11月7日の定例公演は、
《開場35周年記念》
狂言 千鳥 (ちどり) 野村 万禄(和泉流)
能 三井寺(みいでら) 粟谷 能夫(喜多流)
狂言の「千鳥」は、
シテ/太郎冠者 野村万禄、アド/主 炭哲男、アド/酒屋 野村萬
万禄の芸も素晴らしいが、いぶし銀の様な風格と冴えを見せて歳を感じさせない人間国宝の萬の酒屋を楽しむ舞台である。
この「千鳥」は、
太郎冠者は、これまでの支払いも滞っているのに、金を持たずに、主人から自分の才覚で酒を買って来いと命じられ酒屋に行く。その前にたまった酒代を清算しろと言われるのだが、酒代の代わりに米が送られてくると騙して酒樽に酒を詰めさせて、隙を見て酒樽を持って行こうとする。その米が着くまで面白い話をしろと言われた太郎冠者は、津島祭の話を始め、伊勢路で子供が千鳥をかぶせ捕っていたのが面白かったので、その様子を見せようと言い、酒樽を千鳥に見立てて捕る真似をし、持ち去ろうとするが、酒屋に取り返される。今度は、山鉾を引く体で、酒樽に綱を巻き付けて引っ張って行こうとするが、これも、見つかってダメで、太郎冠者は、最後に、流鏑馬を再現して見せると言って、馬に乗る真似をしながら、あたりを走り回り、これも見つかるが、酒屋がよそ見している間に、隙を見て酒樽を持ち上げて走って逃げ去り、その後を騙された酒屋が追い込む。
千鳥のシーンは、酒屋に、「浜千鳥の友呼ぶ声は」と謳わせて、太郎冠者が、「ちりちりや、ちりちり」と舞いながら樽を掠め取ろうとする、これが、「千鳥」のタイトルとなった由縁であろうが、とにかく、あの手この手で、酒屋を出し抜いて酒樽を持ち去ろうとする太郎冠者と、騙されじと抜け目のない酒屋との、丁々発止の掛け合いが面白い。
説明によると、当時は、酒屋は高利貸しも併営していたと言うことで、掛け売りは普通だったようだが、結局は、狂言ゆえ負けてしまうのだが、萬は、しっかり者の酒屋を、悪知恵の働く太郎冠者を相手に、毅然として、しかし、適当にいなしながら泳がせているのを、至芸の一挙手一投足を目に焼き付けておこうと凝視して鑑賞させて貰った。
「千鳥」と言う何となく詩情豊かなタイトルの曲が、酒屋を騙して酒をくすねてくる雇人の、人を食ったような話とは面白いが、これが狂言と言うものであろう。
能「三井寺」は、喜多流の舞台。
清水寺に参籠した女(前シテ)が、生き別れになった息子との再会を願って祈っていると、近江国 三井寺へ行けとの夢のお告げを得たので、近江へと旅立って行く。三井寺では、住職(ワキ)たちが、新しく寺に仕えることとなった稚児(子方)を伴って、月見をしていると、そこへ女(後シテ)がやって来て、三井寺の鐘の澄んだ響きに感興して、制止を振り切って鐘を撞き、八月十五夜の美しい月光を浴びながら、舞い戯れる。それを見ていた稚児が母ではないかと悟って、話を聞くと、この稚児こそが女の息子であったと判明して、二人はめでたく再会を果たして帰って行く。
三井寺の鐘は、弁慶の逸話で有名で、この「弁慶の引き摺り鐘」は、三井寺の伝説の説明によると、
”当寺初代の梵鐘で、奈良時代の作とされています。 むかし、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。 その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。 鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。”
他にも不思議な伝説があって、霊鐘として、現在は撞かれることもなく金堂西方の霊鐘堂に奉安されていて見ることが出来るが、一応、この能では、この鐘が撞かれたということであろうが、この曲では、弁慶の鐘のイメージとは違って、近江八景の一つ「三井の晩鐘」として親しまれ、日本三銘鐘のひとつに数えられている、「形の平等院」、「銘の神護寺」と並び称される「音の三井寺」の銘鐘のイメージであろう。
