この日も快晴で気持ちの良い朝だったので、北鎌倉に抜けようと思って、9時過ぎに源氏山へ上り、源頼朝像の前に立った。
小鳥の鳴き声以外は何も聞こえない静かな朝で、紅葉に包まれた丘の上の綺麗な公園の真ん中に鎧姿で端座する銅像は、何となくそぐわないが、当時は、鬱蒼とした山中であろうし、ここに頼朝軍が集結して出陣したと言うことだから、由緒正しい場所なのである。
その頼朝像のすぐ背後から、急峻な化粧坂が始まる。少し下れば眼下に民家が見えるので短い坂道だが、非常に傾斜が激しく道の体をなしていないので、地面が湿っていると滑り易いので気をつけて下りなければならない。
化粧坂(けわいざか)とはうまく言ったもので、平家武者の打ち首を化粧したとか、女郎屋があったとか言うことだが、新田義貞が軍を率いて鎌倉に攻め込んだとも言われているので、昔からの坂道であったのであろう。
ここもそうだが、源氏山の場合は、山を下って平地に下りると下は殆ど平地になっていて、このあたりも道路に沿って民家が集まっている。
とにかく、鎌倉は山が迫っていて平地が少ないので余分な住宅地が殆どなく、古都保存法があるので、新築の住宅は難しいと聞く。
化粧坂を下って少し歩くと、民家が建つ反対側の右手の崖っぷちに石柱が二本立っている。景清の土牢跡である。
地上2メートルほど上にある大きな岩を垂直に切り出した壁面と、三角様に残った天井の部分だけしか現存していないので土牢だとは分からないが、土の部分は崩壊してしまったのであろう。
頼朝暗殺を目論んでいた平家側の忠臣だが、歌舞伎でも中々重要な役割を演じているキャラクターなので、感に打たれてしばらく佇んでいた。
しばらく歩いて三叉路を左に折れてしばらく歩くと、前方に美しく色づいた紅葉群が見えてくると、正面の高見に花の寺としても有名な扇谷山海蔵寺の山門が見える。(口絵写真)
寺へ入る前の、手前左側のもみじの一群が実に美しく、もみじの葉が、緑から黄色、橙、赤と色のグラデュエーションが鮮やかで、平等院前の宇治川畔の錦に輝く美しい紅葉を思い出した。
山門を入ると、右手に鐘楼、正面に本堂、左手に薬師三尊像の安置された仏殿があるが、非常に小さな簡素な寺である。
鐘楼横の一本のもみじは大杯であろうか、真っ赤に色付いた大葉の鮮やかさは格別で逆光で見ると実に美しい。
今、庭に咲いている花は、サザンカとホトトギスくらいだが、あっちこっちで、真っ赤に色付いて光っている万両が美しい。
本堂正面玄関の背後の障子戸が開けっ放しにされていて、衝立越しに、朝日に輝く裏庭の風景が額縁に入った絵のように美しい。
本堂左手の十六井戸や仏像などがある洞窟前を回りこんで、本堂横に立つと、禅宗風の瀟洒な庭園が良く見える。
心字池の背後の山の傾斜を上手く利用した自然の世界を禅風に体現した庭のようだが、京都の庭のような豪華さや整然としたと言うか、計算し尽くされてプロが作庭した庭と言うような格調と精神性はあまり感じられないが、豊かな四季の移ろいを鑑賞する楽しさを感じさせてくれるシンプルな良い庭である。
はい寒椿の鮮やかな赤が印象に残った。
ところで、余談だが、この寺の山門を入って正面の本堂に向かう石段右手に、大きな赤い番傘が立っていて、前に小さな台が置いてあり、その上に、海蔵寺演略縁記と言う小冊子の山と、小銭入れの箱が置いてある。
後のたて看板に拝観料(?)だったと思うが、一人100円入れてくださいと言ったことが書いてある。
気付かない筈がないのだが、10時過ぎには沢山人が入って来たが、見るとはなく見ていると、90%以上の人が無視して境内を散策し、ひどいのになると、一銭も置かずに、沢山小冊子を取って、仲間に配っている人がいる。
自律と自己責任の徹底した欧米と比べて、何処でも検察・切符チェックを止められない日本の悲劇と言うか、モラルのなさを感じて、日本の将来は暗いと思ったが、ひとごとであろうか。
寺を出て、踏切を渡ると、小さな真新しい八角形のお堂が左手に現れる。
海蔵寺に所属する岩船地蔵堂で、源頼朝の長女大姫の守り本尊を体内に内蔵した木造地蔵菩薩像が安置されていると言う。
私は、判官びいき、その上に、平家びいきであるから、源頼朝が好きではないのだが、この大姫に対する仕打ちについても納得できないと思っている。
院宣によって木曽義仲を討ったので、自分の平家への恨みつらみと同じことが起こって、謀反を起こされては大変と疑心暗鬼で、その子である木曽義高を刺客を送って殺害するのだが、その結果、許婚であり義高に恋焦がれていた自分の最愛の娘を苦しめてあたら20歳で死なせてしまう。
