日本敗戦(韓国では光復日)の翌日1945年8月16日にここ西大門刑務所から多くの反日、独立運動をした囚人たちが出獄しました。ここ西大門は植民地時代(韓国では日帝時代)多くの政治犯が収容されていました。4月30日に紹介した柳寛順ユガンスンもここに収容され拷問で死亡しました。その後普通の刑務所になりましたが、1998年歴史館になり一般公開されています。
冒頭写真は入り口です。
博物館内は薄暗くノーフラッシュのカメラで腕も悪く、日本語の説明文も少なく良い写真は有りませんが、以下4点を紹介します。
皇国教育。
獄中で皇国教育がなされていたのですね。蛇足ながら戦後教育の皆さんに「皇国」とは「天皇の統治する国」という意味であることを注にしておきます。担当者も本気で彼らに皇国教育ができると思っていたのでしょうかね。
朝鮮語学会事件
「***朝鮮語に対する新たな関心を呼び起こし、何年間も繰り返し伝えられる偏狭な民族観念を鼓舞激励し民族文化の向上と、民族意識の高揚をもくろみ朝鮮独立のために実力伸長の手段を講じ全力を***」
「偏狭な」という単語を除けばこの文章は表彰状のように読めます。しかし1945年1月16日裁判所の判決文です。このような理由で「治安維持法」の「内乱罪」が適用され「朝鮮語学会」の関係者8名に8年~2年の懲役刑の判決がありました。それまでに2名が獄中で死亡していました。日本政府の朝鮮語(韓国語)抹殺政策のシンボル的事件でした。
「朝鮮語学会」は1921年に結成され「朝鮮語辞典編集会」を組織して辞典編集に着手し、「ハングル正書法統一案」を制定しました。この事件で「朝鮮語大辞典」のために用意されていた三万二千枚の原稿と20万の語彙カードが押収されました。
拷問部屋です。
狭い壁に挟まれ座ることも立つこともできない拷問室です。
絞首刑部屋です。