日本は「古事記」の時代から八百万(ヤヨヨロズ)の神の存在する国でした。その後、仏教が伝来し神仏習合で1千万を超えているかも? しかし、その象徴のような「祠」を現在では見かけることも少なくなりました。(キリスト、イスラーム圏にはありません。そのことについては2010円年11月9日に少し紹介しています)しかし、黒島では健在でした。
写真を見て「なんだ これ?」ですね。居住者が家を出て廃屋になった部屋の一室なのです。ここに海の神が祭られているはずというというガイドの山田さんの話です。黒島でも祠は消滅の危機に瀕しているのですね。なお、家屋の中で神様を祭るというのは特別のことではないようです。「三島村誌」によれば「○○神社○○家に祭る」という記載がいくつかあります。
「追記」(2015年10月17日)
「網野善彦対談集2」(p11)に以下のことが書かれていました。
「『網野』 **神奈川県のある豪農は、自分の館のなかにたいへん大きい神社(屋敷氏神)をもっている。こういう特定の家に結びついて神社があるかたちは、東には多いですね。おもしろいのはその家がきちんと先祖祭りをいてくれないと村全体が困る。不幸になるという意識がある***」
「三島村誌」(p1226)には以下のような記載があります。
「黒島には大里と片泊の二部落があるが、古老の話では、今まで両の間の婚姻は一つもなかったという。しかし、一方では片泊の人が大夫や庄屋の畑を耕していたころは、片泊は、大里間の婚姻はあったが、大正中ごろから絶えたという人もいる。いずれにしても戦後初めて両間の婚姻が一組成立したときはずいぶん話題となったらしい」
この文章と写真の掲示板の文章とを比べてみてください。両者のから受ける印象には少し微妙な違いがあります。写真の掲示板は6月17日の地図で見れば大里と片泊の中間地点より大里に近い赤鼻という岬にあります。この場所には写真の右上に見える岩がありましたが、現在は道路工事のため撤去されました(勿体無いことをしましたね)。この岩を隔てての若者のラブコールがあったというわけです。普通の両の若者たちの牧歌的ラブロマンスのように掲示板からは読み取れます。
しかし、現実は「三島村誌」の記事通りであったようです。昔から両は対立関係にあったようです。その理由や実態についてはガイドの山田さんからは聞くことはできませんでした。ちなみに、あまり大きくない島にもかかわらず両に別々に小・中学校があります。
なお、有吉佐和子の小説「私は忘れない」(私は残念ながら読んでいません)には両の若者のラブロマンスが描かれていますが、たぶん「三島村誌」に記載されて「戦後初めて両***」がモデルになっているのでしょう。映画ではこれが主要なテーマの一つになっているようです。ガイドの山田さんの映画の思い出はこれでした。
断崖絶壁を降りても船着場まで簡単には行けません。そこで考えられたのがトンネルです。私の技術の未熟さで写真でははっきりわかりませんが、中央にかすかに見えるのがトンネル跡です。山田さんの記憶では約60年以前の工事だそうです。当時の人たちにとっては大工事であったに違いがありませんが、不思議なことに三島村誌にはその記載がありません。この工事がいろんな意味で失敗だったので記載されなかったではないかと私は妄想しました。
PCを取り替えて再開します。
「三島村内の港湾工事が本格的に開始した30年代から今日まで30数年後の現況と比較すれば雲泥の差があり、むかしの船着場は、近代的港湾に更新され、むかしの残承はほとんど存在しない」とは三島村誌(平成2年発行p932)です。
そこでその残承を紹介します。写真は片泊の「ふれあいセンター」に展示されていたものです。何だと思いますか。遊びではありません。三島村誌(p907)に「黒島の沿岸は、おほむね断岩を以て牆壁(「しょうへき」と読むようです。ようやくパソコンで見出しました)を廻らし***舟を寄するも村落に通ずることは出来ない」と書かれています。したがってこの構図は船に乗るため断崖を降りて行く姿です。
荒天の時は上陸不能になります。「『アヨー、なごたにから、ちかたをみれば、ちかたそけある、いきゃならぬ、アヨーアヨー』は島の民謡の一節(私にはよく意味がわかりませんが、なんとなくわからないでもない)***とりのこされた島の人のなげきをよく表現している」と三島村誌(p1237~38)に書かれています。