十五夜の月が煌々と輝き、琵琶湖の湖面に美しい姿を映す静かな夜に、この素晴らしい鐘を、子を思って気のふれた物狂いの女が、無心に打ち鳴らす・・・そんな情景を想像すると、詩情豊かな一幅の絵となる。
シテの優雅な粟谷能夫の千滿の母が舞い続ける。
私は、京都で大学生活を送ったので、京都や奈良の古社寺は随分歩いたが、滋賀の旅は比較的少なく、滋賀を本格的に歩いたのは、働き始めて、それも、東京や海外に移ってからのことである。
車で琵琶湖一周の旅、湖東三山、甲賀甲西、湖北十一面観音菩薩巡り、竹生島、長浜、それに、彦根は何回か訪れており、石山寺と、この三井寺では、夫々、朝から夕暮れまで、十分に時間を取って過ごしたので、かなり、巡り歩いている。
しかし、この曲のイメージを増幅するのに、一番役に立ったのは、比良山の麓・琵琶湖西岸にキャンプを張って、何日か過ごして経験した、シーンと静まり返った湖面に乱舞する月光の美しさであろうか。
それに、比叡山から山道を四苦八苦して下って、坂本についた時には、とっぷり陽が暮れてあたりは真っ暗、湖面が月に映えて美しかった。
晩鐘の美しい音は聞こえなかったが、高台にある三井寺の鐘が撞かれて荘厳すれば、素晴らしい境地を味わえるであろうと思う。
いずれにしろ、能のシテの舞は、ギリギリに切り詰められ昇華された殆ど動きがなく、この曲の美しくて情緒連綿とした感動的な詞章を聴きながら、「三井寺」の舞台を鑑賞するためには、空想をフル回転して、情景描写を豊かにイメージする、これに尽きよう。。
私には、まだ、学生時代に蛮声を振り絞って歌っていた三高寮歌の「琵琶湖周航の歌」の琵琶湖のイメージの方が強くて、ピュア―な三井寺の月光と晩鐘のイメージには程遠かった。
シテ/千滿の母 粟谷能夫、子方/千滿 大島伊織、ワキ/園城寺住僧 宝生欣哉、アイ/清水寺門前の者 野村万蔵、地頭/友枝昭世 ほか
《開場35周年記念》
狂言 千鳥 (ちどり) 野村 万禄(和泉流)
能 三井寺(みいでら) 粟谷 能夫(喜多流)
狂言の「千鳥」は、
シテ/太郎冠者 野村万禄、アド/主 炭哲男、アド/酒屋 野村萬
万禄の芸も素晴らしいが、いぶし銀の様な風格と冴えを見せて歳を感じさせない人間国宝の萬の酒屋を楽しむ舞台である。
この「千鳥」は、
太郎冠者は、これまでの支払いも滞っているのに、金を持たずに、主人から自分の才覚で酒を買って来いと命じられ酒屋に行く。その前にたまった酒代を清算しろと言われるのだが、酒代の代わりに米が送られてくると騙して酒樽に酒を詰めさせて、隙を見て酒樽を持って行こうとする。その米が着くまで面白い話をしろと言われた太郎冠者は、津島祭の話を始め、伊勢路で子供が千鳥をかぶせ捕っていたのが面白かったので、その様子を見せようと言い、酒樽を千鳥に見立てて捕る真似をし、持ち去ろうとするが、酒屋に取り返される。今度は、山鉾を引く体で、酒樽に綱を巻き付けて引っ張って行こうとするが、これも、見つかってダメで、太郎冠者は、最後に、流鏑馬を再現して見せると言って、馬に乗る真似をしながら、あたりを走り回り、これも見つかるが、酒屋がよそ見している間に、隙を見て酒樽を持ち上げて走って逃げ去り、その後を騙された酒屋が追い込む。
千鳥のシーンは、酒屋に、「浜千鳥の友呼ぶ声は」と謳わせて、太郎冠者が、「ちりちりや、ちりちり」と舞いながら樽を掠め取ろうとする、これが、「千鳥」のタイトルとなった由縁であろうが、とにかく、あの手この手で、酒屋を出し抜いて酒樽を持ち去ろうとする太郎冠者と、騙されじと抜け目のない酒屋との、丁々発止の掛け合いが面白い。
説明によると、当時は、酒屋は高利貸しも併営していたと言うことで、掛け売りは普通だったようだが、結局は、狂言ゆえ負けてしまうのだが、萬は、しっかり者の酒屋を、悪知恵の働く太郎冠者を相手に、毅然として、しかし、適当にいなしながら泳がせているのを、至芸の一挙手一投足を目に焼き付けておこうと凝視して鑑賞させて貰った。
