
今日のサンプロで、田原氏が、「ライブドアは虚業かどうか」と言う問題提起をしたら、諸井氏は、「虚業である。社会に役に立つモノを作り出していないから。」と答えた。
その後、村上ファンドも虚業であると言う話になって、「村上ファンドが虚業なら、銀行、中でも投資銀行も虚業になってしまって、それはおかしい。」と言う意見が出た。
ここには、虚業と言う事について経済学的におかしな点が少なくとも2点はあると思って聞いていた。
一つは、モノを作り出すかどうかと言うことと、もう一つは、社会に役に立つかどうかと言うことである。
まず、モノを作り出すと言う点であるが、経済学的には、付加価値を生み出しGNPに計上される事業活動は、富の源泉であるモノ・サービスを生み出しているので虚業とは看做されない。
モノの概念であるが、この変遷が問題で、初期の段階では、食料等農産物を生産する農民のみが富を生み出す唯一の生産者だと看做されていた。
この典型的な例は、日本の士農工商の考え方に如実に示されていて、富の源泉である石高アップに貢献する農民のみが富を生み出し、工も商もその寄生なので身分が低いとされていた。
その後、世界的に、工業等産業資本の発展につれて、モノを作り出す工業も富の創造であると考えられて工業生産物も勘定に入れられ、遅れて、第三次産業の生み出すサービスも富の源泉として認識されるようになったが、それはずっと後のことである。
今日では、国民所得の概念には、モノやサービスを生産し付加価値を生み出す事業は包含されて経済学上実業だと看做されており、この意味からも、ライブドアは、明らかに虚業ではなく実業であることには疑問の余地がない。
ところで、モノの生産に固守して、第三次産業の多くのサービス活動を、まだ、富を生み出す実業だと認めない一般の人も多く、ましてや、演劇や音楽、絵画等々の芸術やスポーツ等については、自分の趣味以外は生産的な実業だと思っていない人が多い。
モノを作り出すのも、目に見えないサービスを生み出すのも、社会の役に立ち付加価値を付けて貢献するのは同じであると言う認識がないのである。
しかし、世の中が進み文化文明が発展するにつれて、農業や工業の生産性が上がりその産業の比重が落ちて来ると、むしろ逆に、このような高度な人間活動が生み出すサービスの方が遥かに高い価値を生み出す、即ち、農、工、商、芸術の価値順位が逆転するのである。
次に社会の役に立つかどうかと言うことであるが、これは倫理や道徳、思想や法律など多岐に亘った善悪の概念が入り込むので、判断は難しいし判定するのは危険である。
しかし、現時点ではっきり言える事は、GNPなりGDPが、国民の繁栄を金銭的な取引の量によって量っているので、国民の幸福の尺度で見れば、あくまで便宜的な尺度にしか過ぎないと言うことである。
何故なら、国民所得統計には、計上された経済価値の集計だけであって、その中には公害など人間にとって望ましくない生産活動を含めた不経済な数値を沢山含んでおり、必ずしも人間にとって役に立つ価値ばかりの指標ではないからである。
即ち、正しく人間の幸福指数を数値化するためには、人間にとって悪や反・厚生的な要因等をマイナスして、家族や共同体への貢献や自然環境への貢献など人間にとって大切なものをプラスするなどの調整が必要となるのである。
市場システムから排除された人間の幸福に大きく影響を与える幸福決定要因を加味した真に人間の幸せ度を表す「持続可能な経済厚生指数」としてGPI(Genuine Progress Indicater)を使おうと、オーストラリアの経済学者クライヴ・ハミルトンが提唱している。
要は、事業の善悪、社会にとって役立つかどうかは、時と場所によって変わると言うことであり、今現在役立つ役立たないと思われる事も本当にそうなのかどうかは疑問だと言うことである。
私の結論を言うと、違法行為については論外だし、対応の遅れている証取法の空隙をぬって行われた綱渡りのようなライブドアの行いは非難されてしかるべきだとは思うが、社会への貢献度の如何は別として、ライブドアが社会に役に立つモノを何も生み出していないと言うのは言いすぎであり、村上ファンドも含めて、実際の仕事の中身を検証せずに風説だけで、社会に混乱を起こしたり違法行為が過ぎたから社会に役に立たない虚業だと言うのは短絡的過ぎると思う。
東証の対応や証取法に対する行政の遅れと対応の不備、ミニ株式バブルに踊った投資家、巻き込まれた企業の経営力の不足等経済社会環境全体の未熟さが、騒ぎを増幅させた。
余談だが、商法や証取法の面から考えても、私自身は、西武鉄道やカネボーのケース、これに対する監査法人の関わり、政府関係機関の対応等の方が遥かに糾弾されて然るべき反社会的な行為だったと思っている。
シェイクスピアの「ヴェニスの商人」のシャイロックがあれほど悪者にされ嫌われた金貸し業が、形を変えれば尊敬と権威の象徴である銀行業となり、株を右左するだけでぼろ儲けを煽った株屋が、証券取引を活性化して株式会社の育成を支えて資本主義が発展して来た。
かっては、寄生虫、虚業と言われた事業が、時代の変遷とともに価値を増して行く、これが経済を営む人間の社会である、そんな気がしている。
