100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「西アフリカ」編 マリ共和国 モプティ→セグー→バマコ バンバラ帝国1

2011年02月09日 08時28分35秒 | マリ共和国

 セグーは18世紀初頭から19世紀にかけて繁栄したバンバラ帝国の首都が置かれていたところです。最初は1660年頃に始まるセグーを中心とする小さな王国でしたがMamary Coulibaly (1689?~1755)が1712年即位して現在のマリ共和国と同じくらいにまで版図を広げバンバラ帝国と称することになりました。バンバラ帝国の繁栄の源泉は交易で特に奴隷交易でした。

 そのバンバラ帝国の建国者Mamary Coulialy のお墓がセグー近郊のセグーコロというところにありました。


「西アフリカ」編 マリ共和国 モプティ→セグー→バマコ ポポ人の市場1

2011年02月07日 08時32分39秒 | マリ共和国

「西アフリカ」編(マリ・ガーナ・ベナン)は2007616日の「世界の砂漠 サハラ砂漠」と題して始まり2007930日のドゴン人の紹介以来中断していましたが本日から再開します。旅程図は2007616日をご覧ください。画像は少し見にくいので2度クリックして拡大してください。

 マリ共和国の首都バマコ空港経由でトアレグ人とベラ人とサハラ砂漠で出会ったトンブクトウ、それから空路でモプティへ。そこから泥モスクのジェンネとドゴン人集落の観光をしたところまで紹介しました。今回はそれ以後になります。

 モプティからセグーの経由で再びバマコへ帰ります。途中でポポ人のサン村の市場に立ち寄りました。以下市場の様子を三枚


「中国シルクロード」編 最終回 現地ガイドの発言色々

2011年02月05日 08時22分26秒 | 中国シルクロード

 

 中国ルクロードの旅は1998年のウルムチから北京までの敦煌を含む河西回廊など(以下「前」と略記)と、206年のウルムチからカシュガルまでのタクラマカン砂漠縦断、天山北路、南路など(以下「後」)の2回で、このブログでの紹介は主に「後」でした。そこで最終回にあたり現地ガイドの話を少し紹介しておきます。個々の人たちを特定して紹介すると差しさわりがあるといけないのでそれは省略します。

 「前」「後」通じて巧拙はありますがかなりの僻地でもすべて日本語でのガイドでした。

 面白いことに、「前」では私が確認した限りでは一人を除いてすべて共産党員であったのに対して「後」では逆に一人を除いてはすべて共産党員ではありませんでした。そのことについて「後」の人に尋ねたところ「今は党員で無くても仕事が自由にできる」という印象深い話が聞けました。

 もっと面白いことに共産党員の「前」の人たちの多くが非共産党員の人を含めて共産党批判、政治批判が激烈だったということです。

 その一人は父親が共産党員で党の指令である重要都市に移住して現在は年金生活者ですが、彼はいまの党は堕落していると言っているそうです。当人(党員)の発言「日本は国の責任者を下から選ぶが中国では上の人が選び民主的でない」も興味深かったです。この人を含めて「前」の人たちは「周恩来」を尊敬しているといった人たちが多かったです。

 これも「前」の人でしたが、あまりにも共産党批判、政治批判が強いのでそんなことを言って大丈夫かと心配して言うと「日本語の分かるやつはいないから大丈夫さ」と言っていました。

 敦煌へ向かっている時(「前」)写真のようなトラックの大群に出会いました。積荷は綿花です。これを見て現地ガイドは「この綿花はすべて軍用で民間にはいかない」と噛んで吐き捨てるように言っていたのも印象的でした。

 これに対して「後」の人たちの共産党、政治批判は控えめのようでした。しかし貧富の格差について嘆く人は多かったようです。幹部の給与はボーナス部分が多くそれには税金がかからないのが不公平だと言っている人がいました。「後」はウイグル族の多く住むところでしたが、遠慮がちにイスラーム教に対する共産党の政策について不満を述べていました。共産党員でイスラーム教徒の人がいましたが、周囲に分からないようにラマダン(イスラーム教徒の断食)をしていると話してくれました。

「後」は日本の首相が小泉→安部の時でしたが、小泉はカッコ良く好きだが、安部は嫌いだといっていたことも思い出しました。

 もう一つ。名門大学を卒業して、日本の一流大学に留学予定の若者がいました(「前」)。彼は日本でいえば昔の恩賜の時計(成績優秀者に与えられる)にあたる毛沢東のロゴのある腕時計をしていました。当時日本では毛沢東のスキャンダル本が出て評判になっていたのでその本を日本から送ってやろうかと冷やかしていました。間もなくその時計は姿を消して違った時計になっていました。

 

 以上でバインブルク大草原で始まった(2006926日 写真は私のPCの壁紙にしています)「中国シルクロード」を終わります。次回からは「西アフリカ」編を再開します。

 

 


