熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

有馬元文相日本の教育の現状を憂う

2008年12月11日 | 政治・経済・社会
   国際学力テストの結果が発表されて、日本の小中学生の理数学力が横ばいだが、相変わらずシンガポールや台湾などの後塵を拝しており、パッとしないと報道された。
   その報道の前日、文部大臣であった有馬朗人元東大総長が、赤軍派学生に占拠され破壊の危機に瀕していた安田講堂に、その後始めて立って感無量だと言いながら、
   小中学生の学力は決して落ちていない、マスコミや教師たちが騒ぎ過ぎで、子供たちを萎縮させている、水準は高いのであるから褒めるべきである、と語った。

   有馬総長の話は、「躍進する中国科学技術力」と言う日中科学技術シンポジウムの基調講演でのことであるが、中国の科学技術の飛躍的な躍進を語りながら、日本の科学技術力とその教育体制等についても、その問題点についていくつかの警告を発した。
   その内の一つが、若者たちの教育への危機意識で、人類にとって21世紀は希望のある社会になると思うかと聞かれて、中国の中学生の91%は大いなる希望を持っていると答えているのに対して、日本の中学生で、そう思っているのは29%にしか過ぎず、何とかなるだろう、どうなるか分からないと思っている者が大半だと慨嘆する。
   明日の日本を背負って立つ若者が、明日に夢も希望も持っていない悲しい現実をどのようにして打開して行くのか、厳しい岐路に立った日本の試練であろう。

   有馬総長は、中国の高校生が、米ロを凌駕して各種科学オリンピックで圧倒的な強さを誇っていることを示し、日本がやっと本腰を入れて取り組み始めたと語りながら、まだ、日本の教育界に、競争心は良くないと言う風潮が依然濃厚だと顔を曇らせた。
   日教組批判で最近首が飛んだ大臣がいたが、私自身も、この民主主義教育の精神を履き違えた日本の教育の現場での悪平等志向は、全く由々しき問題だと思っている。

   有馬総長は、日本の現在の教育の最大の問題は、エリート教育の軽視であると語った。特に、科学技術関連では、目も当てられない惨状だと言う。
   高等教育に対する公財政支出のGDP比率は、アメリカやヨーロッパ諸国は1%だが、日本は0.5%と言う低水準で、一生懸命に努力して育てて来た筈の博士号取得者の数が最近低落傾向だと嘆く。
   ポスドクの有為な人材に、まともな職場さえ与え得ない日本の不甲斐ない現状を考えれば、慙愧に耐えないが、当然であろう。
   
   このエリート教育の軽視やリベラル・アーツ教育の無さなどリーダーシップ教育における日本の教育の問題については、これまでに何度も、このブログで論じて来たので止めるが、一つだけ、現状を踏まえて如何に影響が大きいかを示したい。
   これは政治の世界で言うと、エリート教育を軽視して、出る釘を育成せずに、同じような平等なスペアパーツばかり育てる教育体制を敷いて来たので、後継者として血筋や閨閥ばかりが強く前面に出て、二世三世議員ばかりが蔓延ると言う現象が強くなってしまったと言うことである。
   その結果が、どうなったか、如何に惨憺たる悲劇を惹起したかは、最近の三代にわたる日本の総理大臣を見れば、自明の理であろう。

   歌舞伎など芸術や工芸等々才能や天性の能力が問われる世界でのDNAの重要性は、それなりに評価されるにしても、時々刻々と変化する政治経済社会現象である世界でのリーダーシップは、プラトンの哲人政治に言及するまでもなく、真の教育と訓練を受けたエリートの活躍の場であるべき筈なのである。

   クリエイティブな価値創造の時代に突入した今日、例えば、一芸に秀でた超エリートを育成する教育も必要であろう。
   あの鎖国していた徳川時代には、日本的で素晴らしい芸術文化が花開き、日本の精神文化を高みに持ち上げたが、如何せん、金魚鉢の中の世界であったので、科学技術の遅れは致命的で、黒船に凌駕されてしまった。
   今回、ノーベル賞で、日本パワーが炸裂したが、半分以上は、海外発の知であることを考えれば、日本の教育のあらゆるバリアーを取り払って、完全に世界へ向かってオープンにして、グローバルに通用するエリートを育成することが大切であろう。
   エリートと言う言葉とイメージが良くないが、要するに、能力ある人に、それだけに働きをしてもらうことだと考えれば良いのである。
   
コメント
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