暁星時代に徹底的に悪がき(?)に苛め抜かれて、たった二人の親友しか持てなかった寂しく苦渋に満ちた青少年時代、そして、苦しい歌舞伎の修行の世界。「幼少の砌から優等生であった僕は、同世代の友達で埋めることができなかった大きな穴を、こともあろうに女の子で埋めようとしたんだね。」と、
これまでの芸術論や芸談とは全く違ったタッチで、娘松たか子への「父と娘の往復書簡」で、しみじみと人生と芸を、大歌舞伎役者松本幸四郎が吐露している。
私自身が、一番最初に観た松本幸四郎の舞台は、1991年ロンドンのサドラーズウエールズ劇場での「王様と私」であり、蜷川のシェイクスピア「オセロー」やドン・キホーテの「ラマンチャの男」の舞台で感激したのであるから、必ずしも、歌舞伎役者としての幸四郎を見ている訳ではないが、高麗屋の女房・紀子さんのことどもや染五郎・紀保・たか子との芸談など最近の舞台の話題などを交えながら、人間幸四郎を語っていて非常に興味深く読ませて貰った。
大人として、一人前の女優として着実に成長を続けている次女の松たか子が、非常に誠実に、父として偉大な芸の先輩として幸四郎に真摯に対応しているのが清々しくて良い。
松たか子の舞台で観たのは、最近では、蜷川の「ひばり」や幸四郎との「ラマンチャの男」で、この本でも触れられていて参考になった。大分前に観た蜷川の「ハムレット」のオフェリアも非常に新鮮な印象を持ったが、やはり、その他の松たか子の舞台には、世代の差や好みもあって、歌も芝居も含めて馴染めそうにはなさそうである。
人気役者としての宿命か、マスコミに、2度も死亡通知を出されたり、誤報・ゴシップ記事の洗礼を受けるなど色々あったようだが、
幸四郎の人間形成において、非常に重要だと思ったことは、先に書いた小中高の一貫教育の暁星で、延々10年間も同じ生徒たちに苛め抜かれた「いじめられっ子」であったこと、そして、唯一の救いが芸の世界であって、学校―稽古―舞台―予習―就寝と言う何のゆとりも楽しみもない生活の中に、いじめられている嫌な思いを封じ込めることができたと語り、子供時代の楽しい思い出など皆無に等しいと言っていることである。
15歳の時に、TVドラマに出て、人生に拗ねていた歌舞伎しか知らない暗い少年染五郎が、禁断の園の少し年上のきれいなお姉さんを見てお友達になりたいと別の自分に目覚めて、27歳で紀子さんと結婚するまで、カサノバ時代が続いたと言うのが面白い。そのころまで、僕は本当にどうしようもない奴だった、情けない限りだと、娘に慨嘆しているのだが、「キャンティ」と言う歴史あるレストランで、様々な文化人の方達と遊んでいたことやバンドを組んでいた話などを聞きたいと娘に言われて、ヨーロッパ風のデカダンスな雰囲気ですぐ足が遠退いたと、ちらりと語っている。
この往復書簡で重要な位置を占めているのが、父白鸚の芸と偉大さについて松たか子に伝えようとして詳しく語っていることである。
幸四郎にとっての白鸚は、芸でも精神でも、自分のすべてを見せることで学ばせる存在だったと言う。親子と言う間柄、素直でないと言うか、実に複雑なもので、先輩・後輩、大人と子供と言う客観的な面と、親子ゆえの愛や信頼に満ちた深い気持ちとが共存していて、お互いにその気持ちを言葉にすること無くきてしまったようなところがあると言うのである。
白鸚の内蔵助に憧れるのは、言葉ではなく演じることで、内蔵助としての肝をきちんと伝えて確実に育ててくれたからだと語っている。
歌舞伎の世界では白鸚が憧れだったが、新劇の世界では芥川比呂志に憧れて、すっかり芥川になりきって演じていたと言う時期があったらしい。
幸四郎の芸域をぐっと広げて、歌舞伎もシェイクスピアもミュージカルも器用に演じ分ける大役者に育てたのは、やはり、白鸚が、息子兄弟や高麗屋一門を引き連れて東宝に移って新境地を開いたことがあったればこそであろう。
菊田一夫との東宝歌舞伎、それに、東宝がプロデュースする新しい演劇こそ、白鸚の見果てぬ夢だったと言うし、ここで、幸四郎も「王様と私」の舞台を踏んでいる。
白鸚が、勧進帳の指導に渡米した時、ニューヨークのオフ・ブロードウェイで、偶然見た「ラマンチャの男」に感激して、すぐ東京に電話して、幸四郎にやらせたいと言って、これが切っ掛けで日本での上演が決まった。
更に、白鸚が、弁慶を教えた俳優のドン・ポムズ氏がNHKの仕事で来日し、幸四郎に英語の台詞の特訓を行ったと言うのである。
この話の後で、幸四郎は、「人には試練と思われる程の選択を迫られる時があるが、大切なのは、前向きに考え、目的を達成するために努力し続けることで、そうすれば、自ずと道は拓ける。B型獅子座の奔放な塊みたいな僕だが、そんな僕でも、悩んだり苦しんだりしながら、己の信じる道を進んできたのだよ。」と語っている。
幸四郎には、男のように素っ気ない娘たか子に、問われるままに、父として役者の先輩として、万感の思いを込めて書き綴ったのが、この往復書簡だが、一応公開を前提にしての書簡なので、色々な思いが封印されてはいるが、幸四郎と松たか子の芸論や人間性が迸っていて非常に新鮮である。
