100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

2017年8月18日の「臨時特別編」「8月15日は?『終戦の日』?『敗戦の日』?」の再録(一部修正)

2019年08月15日 08時02分16秒 | 時評

 

 私は8月15日を「敗戦の日」と謂うべきだと思っています。安倍首相は「敗戦の日」ということは知ってはいるが、そういいたくなく「終戦の日」と謂うべきだと考えているでしょう。これは現在の多くの日本人の常識かもしれません。マスコミ関係は全て「終戦の日」ですね。しかも8月15日を最近では「敗戦日」ということも知らない人もいるようです。私は「終戦の日」と認識することによって「アジア太平洋戦争」の本質を誤解し、戦争責任をあいまいにし、現代日本の理解も間違うのではないかと危惧しています。これ以上の議論は私の能力を超えるのでやめますが、実は写真の8月15日の朝日新聞の天声人語欄の紹介が目的でこの文章を書くことになりました。

 ご覧ください。8月15日を「敗戦の日」と「終戦の日」の2つの表記をしていますね。一般的には同一の文章で同一の事柄を違った表記はしないと思います。その場合はその理由が書かれるべきでしょう。朝日新聞の社是は「終戦の日」ですが、筆者は「敗戦の日」が正しいと思っているので高倉健の言葉にかこつけて「敗戦の日」と書き、最後は「終戦の日」で妥協した文章ではないかと私は妄想しました。いろんな読み方があると思います。皆さんのご意見を伺いたいものです。


「臨時特別編」記憶されない歴史は繰り返される

2019年08月12日 08時05分14秒 | 時評

 

 写真は雑誌「週刊金曜日」8月9日、8月16日合併号の表紙です。わたくしはこの雑誌を手にしたときこの「記憶されない歴史は繰り返される」が強烈にわたくしに迫ってきました。わたくしはキャッチフレーズ的なものにはあまり感動しないのですが、これには。国語力の貧弱なわたくしにこれ以上どのように表現していいのかわかりません。粗忽なわたくしはページをめくって確かめることなく、慌てて「週刊金曜日」編集部に電話を入れその由来を聞きました。発行人の植村隆氏が電話に出てこられてp16に記載されていると教えられて、わたくしの祖忽な行為を反省しました。植村さんごめんなさい。

 そのp16の冒頭部分を紹介します。

「韓国ソウルの南山(ナムサン)の麓に日本軍『慰安婦』を追悼する公園『記憶の場』がある。モニュメントには、日本語など4カ国語でこう書かれている。「記憶されない歴史は繰り返される』。***その言葉を心に刻みたい」 

 この言葉拡散してほしいですね。

 


「原爆8.6・8,9」に寄せて

2019年08月09日 08時02分38秒 | エンディングノート

 

私の103国の旅を通じて感じることの一つに、日本人が思う以上に、広島、長崎への原爆投下について外国人の関心度が高いように思います。日本から来たと話すとヒロシマ・ナガサキと返ってくることが度々です。

 セルビア人との会話で彼は「アメリカは帝国主義国で嫌いだ。あなたもヒロシマ・ナガサキに原爆を落とされたからアメリカは嫌いだろう」今だに記憶に残る会話でした。(2011年1月16日紹介)

 ところがアメリカ合衆州国だけは違いました。返ってくる言葉は「オキナワ」でした。

 写真はアイルランドのコーク市にある「原爆追悼碑」です。日本語のガイドブックにも記載されていませんし、日本の原爆禁止運動の関係団体にも知られざる「碑」です。いかにしてこの存在を知り写真を撮ることになったかは2005年11月11日に紹介しています。碑文文字が見にくいので、以下紹介します。”In memory of the victims of Hiroshima  and Nagasaki .It must not happen again.

