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今回は、吉右衛門の二度目の幡随長兵衛の舞台である。
相手の女房お時を芝翫、対決の相手の旗本水野十郎左衛門は仁左衛門で、前回の、玉三郎と菊五郎とでは、印象が随分と違うのに驚いた。
尤も、これは、團十郎の幡随長兵衛の別の舞台で、菊五郎の水野は同じだったが、藤十郎の女房の場合にも感じたのと同じような異質感と言うか変化を感じたのだが、個性的な大役者によって演じられると、大きく感じ方が変わってくるのが面白い。
特に、今回私が感じたのは、仁左衛門の水野に対する違和感である。
太平天国を良いことにして、無頼の限りを働く旗本奴の頭目として男の風上にも置けない下劣極まりないこの水野を、歌舞伎界随一の美男役者である仁左衛門が演じると、これまでの颯爽とした匂いたつような舞台姿とは全く対照的に、颯爽と美しく演じれば演じるほど、悪辣な筋書きだけが浮き彫りになって、実に品性下劣で嫌な奴と言う印象が強烈に前面に押し出されてしまうのである。
上手いと言えば上手いのではあろうが、この舞台は、幡随長兵衛の男気とその悲劇がメインテーマなら、一方の水野は、実際には、悪辣極まりなく、風格や気品などの片鱗さえなかった筈で、野狐のように小心で姑息な侍なのだろうとは思うが、舞台では、それに対抗する訳であるから、悪は悪なりの重量感と言うか名刀ではなく鉈のような荒削りの魅力があって欲しいのである。
この水野だが、この幡随院殺害ではお咎めがなかったようだが、やはり、行状悪く幕府の目にあまったのであろうか、別件で後にお咎めを受けて切腹している。
水野が、懇意にしたいので宴に招きたいと使いの者を寄越したので、長兵衛は、暗殺の企みとは知りながら、女房や子分の止めるのも聞かずに、死を覚悟して水野邸へ乗り込み、結局、風呂場で丸腰裸のまま、水野の槍先を受けて果てる。
酒宴の途中、勺をする水野の家来が、長兵衛の袴に酒を零して女中たちに誘われて風呂場に行くのだが、家来たちだけでは足らず、同僚の近藤登之助(東蔵)共々水野が風呂場に入って来て、殺戮の修羅場を展開する。
自邸に誘い込んで、窮鳥を闇討ちにする水野の卑劣さは、やはり、太平に腐りきってしまい、武士道の片鱗さえも失ってしまった侍魂の成れの果てを、任侠の親分である幡随院長兵衛の男気を対比させて、浮き彫りにしたストーリーが面白い。
ところで、幡随院が、ヒーローかどうかは別にして、やはり、男には、伸るか反るか、負けて自滅すると分っていても、受けて立って戦わなければならない局面に、必ず遭遇する。
この男の意地と誇りが、あたら大切な人生を棒に振ることになるのだが、上手く避けて無難に生きて行くか、自己満足ながら男の意地を張り通して生きて行くか、最近は、何故か、要領の良い男ばかりが多くなって来たので、女性優位の社会になってしまったのかも知れない。
桜は散り際がよしとするのが、日本人の美意識であるから、ただでさえ、権力の横暴にも長いものには巻かれろと耐えに耐え抜いてきた庶民にとっては、河竹黙阿弥のこの侠客物語に、人気が出ない筈がない。
今の世相と相通じるところがあり、政権交代と言う静かな改革が進行することになろうか。
ところで、長兵衛だが、元侍の口入れ屋、今風に言えば、私設職業紹介所と言うか私設ハローワークの所長と言ったところだが、村のオサ・システムが、社会秩序を統べていた時代であるから、都会地では、この口入れ家業が、庶民の揉め事の処理のみならず、ある意味では、お上に代わって、庶民社会の秩序と平安を維持するための私設法体系ともなっていた。
長兵衛は、威勢が良いだけではなく、喧嘩っ早い、多少、アウトロー気味のメンバーをも抱え込んだ町奴グループの頭領ということで、侠客の元祖と言う位置づけだが、幕府の禄を食むだけで不労の輩たちの水野の旗本奴とは違って、町奴たちは、夫々生業を持っており真っ当な社会生活を営んでいたので、現在の社会悪とは少し事情が違う。
しかし、水野の屋敷に乗り込もうとして纏わりつく倅長松(玉太郎)には、この仕事だけはさせるなと女房お時に言い残す。
切った張ったの修羅場世界を覚悟しての命を賭けての、時には、非条理な世界を、可愛い倅には味わわせたくないと言う親心と同時に、法体系や公的システムだけでは、庶民の安寧を維持出来ない社会への告発でもあるが、真っ当な仕事だとは思っていなかったことだけは事実であろう。
私のこの芝居に対する思いの片鱗は、以上のとおりだが、吉右衛門の幡随院は、最も、私のイメージに近く、非常に素晴らしい舞台であり、色々なことを考えさせてくれた。
どこか遠くの方から社会と人生を達観した、骨太で奥の深い淡々とした演技が秀逸である。
