローマの休日」です。そこでかねてから行きたかった「アッピア街道」(注)を歩くことにしました。

 (注)古代ローマ時代BC312年に完成したローマからナポリ近くのカプアまでの最初の高速幹線道路。「すべての道はローマに通ず」の元祖。

事前に調べてみると「カラカラ浴場」(注)の近くに一部が残っているというのでまずはそこまでタクシーで行くことにしました。

 (注)AD3世紀にカラカラ帝によって作られた大浴場。1500人以上は入れたそうです。ここでちょっと余談話。中世、近世のヨーロッパ人に比べて古代ローマ人は風呂に入り清潔な人たちだと、ごく最近まで思っていました。ところが、さにあらず、古代ローマの浴場はかなり不潔だったようです。それについては2019年1月5日に紹介しているので(「テルミ駅」での検索も可)ご覧ください。びっくりしますよ。

 カラカラ浴場の内部は残念ながら見学でいませんでしたが、その前の道路がどうやらアッピア街道のようでした。通りかかった地元の人らしきに確認しました。しばし考えて「昔の道路のことですね。それでしたらこの道路です」という返答でした。どうやらアッピア街道という言葉は現地の人には一般的ではないようでした。少し進んだところで「マイルストーン」(注)が見えました。それでアッピア街道であることを確信しました。

 (注)ローマから1ローマ・マイル(約1,5キロ 1000歩)ごとに置いた大理石の円柱。日本でいえば一里塚ですね。この私が見たマイルストーンは「塩野七生 ローマ人の物語の旅」(p75)によると「レプリカで本物はカピトリーノにある」と記載されていました。

ご覧のように幅は6mぐらいあり石畳の現役で、車も行きかいをしていました。ぶらぶら進んでいると、道端に人が集まっていました。どうやらカタコンベ(カタコーム)見学のようでした。カタコンベについては次回。  

付録 
 昨日鹿児島市内を走る路面電車に乗りました。満員でした。突然座っていた男性老人が立ち上がり杖を曳いた男性老人に席を譲りました。周りは若い人ばかりでした。席を譲った老人と降りたところが同じだったので、わたくしは余計なお節介でしたがありがとうございましたと話しかけ年齢を尋ねると90歳でした。


「ヨーロッパ小国訪問記」編 ローマ~ジェノバ~フランス~モナコ1 テルミニ駅と浴場

2019年01月05日 08時04分14秒 | イタリア

 

 ローマからジェノバまで鉄道で行き、ジェノバからフランス経由でモナコ公国へバスで移動しました。

 ローマ出発の駅はイタリア最大のテルミニ駅でした。ボケた写真ですが駅の向こうに城壁のようなものがありました。現地ガイドに聞くと古代ローマ帝国ディオクレティアヌス帝時代の浴場跡だということでした。「テルミニ」は「浴場」という意味だそうです。カラカラ浴場(2006年12月29日紹介)と共に古代ローマ時代の有名な浴場です。

以下余談話ですが、このように古代ローマ時代にはいくつもの浴場があり私は以前からローマ時代の人々は中、近世のヨーロッパ人に比べてきれい好き、衛生観念が発達していたと思っていました。たとえばレコンキスタを完成させコロンブスの航海を許可し、ユダヤ人とイスラーム教徒を追放したスペイン女王イザベルは「**めったに風呂にも入らず,ノミ、シラミをわかせながら、異教徒をスペインから一掃することに生涯を捧げた女性であった。(彼女の言)『キリスト教徒たる者は、むやみに水を浴びたり、風呂に入るものではありません。あれはモーロ人(イスラーム教徒)の風習ですから』」(このブログ2009年7月23日紹介)

ところが最近「古代ローマ時代の庶民たち」という本を読んでびっくりしました。以下この本の一部を抜粋紹介します。

「貴重な社交の場は浴場であった。***こすり落とした(垢)ものは浴場の整備係によって湯船にはき落とされ、***中には湯船でそのまま用を足していた***要は、どんな汚物、垢、体液、排泄物、そして細菌を人々が浴場に持ち込もうと、その浴場の湯はすぐに他の入浴者も一緒につかうことになったわけである」(p66~69)

というわけで私の古代ローマ人へのイメージは一変することになりました。

 

 


「ヨーロッパ小国訪問記」編 カンピョネ・ディターリア6 カジノ

2018年12月03日 08時10分05秒 | イタリア

 

 この町の基幹産業は公営「カジノ」でした。“CASINO”と書かれた巨大な建物が見えますね。イタリア政府が所有するこのカジノは1933年に開設され規制は緩やかで掛け金は無制限です。ところが今年7月に倒産しました。従業員の再開抗議運動があるようです。カジノは世界的に斜陽産業という人もいるようですね。