「千鳥」と言う何となく詩情豊かなタイトルの曲が、酒屋を騙して酒をくすねてくる雇人の、人を食ったような話とは面白いが、これが狂言と言うものであろう。
能「三井寺」は、喜多流の舞台。
清水寺に参籠した女(前シテ)が、生き別れになった息子との再会を願って祈っていると、近江国 三井寺へ行けとの夢のお告げを得たので、近江へと旅立って行く。三井寺では、住職(ワキ)たちが、新しく寺に仕えることとなった稚児(子方)を伴って、月見をしていると、そこへ女(後シテ)がやって来て、三井寺の鐘の澄んだ響きに感興して、制止を振り切って鐘を撞き、八月十五夜の美しい月光を浴びながら、舞い戯れる。それを見ていた稚児が母ではないかと悟って、話を聞くと、この稚児こそが女の息子であったと判明して、二人はめでたく再会を果たして帰って行く。
三井寺の鐘は、弁慶の逸話で有名で、この「弁慶の引き摺り鐘」は、三井寺の伝説の説明によると、
”当寺初代の梵鐘で、奈良時代の作とされています。 むかし、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。 その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。 鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。”
他にも不思議な伝説があって、霊鐘として、現在は撞かれることもなく金堂西方の霊鐘堂に奉安されていて見ることが出来るが、一応、この能では、この鐘が撞かれたということであろうが、この曲では、弁慶の鐘のイメージとは違って、近江八景の一つ「三井の晩鐘」として親しまれ、日本三銘鐘のひとつに数えられている、「形の平等院」、「銘の神護寺」と並び称される「音の三井寺」の銘鐘のイメージであろう。
十五夜の月が煌々と輝き、琵琶湖の湖面に美しい姿を映す静かな夜に、この素晴らしい鐘を、子を思って気のふれた物狂いの女が、無心に打ち鳴らす・・・そんな情景を想像すると、詩情豊かな一幅の絵となる。
シテの優雅な粟谷能夫の千滿の母が舞い続ける。
私は、京都で大学生活を送ったので、京都や奈良の古社寺は随分歩いたが、滋賀の旅は比較的少なく、滋賀を本格的に歩いたのは、働き始めて、それも、東京や海外に移ってからのことである。
車で琵琶湖一周の旅、湖東三山、甲賀甲西、湖北十一面観音菩薩巡り、竹生島、長浜、それに、彦根は何回か訪れており、石山寺と、この三井寺では、夫々、朝から夕暮れまで、十分に時間を取って過ごしたので、かなり、巡り歩いている。
しかし、この曲のイメージを増幅するのに、一番役に立ったのは、比良山の麓・琵琶湖西岸にキャンプを張って、何日か過ごして経験した、シーンと静まり返った湖面に乱舞する月光の美しさであろうか。
それに、比叡山から山道を四苦八苦して下って、坂本についた時には、とっぷり陽が暮れてあたりは真っ暗、湖面が月に映えて美しかった。
晩鐘の美しい音は聞こえなかったが、高台にある三井寺の鐘が撞かれて荘厳すれば、素晴らしい境地を味わえるであろうと思う。
いずれにしろ、能のシテの舞は、ギリギリに切り詰められ昇華された殆ど動きがなく、この曲の美しくて情緒連綿とした感動的な詞章を聴きながら、「三井寺」の舞台を鑑賞するためには、空想をフル回転して、情景描写を豊かにイメージする、これに尽きよう。。
私には、まだ、学生時代に蛮声を振り絞って歌っていた三高寮歌の「琵琶湖周航の歌」の琵琶湖のイメージの方が強くて、ピュア―な三井寺の月光と晩鐘のイメージには程遠かった。
シテ/千滿の母 粟谷能夫、子方/千滿 大島伊織、ワキ/園城寺住僧 宝生欣哉、アイ/清水寺門前の者 野村万蔵、地頭/友枝昭世 ほか