初孫の齋の手を引いて披露公演に登場したでれでれの幸四郎の姿を思い出すが、染五郎や紀保のことなど、それに、舞台の話など、プライベートに近い高麗屋の姿が垣間見えて非常に興味深い本であった。
これまでの芸術論や芸談とは全く違ったタッチで、娘松たか子への「父と娘の往復書簡」で、しみじみと人生と芸を、大歌舞伎役者松本幸四郎が吐露している。
私自身が、一番最初に観た松本幸四郎の舞台は、1991年ロンドンのサドラーズウエールズ劇場での「王様と私」であり、蜷川のシェイクスピア「オセロー」やドン・キホーテの「ラマンチャの男」の舞台で感激したのであるから、必ずしも、歌舞伎役者としての幸四郎を見ている訳ではないが、高麗屋の女房・紀子さんのことどもや染五郎・紀保・たか子との芸談など最近の舞台の話題などを交えながら、人間幸四郎を語っていて非常に興味深く読ませて貰った。
大人として、一人前の女優として着実に成長を続けている次女の松たか子が、非常に誠実に、父として偉大な芸の先輩として幸四郎に真摯に対応しているのが清々しくて良い。
松たか子の舞台で観たのは、最近では、蜷川の「ひばり」や幸四郎との「ラマンチャの男」で、この本でも触れられていて参考になった。大分前に観た蜷川の「ハムレット」のオフェリアも非常に新鮮な印象を持ったが、やはり、その他の松たか子の舞台には、世代の差や好みもあって、歌も芝居も含めて馴染めそうにはなさそうである。
人気役者としての宿命か、マスコミに、2度も死亡通知を出されたり、誤報・ゴシップ記事の洗礼を受けるなど色々あったようだが、
幸四郎の人間形成において、非常に重要だと思ったことは、先に書いた小中高の一貫教育の暁星で、延々10年間も同じ生徒たちに苛め抜かれた「いじめられっ子」であったこと、そして、唯一の救いが芸の世界であって、学校―稽古―舞台―予習―就寝と言う何のゆとりも楽しみもない生活の中に、いじめられている嫌な思いを封じ込めることができたと語り、子供時代の楽しい思い出など皆無に等しいと言っていることである。
15歳の時に、TVドラマに出て、人生に拗ねていた歌舞伎しか知らない暗い少年染五郎が、禁断の園の少し年上のきれいなお姉さんを見てお友達になりたいと別の自分に目覚めて、27歳で紀子さんと結婚するまで、カサノバ時代が続いたと言うのが面白い。そのころまで、僕は本当にどうしようもない奴だった、情けない限りだと、娘に慨嘆しているのだが、「キャンティ」と言う歴史あるレストランで、様々な文化人の方達と遊んでいたことやバンドを組んでいた話などを聞きたいと娘に言われて、ヨーロッパ風のデカダンスな雰囲気ですぐ足が遠退いたと、ちらりと語っている。
この往復書簡で重要な位置を占めているのが、父白鸚の芸と偉大さについて松たか子に伝えようとして詳しく語っていることである。
幸四郎にとっての白鸚は、芸でも精神でも、自分のすべてを見せることで学ばせる存在だったと言う。親子と言う間柄、素直でないと言うか、実に複雑なもので、先輩・後輩、大人と子供と言う客観的な面と、親子ゆえの愛や信頼に満ちた深い気持ちとが共存していて、お互いにその気持ちを言葉にすること無くきてしまったようなところがあると言うのである。
白鸚の内蔵助に憧れるのは、言葉ではなく演じることで、内蔵助としての肝をきちんと伝えて確実に育ててくれたからだと語っている。
歌舞伎の世界では白鸚が憧れだったが、新劇の世界では芥川比呂志に憧れて、すっかり芥川になりきって演じていたと言う時期があったらしい。
幸四郎の芸域をぐっと広げて、歌舞伎もシェイクスピアもミュージカルも器用に演じ分ける大役者に育てたのは、やはり、白鸚が、息子兄弟や高麗屋一門を引き連れて東宝に移って新境地を開いたことがあったればこそであろう。
菊田一夫との東宝歌舞伎、それに、東宝がプロデュースする新しい演劇こそ、白鸚の見果てぬ夢だったと言うし、ここで、幸四郎も「王様と私」の舞台を踏んでいる。
白鸚が、勧進帳の指導に渡米した時、ニューヨークのオフ・ブロードウェイで、偶然見た「ラマンチャの男」に感激して、すぐ東京に電話して、幸四郎にやらせたいと言って、これが切っ掛けで日本での上演が決まった。
更に、白鸚が、弁慶を教えた俳優のドン・ポムズ氏がNHKの仕事で来日し、幸四郎に英語の台詞の特訓を行ったと言うのである。
この話の後で、幸四郎は、「人には試練と思われる程の選択を迫られる時があるが、大切なのは、前向きに考え、目的を達成するために努力し続けることで、そうすれば、自ずと道は拓ける。B型獅子座の奔放な塊みたいな僕だが、そんな僕でも、悩んだり苦しんだりしながら、己の信じる道を進んできたのだよ。」と語っている。
幸四郎には、男のように素っ気ない娘たか子に、問われるままに、父として役者の先輩として、万感の思いを込めて書き綴ったのが、この往復書簡だが、一応公開を前提にしての書簡なので、色々な思いが封印されてはいるが、幸四郎と松たか子の芸論や人間性が迸っていて非常に新鮮である。
初孫の齋の手を引いて披露公演に登場したでれでれの幸四郎の姿を思い出すが、染五郎や紀保のことなど、それに、舞台の話など、プライベートに近い高麗屋の姿が垣間見えて非常に興味深い本であった。