ディズニーの最も有名なキャラクターは、ネズミのミッキー・マウスだが、しかし、ウォルト・ディズニーが映画事業を起こして最初に人気を博した主役は、ミッキーではなく、ウサギのオズワルドだった。
ウォルトが、ウサギのオズワルドの一連のアニメで有名になり、映画配給会社ユニバーサル・スタジオのチャルズ・ミンツに制作費の値上げ交渉した時に、拒絶されたのみならず、会社のアニメーター達を引き抜かれ、契約上の不備もあって、オズワルドの権利も取り上げられて、門前払いを食ったのである。
この屈辱的な不幸と怒りがあったればこそ、その後のウォルト・ディズニーの成功があったのだと、バックホルツが「伝説の経営者たち」の中で述べている。
ミンツがナイフをウォルトの咽喉もとに突きつけてオズワルドを盗んだことから、ウォルトは、2つの重要な教訓を学んだと言う。
一つは、自社の独立を保つこと、もう一つは、自分が独自に生み出したものに対する権利を絶対に手放さないことである。
この教訓は、以前に紹介した盛田昭夫が、ニューヨークで、咽喉から手が出るようなトランジスターラジオの大口注文を受けたのだが、相手先ブランドが条件であったので、涙を呑んで受注を蹴ってSONYブランドを死守したと言う逸話と同じ精神で、創業期や中小企業段階での非常に貴重な戦略であることを忘れてはならないと思う。
しかし、このキャラクター盗難事件での最大の収穫は、ミッキー・マウスの誕生であった。
オズワルドを取られたウォルトには、新しいキャラクターが必要であった。
色々な動物を片っ端から思い描いたが、事務所を走り回っていたネズミを脚色して、頭、耳、ふっくらした身体を描き、色を加えて出来上がったのがミッキー・マウスだが、その姿は、ウサギのオズワルドそっくりであった。
オズワルドの耳を丸くして、お腹にチョコレートファッジを10ポンド詰めれば、ミッキー・マウスの出来上がりだと言うのである。
ところで、ウォルトの偉いところは、ミッキー・マウスを、オズワルドを超えたワンランク上のキャラクターに仕上げようと必死の努力をしたことである。
ウォルトは、観客が面白いと思ってくれるように、そのニーズに応えたキャラクターを描くために、観客の反応や評価分析をすべく、ミッキーの冒険譚の試写用プリントをロサンゼルス郊外のグレンデル劇場で上映して貰って、後部座席に座って観察し克明にノートを取ったのである。
現在では、マーケットリサーチとしては当たり前の手法だが、このミッキー・マウスを普遍的なシンボルとして育てようとしたウォルトの試みは、精神分析の大家カール・ユングが「元型と集合的無意識」を著す数年前のことだと言うから、コトラーもびっくり!であろう。
もう一つ特筆すべきは、ウォルトの新技術に対する飽くなき挑戦、イノベーター精神である。
間もなく封切しようとしていたサイレント・アニメ映画「蒸気船ウィリー」を、苦心惨憺して、音楽と台詞を加えたトーキー映画に仕立て上げて世に問うたのであるから、一声を風靡し、大変な人気を博して、ミッキー旋風が全米を席捲したのである。
まさに、ミッキー誕生、ミッキー元年の快挙だが、尤も、この成功においても、配給業者からの独立を守ったものの、放映業者シネフォンのパット・パワーズに、同僚アブ・アイワークスを引く抜かれて事業を乗っ取られようとするなど不幸に見舞われたが、どうにか、ミッキーの権利は死守した。
短編が次々に成功を収めているにも拘わらず、周りの反対を押し切って、長編アニメ映画の製作に、またまた挑戦したのである。
大物映画制作者たちの尊敬を集めたいと言うウォルトの野心と、当時、映画館が長編2本立てに移行しつつあり、これに対処するための経営者としての抜け目のなさがそうさせたと言うのだが、何度もトレース・彩色部門のスタッフに修正を指示して、一こま一こま細心の注意を払って製作されたのが「白雪姫」である。
現在なら、CGなどコンピューター技術を駆使して難なく出来る手法も、当時では、白雪姫の頬に口紅を塗って、それを辛抱強くぼかして描いたと言うから、その努力は並大抵のものではなかったのだが、この妥協を許さぬ作品製作へのウォルトの執念が、その後のディズニー映画の成功を支える鍵でもあった。
更に、あの1929年大恐慌前に、「蒸気船ウィリー」の製作資金を集めるために、ミッキーの顔を鉛筆に使用させるライセンス契約を結んだと言うから、ディズニーのキャラクターの商品化の今日の隆盛があるのは当然のことだが、TVとのコラボレーションなど、ウォルトのビジネス・イノベーションへの試みは、止まる所を知らなかった。
何と言っても、最大のヒットは、テーマパークであるディズニーランドへの挑戦と成功であろう。世界中のテーマパークや公園などエンターテインメント施設が、どんどん閉鎖の憂き目にあっているにも拘わらず、益々、総合エンターテインメント・センターとして輝きを増し続けている。
イノベーションと言えば、新技術や新製品の開発ばかりに目が行くが、ウォルト・ディズニーが挑戦して勝ち取ったのは、時代の潮流をしっかりとキャッチして、新技術の活用を駆使して創意工夫を重ねながら生み出したビジネス・イノベーションである。
