100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「ミャンマー」編 ビルマ文化と我が家3

2013年12月23日 08時50分07秒 | ミャンマー

 もう一つ旅行中に気付いたことがありました。父の復員後両親の生まれ故郷岡山の田舎に住むことになりました。その家に何かこの田舎では珍しい少し不釣り合いの家具があり長年私は不思議に思って来ました。それは籐椅子でした。今回ビルマを旅行して籐(竹)製品の椅子(椅子だけではありません)を多く見ました。今、私の思うにはどうも父は籐製品の心地よさをビルマで感じそれが籐椅子になったのではないかと、長年の疑問が解けたような気がしました。写真はマンダレーのホテルの籐(竹?)の壁です。

 というわけでビルマ旅行中、親不孝の私が珍しくオヤジのことを思い出し感慨にふけりました。


「ミャンマー」編 ビルマ文化と我が家 1

2013年12月23日 08時40分57秒 | ミャンマー

 私の父親はインパール作戦の生き残りです。インパール作戦とはアジア太平洋戦争時、ビルマ-インド間の要衝にあって、連合国から中国への主要な補給路(援蒋ルート)遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を日本軍が目指した作戦のことです。補給線を軽視した杜撰な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用されます。犠牲者数についてはいろんな説がありますが、一説では参加数8万6000人の内、戦死者(ほとんどは飢死)3万2000人、戦病死4万人とされています。「ビルマの竪琴」という児童文学書はこの戦争とその後の日本兵を描いた名著として有名です、私も子供の時読み感動したしたことを覚えています。今回の旅行前に再読して感動を新たにしました。

その生き残りの父親は多くの戦友を亡くしその亡霊に取りつかれように夜中にうなされていたことを子供心に気付いていたことをいまだに思い出します。

ところが、意外に彼は「ビルキチ」(ビルマ大好き)であったような気がこの旅行を通じて思うようになりました。

ビルマ復員後我が家の共通語にビルマ語が入りました。70年近く前のことですのであらかた忘れましたが「アーロンビービ」という言葉だけは覚えていました。意味は「すべて終わり」とかすかな記憶がありました。そこで現地ガイドのオウマさんに確認しました。正解で発音が良いと褒めてもらいました。そこでさっそく試してみました。食事が終わって片づけに来たウエイターに「アーロンビービ」と言いました。通じましたが、彼は私がビルマ語が分かると思ったのかビルマ語でペラペラと話しかけてきました。

皆さん「火吹き竹」をご存知ですか。昔、家庭では必須の道具でした。広辞苑によれば「吹いて火をおこすのに用いる竹筒。一端に残した節に小穴をあけて、息が強く吹き出るようにする」 この言葉もいずれ広辞苑から消えていくでしょう。この「小穴」に注目ください。父親はビルマ復員後、ビルマではこの小穴は無く節を取ってしまった大穴の「火吹き竹」で、このほうが火がおこりやすいという話をしました。さっそく実験をした結果ビルマ方式に軍配が上がりそれ以後我が家の「火吹き竹」はビルマ「大穴」方式になりました。今回の旅行でこのことが気にかかっていました。前回紹介した民俗土産店でそれを見つけました。大感激です。写真がそうです。