分からなければ見過ごしてしまうお堂が哀れである。
小鳥の鳴き声以外は何も聞こえない静かな朝で、紅葉に包まれた丘の上の綺麗な公園の真ん中に鎧姿で端座する銅像は、何となくそぐわないが、当時は、鬱蒼とした山中であろうし、ここに頼朝軍が集結して出陣したと言うことだから、由緒正しい場所なのである。
その頼朝像のすぐ背後から、急峻な化粧坂が始まる。少し下れば眼下に民家が見えるので短い坂道だが、非常に傾斜が激しく道の体をなしていないので、地面が湿っていると滑り易いので気をつけて下りなければならない。
化粧坂(けわいざか)とはうまく言ったもので、平家武者の打ち首を化粧したとか、女郎屋があったとか言うことだが、新田義貞が軍を率いて鎌倉に攻め込んだとも言われているので、昔からの坂道であったのであろう。
ここもそうだが、源氏山の場合は、山を下って平地に下りると下は殆ど平地になっていて、このあたりも道路に沿って民家が集まっている。
とにかく、鎌倉は山が迫っていて平地が少ないので余分な住宅地が殆どなく、古都保存法があるので、新築の住宅は難しいと聞く。
化粧坂を下って少し歩くと、民家が建つ反対側の右手の崖っぷちに石柱が二本立っている。景清の土牢跡である。
地上2メートルほど上にある大きな岩を垂直に切り出した壁面と、三角様に残った天井の部分だけしか現存していないので土牢だとは分からないが、土の部分は崩壊してしまったのであろう。
頼朝暗殺を目論んでいた平家側の忠臣だが、歌舞伎でも中々重要な役割を演じているキャラクターなので、感に打たれてしばらく佇んでいた。
しばらく歩いて三叉路を左に折れてしばらく歩くと、前方に美しく色づいた紅葉群が見えてくると、正面の高見に花の寺としても有名な扇谷山海蔵寺の山門が見える。(口絵写真)
寺へ入る前の、手前左側のもみじの一群が実に美しく、もみじの葉が、緑から黄色、橙、赤と色のグラデュエーションが鮮やかで、平等院前の宇治川畔の錦に輝く美しい紅葉を思い出した。
山門を入ると、右手に鐘楼、正面に本堂、左手に薬師三尊像の安置された仏殿があるが、非常に小さな簡素な寺である。
鐘楼横の一本のもみじは大杯であろうか、真っ赤に色付いた大葉の鮮やかさは格別で逆光で見ると実に美しい。
今、庭に咲いている花は、サザンカとホトトギスくらいだが、あっちこっちで、真っ赤に色付いて光っている万両が美しい。
本堂正面玄関の背後の障子戸が開けっ放しにされていて、衝立越しに、朝日に輝く裏庭の風景が額縁に入った絵のように美しい。
本堂左手の十六井戸や仏像などがある洞窟前を回りこんで、本堂横に立つと、禅宗風の瀟洒な庭園が良く見える。
心字池の背後の山の傾斜を上手く利用した自然の世界を禅風に体現した庭のようだが、京都の庭のような豪華さや整然としたと言うか、計算し尽くされてプロが作庭した庭と言うような格調と精神性はあまり感じられないが、豊かな四季の移ろいを鑑賞する楽しさを感じさせてくれるシンプルな良い庭である。
はい寒椿の鮮やかな赤が印象に残った。
ところで、余談だが、この寺の山門を入って正面の本堂に向かう石段右手に、大きな赤い番傘が立っていて、前に小さな台が置いてあり、その上に、海蔵寺演略縁記と言う小冊子の山と、小銭入れの箱が置いてある。
後のたて看板に拝観料(?)だったと思うが、一人100円入れてくださいと言ったことが書いてある。
気付かない筈がないのだが、10時過ぎには沢山人が入って来たが、見るとはなく見ていると、90%以上の人が無視して境内を散策し、ひどいのになると、一銭も置かずに、沢山小冊子を取って、仲間に配っている人がいる。
自律と自己責任の徹底した欧米と比べて、何処でも検察・切符チェックを止められない日本の悲劇と言うか、モラルのなさを感じて、日本の将来は暗いと思ったが、ひとごとであろうか。
寺を出て、踏切を渡ると、小さな真新しい八角形のお堂が左手に現れる。
海蔵寺に所属する岩船地蔵堂で、源頼朝の長女大姫の守り本尊を体内に内蔵した木造地蔵菩薩像が安置されていると言う。
私は、判官びいき、その上に、平家びいきであるから、源頼朝が好きではないのだが、この大姫に対する仕打ちについても納得できないと思っている。
院宣によって木曽義仲を討ったので、自分の平家への恨みつらみと同じことが起こって、謀反を起こされては大変と疑心暗鬼で、その子である木曽義高を刺客を送って殺害するのだが、その結果、許婚であり義高に恋焦がれていた自分の最愛の娘を苦しめてあたら20歳で死なせてしまう。
分からなければ見過ごしてしまうお堂が哀れである。