この手法は、創業時や中小企業段階の企業が、最も試み易く、また、活路を切り開く為の最も有効なビジネス戦略だと考えられないであろうか。
ウォルトが、ウサギのオズワルドの一連のアニメで有名になり、映画配給会社ユニバーサル・スタジオのチャルズ・ミンツに制作費の値上げ交渉した時に、拒絶されたのみならず、会社のアニメーター達を引き抜かれ、契約上の不備もあって、オズワルドの権利も取り上げられて、門前払いを食ったのである。
この屈辱的な不幸と怒りがあったればこそ、その後のウォルト・ディズニーの成功があったのだと、バックホルツが「伝説の経営者たち」の中で述べている。
ミンツがナイフをウォルトの咽喉もとに突きつけてオズワルドを盗んだことから、ウォルトは、2つの重要な教訓を学んだと言う。
一つは、自社の独立を保つこと、もう一つは、自分が独自に生み出したものに対する権利を絶対に手放さないことである。
この教訓は、以前に紹介した盛田昭夫が、ニューヨークで、咽喉から手が出るようなトランジスターラジオの大口注文を受けたのだが、相手先ブランドが条件であったので、涙を呑んで受注を蹴ってSONYブランドを死守したと言う逸話と同じ精神で、創業期や中小企業段階での非常に貴重な戦略であることを忘れてはならないと思う。
しかし、このキャラクター盗難事件での最大の収穫は、ミッキー・マウスの誕生であった。
オズワルドを取られたウォルトには、新しいキャラクターが必要であった。
色々な動物を片っ端から思い描いたが、事務所を走り回っていたネズミを脚色して、頭、耳、ふっくらした身体を描き、色を加えて出来上がったのがミッキー・マウスだが、その姿は、ウサギのオズワルドそっくりであった。
オズワルドの耳を丸くして、お腹にチョコレートファッジを10ポンド詰めれば、ミッキー・マウスの出来上がりだと言うのである。
ところで、ウォルトの偉いところは、ミッキー・マウスを、オズワルドを超えたワンランク上のキャラクターに仕上げようと必死の努力をしたことである。
ウォルトは、観客が面白いと思ってくれるように、そのニーズに応えたキャラクターを描くために、観客の反応や評価分析をすべく、ミッキーの冒険譚の試写用プリントをロサンゼルス郊外のグレンデル劇場で上映して貰って、後部座席に座って観察し克明にノートを取ったのである。
現在では、マーケットリサーチとしては当たり前の手法だが、このミッキー・マウスを普遍的なシンボルとして育てようとしたウォルトの試みは、精神分析の大家カール・ユングが「元型と集合的無意識」を著す数年前のことだと言うから、コトラーもびっくり!であろう。
もう一つ特筆すべきは、ウォルトの新技術に対する飽くなき挑戦、イノベーター精神である。
間もなく封切しようとしていたサイレント・アニメ映画「蒸気船ウィリー」を、苦心惨憺して、音楽と台詞を加えたトーキー映画に仕立て上げて世に問うたのであるから、一声を風靡し、大変な人気を博して、ミッキー旋風が全米を席捲したのである。
まさに、ミッキー誕生、ミッキー元年の快挙だが、尤も、この成功においても、配給業者からの独立を守ったものの、放映業者シネフォンのパット・パワーズに、同僚アブ・アイワークスを引く抜かれて事業を乗っ取られようとするなど不幸に見舞われたが、どうにか、ミッキーの権利は死守した。
短編が次々に成功を収めているにも拘わらず、周りの反対を押し切って、長編アニメ映画の製作に、またまた挑戦したのである。
大物映画制作者たちの尊敬を集めたいと言うウォルトの野心と、当時、映画館が長編2本立てに移行しつつあり、これに対処するための経営者としての抜け目のなさがそうさせたと言うのだが、何度もトレース・彩色部門のスタッフに修正を指示して、一こま一こま細心の注意を払って製作されたのが「白雪姫」である。
現在なら、CGなどコンピューター技術を駆使して難なく出来る手法も、当時では、白雪姫の頬に口紅を塗って、それを辛抱強くぼかして描いたと言うから、その努力は並大抵のものではなかったのだが、この妥協を許さぬ作品製作へのウォルトの執念が、その後のディズニー映画の成功を支える鍵でもあった。
更に、あの1929年大恐慌前に、「蒸気船ウィリー」の製作資金を集めるために、ミッキーの顔を鉛筆に使用させるライセンス契約を結んだと言うから、ディズニーのキャラクターの商品化の今日の隆盛があるのは当然のことだが、TVとのコラボレーションなど、ウォルトのビジネス・イノベーションへの試みは、止まる所を知らなかった。
何と言っても、最大のヒットは、テーマパークであるディズニーランドへの挑戦と成功であろう。世界中のテーマパークや公園などエンターテインメント施設が、どんどん閉鎖の憂き目にあっているにも拘わらず、益々、総合エンターテインメント・センターとして輝きを増し続けている。
イノベーションと言えば、新技術や新製品の開発ばかりに目が行くが、ウォルト・ディズニーが挑戦して勝ち取ったのは、時代の潮流をしっかりとキャッチして、新技術の活用を駆使して創意工夫を重ねながら生み出したビジネス・イノベーションである。
この手法は、創業時や中小企業段階の企業が、最も試み易く、また、活路を切り開く為の最も有効なビジネス戦略だと考えられないであろうか。