その後、村上ファンドも虚業であると言う話になって、「村上ファンドが虚業なら、銀行、中でも投資銀行も虚業になってしまって、それはおかしい。」と言う意見が出た。
ここには、虚業と言う事について経済学的におかしな点が少なくとも2点はあると思って聞いていた。
一つは、モノを作り出すかどうかと言うことと、もう一つは、社会に役に立つかどうかと言うことである。
まず、モノを作り出すと言う点であるが、経済学的には、付加価値を生み出しGNPに計上される事業活動は、富の源泉であるモノ・サービスを生み出しているので虚業とは看做されない。
モノの概念であるが、この変遷が問題で、初期の段階では、食料等農産物を生産する農民のみが富を生み出す唯一の生産者だと看做されていた。
この典型的な例は、日本の士農工商の考え方に如実に示されていて、富の源泉である石高アップに貢献する農民のみが富を生み出し、工も商もその寄生なので身分が低いとされていた。
その後、世界的に、工業等産業資本の発展につれて、モノを作り出す工業も富の創造であると考えられて工業生産物も勘定に入れられ、遅れて、第三次産業の生み出すサービスも富の源泉として認識されるようになったが、それはずっと後のことである。
今日では、国民所得の概念には、モノやサービスを生産し付加価値を生み出す事業は包含されて経済学上実業だと看做されており、この意味からも、ライブドアは、明らかに虚業ではなく実業であることには疑問の余地がない。
ところで、モノの生産に固守して、第三次産業の多くのサービス活動を、まだ、富を生み出す実業だと認めない一般の人も多く、ましてや、演劇や音楽、絵画等々の芸術やスポーツ等については、自分の趣味以外は生産的な実業だと思っていない人が多い。
モノを作り出すのも、目に見えないサービスを生み出すのも、社会の役に立ち付加価値を付けて貢献するのは同じであると言う認識がないのである。
しかし、世の中が進み文化文明が発展するにつれて、農業や工業の生産性が上がりその産業の比重が落ちて来ると、むしろ逆に、このような高度な人間活動が生み出すサービスの方が遥かに高い価値を生み出す、即ち、農、工、商、芸術の価値順位が逆転するのである。
次に社会の役に立つかどうかと言うことであるが、これは倫理や道徳、思想や法律など多岐に亘った善悪の概念が入り込むので、判断は難しいし判定するのは危険である。
しかし、現時点ではっきり言える事は、GNPなりGDPが、国民の繁栄を金銭的な取引の量によって量っているので、国民の幸福の尺度で見れば、あくまで便宜的な尺度にしか過ぎないと言うことである。
何故なら、国民所得統計には、計上された経済価値の集計だけであって、その中には公害など人間にとって望ましくない生産活動を含めた不経済な数値を沢山含んでおり、必ずしも人間にとって役に立つ価値ばかりの指標ではないからである。
即ち、正しく人間の幸福指数を数値化するためには、人間にとって悪や反・厚生的な要因等をマイナスして、家族や共同体への貢献や自然環境への貢献など人間にとって大切なものをプラスするなどの調整が必要となるのである。
市場システムから排除された人間の幸福に大きく影響を与える幸福決定要因を加味した真に人間の幸せ度を表す「持続可能な経済厚生指数」としてGPI(Genuine Progress Indicater)を使おうと、オーストラリアの経済学者クライヴ・ハミルトンが提唱している。
要は、事業の善悪、社会にとって役立つかどうかは、時と場所によって変わると言うことであり、今現在役立つ役立たないと思われる事も本当にそうなのかどうかは疑問だと言うことである。
私の結論を言うと、違法行為については論外だし、対応の遅れている証取法の空隙をぬって行われた綱渡りのようなライブドアの行いは非難されてしかるべきだとは思うが、社会への貢献度の如何は別として、ライブドアが社会に役に立つモノを何も生み出していないと言うのは言いすぎであり、村上ファンドも含めて、実際の仕事の中身を検証せずに風説だけで、社会に混乱を起こしたり違法行為が過ぎたから社会に役に立たない虚業だと言うのは短絡的過ぎると思う。
東証の対応や証取法に対する行政の遅れと対応の不備、ミニ株式バブルに踊った投資家、巻き込まれた企業の経営力の不足等経済社会環境全体の未熟さが、騒ぎを増幅させた。
余談だが、商法や証取法の面から考えても、私自身は、西武鉄道やカネボーのケース、これに対する監査法人の関わり、政府関係機関の対応等の方が遥かに糾弾されて然るべき反社会的な行為だったと思っている。
シェイクスピアの「ヴェニスの商人」のシャイロックがあれほど悪者にされ嫌われた金貸し業が、形を変えれば尊敬と権威の象徴である銀行業となり、株を右左するだけでぼろ儲けを煽った株屋が、証券取引を活性化して株式会社の育成を支えて資本主義が発展して来た。
かっては、寄生虫、虚業と言われた事業が、時代の変遷とともに価値を増して行く、これが経済を営む人間の社会である、そんな気がしている。
ブログ拝見させていただきました。
サンデープロジェクト内でのやり取りには、少し行き過ぎだったように感じますね。
私は上場までし、未だ実在する企業なのだから、社会貢献の有無を問う事がナンセンスのような気がします。
もう少し配慮があっても良いのでは?..と思いましたね。
スミマセン。トラックバックもさせていただきます。