「中国シルクロード」編 番外編 台湾の人1

2011年02月03日 08時36分31秒 | 台湾

シルクロードとは直接関係はありませんが、同じ中国ということで台湾の人との思い出を紹介します。2003年にクロアチアで出会った台湾の人に関連しての話です。以前友人のホームページ(現在閉鎖)に書きこんだ文章の再録です。 

 

外国旅行をしていると各国の観光客にたくさん出会います。私の経験によればドイツ人が多い様な気がします。東洋人としては、韓国、台湾、香港の人たち(最近では中国本土の人も)が大部分で他の国の人には殆ど出会ったことはありません。そのなかで年配の台湾の人たちから流暢な日本語で「日本の方ですか?」といって親しげに話しかけられることがたびたびあります。韓国の人からはそういうことは一度もありませんでした。その違いは何なのだろうかな?といつも思っていました。       

今回クロアティアでもやはり台湾の人から声を掛けられました。私は「日本は皆さんにあまり良いことをしなかったにもかかわらず、親切に声を掛けていただいてうれしいです」と言いました。すると一人は「台湾の現代化は日本のおかげです」、もう一人は「50年前は同胞でした」と言う答えが返ってきました。私は名状しがたい感情の高ぶりで涙を抑えることが出来ませんでした。

なぜこのような発言がなされたのか、今回はそのことについて少し本気で考えてみることにしました。

最初に考えられるのは台湾と朝鮮半島に対する日本の植民地政策の違いに起因するということです。しかしこれは私の乏しい知識に照らし合わせても間違いだと思いました。そこで気がついたのは台湾での本省人と外省人の感情的対立問題です。現在の台湾人の構成は2100万人のうち先住民族32万人、残り15%が外省人、85%が本省人とされています。先住民族については説明の要はないですが、外省人と本省人について説明しておきます。外省人とは1945815日以後台湾に移り住んだ人たちで主として国府中央の台湾移転にしたがって移り住んだ人たちで軍人60万を含む200万人とされています。(国防秘密ということで公表されていない) 当時の総人口は560万人でした。

そこで10数年前に読んだ岩波新書の「台湾」(戴國輝 著)を再読することにしました。以下この本をつまみ食い的に紹介します。

「光復への興奮、(国府軍への)歓迎の熱情は日に日に冷めていった。」「(国府)の諸政策は、台湾人を侮蔑、搾取するものとして、非難と弾劾の的になった。」

そうしたとき1947227日の悲劇が起きました。(「この事件を語ることも、研究することもタブーだったために、その実態と真相は今なおいっこうにに判然としない」)

 

   「専売局のヤミタバコ摘発の警官隊が**屋台売りの婦人からヤミタバコを押収しようとしてもみあい***若い外省人の警官が**殴打した。警官は**発砲***即死**。民衆の憤懣が極度に先鋭化した。***外省人と見ればリンチを加え、外省人経営の店舗を襲い***。『反乱』の波は瞬く間に全台湾に伝播した。****『チャンコロ』という罵声を、本省人が同胞たるべき外省人に向けてどなりちらす***鎮圧軍の弾圧行動はたけだけしく****。弾圧されて死傷したものは万にのぼる***。」

   この事件を著者は次のように総括する。

  「日本植民地時代の『共犯構造』の従犯者らは、228事件を機に、いつのまにか民衆の視野と記憶から巧みに身を隠した。彼らは一転して胸を張り、新しい『共犯構造』のワキ役として、さりげなくふたたび立ち現れることになる。彼らは自らも本省人だから被害者だと主張するかのようなジェスチャーでふるまう。******民衆に対して国府・国民党・外省人を巧みに、かくれみのとしてフルに活用する。かくれみのが存在し政治的タブーが持続する限り、彼らは虚構と虚飾の大いなる環境の中で保身の術を磨き、余生を楽しむ。」(p112 )

 字数御オバーで分割します。

 

 

 

 

  


「中国シルクロード」番外編 台湾の人2

2011年02月03日 08時31分09秒 | 台湾

 

 以上を私の文脈に沿って言い換えると、日本植民支配への怒りが外省人への怒りで隠され、そのかくれみので保身され余生を楽しむ人たちが私に話しかけてくれたという結論になるようです。なんと後味の悪い、結論でしょう。真実を知らなかったほうが良かったかもしれません。それとももっと違った要素もあるような気もしないでもありません。誰か教えていただければ幸いです。

 

 以上が友人のホームページに寄稿した文章ですが、その後気付いたことを付加しておきます。

韓国で比較的親日的な人が多いのは済州島の人であるという話を聞いたことがあります。もしそれが本当であれば1947年の数多くの民衆が犠牲になった済州島43事件が関係しているのではないかということです。済州島の人も1945年の日本の植民地からの解放があったにもかかわらずその直後に自分たちの政府からひどい弾圧を受けたという台湾の人と同じ経験を持っていることがその理由の一つではないかと私の推測です。もう一つ両者の共通点はいずれも事件を語ることが長い間タブー視され最近ようやく真相が語られるようになったことです。