モンテネグロのコルト湾です。左の島が聖ジョージ教会で右が修道院です。おとぎの世界ですね。
前回モンテネグロは日本になじみがないと書きましたが、意外なことで関係がありました。「日本とモンテネグロは(現在)交戦中の敵国」という話です。(以下「ユーゴ紛争」千田善著p158~159)
「日本とモンテネグロが交戦状態に突入したのは1904年。ロシア帝国と軍事同盟を結んでいたモンテネグロ王国は、日露戦争が勃発すると、条約にしたがって日本に宣戦を布告した。日本は、ロシアとは講和条約を結んだが、モンテネグロとは『まだ』だ。タネ明かしすると、国際法的には50年代、モンテネグロの後継国家(旧ユーゴ)と国交を樹立する際『交戦状態』は解消している。現地では、『なに、敵国の日本人か』と冗談をまじえ、大いに歓迎された」
最近セルビア・モンテネグロ国から分離独立して192番目の国連加盟国になった人口65万人のモンテネグロ海岸線を独立前の2003年10月に行ってきました。クロアチアのドブロヴニクから1日の日帰りバス旅行でした。モンテネグロへの出入国の手続きはなく国境線の確認も忘れていました。地理は4月2日のこのブログをご覧ください。ドブロヴニクから南東に行ったところです。
当時から通貨はユーロが公式通貨でセルビアとは一線を画しているようでした。旧ユーゴーでも最貧国とされ、クロアチアでは見かけなかった物乞いの人も見ました。しかし、すばらしい風光明媚な地で今後観光立国として立派にやっていけるように思いました。
日本になじみが少なく、日本語のガイドブックもないこの国の景勝地を数回にわたって紹介します。世界的に著名なガイドブックLONELY PLANET にもないようです。
写真はアドリア海に浮かぶダイアナ妃の密会の島と言われている聖ステファン島です。 島全体が1つのホテルで世界のセレブの保養地です。
アドリア海はリアス海岸で風光明媚なところです。この写真は川ではありません、アドリア海です。
一般的にヨーロッパの魚料理は日本人の口には合いませんが、クロアチアのアドリア海魚料理は大変おいしくいただきました。内陸部の川魚料理もおいしかったです。
「世界の景観、風景」を再開します。今回のサッカーワールドカップで、すこし身近になったクロアチアのプリトヴィッツエ国立公園が前回の最後でした。(4月4,6日をご覧ください。左の欄のカレンダーの当該月日をクリックしてみてください)
今回からは同じクロアチアの海岸部の景勝地を紹介します。(地図は4月2日をご覧ください) 最初は“アドリア海の真珠”と呼ばれている景勝地ドブロヴニクです。写真で分かるように今は陸地とつながっていますが、以前は島でした。7世紀ごろ民族移動のさなかこの島に逃げ込んだ人たちからこの町の歴史が始まります。その成り立ちからヴェネチアと似ていますが同じく中世から近世にかけて地中海貿易の覇者でした。(ただし1205年~1358年ヴェネチアの支配下)
1991年からの内戦で「危機にさらされている世界遺産リスト」にあげられていましたが1994年再び「世界遺産」に登録されました。今では殆ど外部からは戦火の跡は見られません。 人口4万500人の観光だけの町です。
忘れ得ない写真の1つです。その理由を述べるのは日本語力の乏しい私には難しいことです。状況を述べておきます。ジャイサルメール近くのタール砂漠隣接のステップ地帯です。写真の向こうは茫漠たるタール砂漠です。近くに人家は見当たりません。1人の青年がたった4匹の羊を放牧して写真のようなスタイルで見守っていました。たったこれだけのことです。いろんなことを妄想しました。
インドはものを考えさす国です。決して忘れることの出来ないシーンでした。
タール砂漠ではラクダに乗って1時間ほど散歩しました。ラクダは決してラクデはなく、乗るときは前足から急激に起き上がり、そのため後ろに放り出されるようになり、降りる時は前足を急激に折るので前に突き落とされそうになります。
世界で最も美麗な建築物と言われるアーグラーにあるタージ・マハル廟です。同行の人に撮ってもらった写真です。顔が上手く写らないといわれましたがそのままシャッターを切ってもらいました。巧まずして白と黒のコントラストが鮮やか(?)な名画(?)になりました。
インド、ムガール朝の5代シャー・ジャーハンが亡き后妃のために1632年から1648年にかけて建設した霊廟です。この霊廟をめぐっての晩年の王の悲話は省略しますがご希望の方はガイドブックなどをご覧ください。