boschさんのお考えは「カタコンベは本来墓地ではない(→迫害を逃れての地下である)」と「すべての皇帝が寛容であったわけではありません」の2点に要約されると思います。
まず前者からですが、私の知識の範囲では、カタコンベを「迫害」と関連づけて書いているのは130年前の岩倉使節団の「米欧回覧実記」(岩波文庫四p310この本については次回紹介の予定)と日本の世界史の教科書、広辞苑(5版)だけです。
手ごろのところから紹介しますと、正確さにおいて、かのブリタニカに匹敵されるとされるインターネット上の百科辞典wikipedia(日本語版、英語版)では墓地であるとしか書いていません。
ノーマン・デイヴィスの膨大なヨーロッパ史全4巻(各冊500ページ以上)では「死者の復活に対する信仰は、初期キリスト共同体の中で埋葬に特別な意味を与えた。*****42のカタコンベのうち3つはユダヤ人の墓である」(ヨーロッパ1 p364~365)とあります。
ヨーロッパでは共通の歴史認識を共有しようということで1992年に15歳から16歳を対象として欧州共通教科書「ヨーロッパの歴史」(写真は英語版)が作られました。筆者はイギリス、ドイツ、フランス、アイルランド、デンマーク、オランダ、ベルギー、イタリア、スペイン、ポルトガルから選ばれた10人です。そこにはカタコンベの内部に描かれた「初期のキリスト教の芸術」として壁画が紹介されているだけです。(p89)迫害、避難などとの関連記述はありません。日本の世界史の教科書とはえらい違いです。またこの本はキリスト教徒迫害については以下のように記しています。
「迫害が組織的に行われたことはまれで、決して一般的現象ではなかった。キリスト教の殉教者をたたえる物語は数え切れないほどあるが、これは聖者伝作家の大げさな熱狂によるところが大きい」(p88)
なおネロについては古代ローマ史の専門家秀村欣二氏の論文「ネロのキリスト者迫害は、その動機と性格に不明な点があり、またそれはローマ市に限定され属州に及んでいない」(岩波講座 世界歴史3 p59)に注目したいと思います。
以上は2005年~2006年にかけてブログに紹介したものです。その後、この問題について変化がありました。それは次回に。