 この碑の由来についてはユーラシア旅行者の伊藤さんを通じてコーク市当局に問い合わせをしてもらいました。その回答文は2007年2月26日に紹介しています。

 先年、オバマ大統領のヒロシマ訪問が話題になりましたが、戦後初めてヒロシマを訪問した世界の政府要人はキューバのゲバラです。2013年4月20日に以下のように紹介しています。

「1959年アジア・アフリカ親善大使として来日し12日間日本に滞在し、その間広島を訪れ原爆慰霊碑に花束を捧げています。この時「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」と語ったという話があります」

 個人的には積極的には原水爆禁止運動にかかわりませんでしたが、なぜか運動の節目での参加者となりました。最初は1954年の第五福竜丸被ばく事件で日本での原水爆禁止の運動が始まった時です。この時わたくしが在学していた岡山大学でも開学以来の全校在学生の半分以上の参加者で原水爆禁止の集会が開かれました。その時わたくしはこの大集会の議長を務めました。本題から外れますがこの時マスコミの取材を受けましたが、なぜか原水爆禁止の話より今後の学生運動の見通しについて盛んに尋ねられたことを記憶しています。当時全国的に学生運動が衰退していて岡山大学でも学生自治会は消滅していました。

 1963年原水爆禁止運動を担う原水協がヒロシマでの世界大会で分裂します。その広島世界大会に岡山県代表の一員として参加していました。分裂の危機を寸前にした安井郁を先頭にした行進はいまだに瞼に浮かびます。

分裂に直面した岡山県代表団はどう対処するかで広場で討議しました。その時は広場で100人ぐらいの代表団だったので意見発表のためにマイクの奪い合いになりました。その時わたくしの大声がマイクなしの私の発言を可能にしました。今でもわたくしの大声はいつも注意されます。一生のうち、この時が唯一大声が役に立った時でした。

 ついでにこの分裂騒ぎの一こまを。この分裂時に共産党の方針に反対した党員たちがかなり大量に(?)党から離れていきました。その一人が著名な主義マルクス哲学者古在由重でした。旅で偶然この古在由重の娘さんと一緒になりました。(2000年)その娘さんお話では当時共産党議長(委員長?)の宮本顕治が毎日説得のためか古在宅に来ていたそうです。なお、古在由重はかなり以前からソ連に対して批判的だったとは彼女の話です。

 

 

 

 


再開「エンディングノート」編 85歳のつぶやき

2019年08月06日 08時01分45秒 | エンディングノート

 

 7月25日に85歳になりました。日々老化は深化(進化)しています。先日散歩中、向こうから来た見知らぬ美女から挨拶を受けました。慌てたわたくしは急いで挨拶を返そうとした瞬間、転倒しました。怪我はしましたが、幸い骨折はしませんでした。(イワシの丸干しを常日頃頭から食べているせいか?)

 最近図書館から借りてきた本を家に帰り読み始めたところ、なんだか変な気がしてわたくしの貧弱な書庫を見ると同じ本がありました。

 近所にわたくしより一つ下の女性がいます。大変明るくて幸せそうな表情の方です。彼女は楽しそうにいつも同じ事ばかり話して、かなりボケが深化(進化)しているようです。その人の最近ちょっと違ったセリフを聞きました。「わたくしはいつもボケないように努力しています」

最近、医師であり作家の久坂部という人の文章に出会いました。「高齢者医療の現場で多くの患者を診察してきた私は、認知症になって、悔やんでいる認知症の患者を診たことがない。**逆に超高齢者になってもなお頭のハッキリしている人は、ある意味、不幸である」(雑誌一冊の本8月号「認知症の嘘と真実」p2~3)

どちらにしての今回の選挙では「安楽死党」に投票すべきだったと反省しています。

この写真は以上の文章とは無関係ですが、今回新たに購入したPCの壁紙にしたものです。鹿児島県三島村の俊寛伝説で有名な硫黄島です。この露天温泉はLonely planet(p744)に”a must for onsen  connoisseurs”と紹介されています。8月3日のNHKのTVの「さかなクン」の番組でこの写真と同じものが放映されていました。このブログでは2015年6月5日~6月11日、2015年10月7日~11月21日に硫黄島を紹介しています。ご覧いただければ幸いです