お時の芝翫は、多少、老成し過ぎた感じで、実際は、20代後半か30代前半の若女房なのであるから、もう少し色気と瑞々しさが欲しかったのだが、これも、頂点を極めた最高の女形のひとつの形だと思って鑑賞させて貰った。
唐犬権兵衛の梅玉の格好良さ、出尻清兵衛の歌六のひょうきんさ、近藤登之助の東蔵の腰巾着のような卑劣さ等々、それに、豪華な若手を揃えた子分衆など、脇役にも人を得て非常に充実した素晴らしい舞台であった。
相手の女房お時を芝翫、対決の相手の旗本水野十郎左衛門は仁左衛門で、前回の、玉三郎と菊五郎とでは、印象が随分と違うのに驚いた。
尤も、これは、團十郎の幡随長兵衛の別の舞台で、菊五郎の水野は同じだったが、藤十郎の女房の場合にも感じたのと同じような異質感と言うか変化を感じたのだが、個性的な大役者によって演じられると、大きく感じ方が変わってくるのが面白い。
特に、今回私が感じたのは、仁左衛門の水野に対する違和感である。
太平天国を良いことにして、無頼の限りを働く旗本奴の頭目として男の風上にも置けない下劣極まりないこの水野を、歌舞伎界随一の美男役者である仁左衛門が演じると、これまでの颯爽とした匂いたつような舞台姿とは全く対照的に、颯爽と美しく演じれば演じるほど、悪辣な筋書きだけが浮き彫りになって、実に品性下劣で嫌な奴と言う印象が強烈に前面に押し出されてしまうのである。
上手いと言えば上手いのではあろうが、この舞台は、幡随長兵衛の男気とその悲劇がメインテーマなら、一方の水野は、実際には、悪辣極まりなく、風格や気品などの片鱗さえなかった筈で、野狐のように小心で姑息な侍なのだろうとは思うが、舞台では、それに対抗する訳であるから、悪は悪なりの重量感と言うか名刀ではなく鉈のような荒削りの魅力があって欲しいのである。
この水野だが、この幡随院殺害ではお咎めがなかったようだが、やはり、行状悪く幕府の目にあまったのであろうか、別件で後にお咎めを受けて切腹している。
水野が、懇意にしたいので宴に招きたいと使いの者を寄越したので、長兵衛は、暗殺の企みとは知りながら、女房や子分の止めるのも聞かずに、死を覚悟して水野邸へ乗り込み、結局、風呂場で丸腰裸のまま、水野の槍先を受けて果てる。
酒宴の途中、勺をする水野の家来が、長兵衛の袴に酒を零して女中たちに誘われて風呂場に行くのだが、家来たちだけでは足らず、同僚の近藤登之助(東蔵)共々水野が風呂場に入って来て、殺戮の修羅場を展開する。
自邸に誘い込んで、窮鳥を闇討ちにする水野の卑劣さは、やはり、太平に腐りきってしまい、武士道の片鱗さえも失ってしまった侍魂の成れの果てを、任侠の親分である幡随院長兵衛の男気を対比させて、浮き彫りにしたストーリーが面白い。
ところで、幡随院が、ヒーローかどうかは別にして、やはり、男には、伸るか反るか、負けて自滅すると分っていても、受けて立って戦わなければならない局面に、必ず遭遇する。
この男の意地と誇りが、あたら大切な人生を棒に振ることになるのだが、上手く避けて無難に生きて行くか、自己満足ながら男の意地を張り通して生きて行くか、最近は、何故か、要領の良い男ばかりが多くなって来たので、女性優位の社会になってしまったのかも知れない。
桜は散り際がよしとするのが、日本人の美意識であるから、ただでさえ、権力の横暴にも長いものには巻かれろと耐えに耐え抜いてきた庶民にとっては、河竹黙阿弥のこの侠客物語に、人気が出ない筈がない。
今の世相と相通じるところがあり、政権交代と言う静かな改革が進行することになろうか。
ところで、長兵衛だが、元侍の口入れ屋、今風に言えば、私設職業紹介所と言うか私設ハローワークの所長と言ったところだが、村のオサ・システムが、社会秩序を統べていた時代であるから、都会地では、この口入れ家業が、庶民の揉め事の処理のみならず、ある意味では、お上に代わって、庶民社会の秩序と平安を維持するための私設法体系ともなっていた。
長兵衛は、威勢が良いだけではなく、喧嘩っ早い、多少、アウトロー気味のメンバーをも抱え込んだ町奴グループの頭領ということで、侠客の元祖と言う位置づけだが、幕府の禄を食むだけで不労の輩たちの水野の旗本奴とは違って、町奴たちは、夫々生業を持っており真っ当な社会生活を営んでいたので、現在の社会悪とは少し事情が違う。
しかし、水野の屋敷に乗り込もうとして纏わりつく倅長松(玉太郎)には、この仕事だけはさせるなと女房お時に言い残す。
切った張ったの修羅場世界を覚悟しての命を賭けての、時には、非条理な世界を、可愛い倅には味わわせたくないと言う親心と同時に、法体系や公的システムだけでは、庶民の安寧を維持出来ない社会への告発でもあるが、真っ当な仕事だとは思っていなかったことだけは事実であろう。
私のこの芝居に対する思いの片鱗は、以上のとおりだが、吉右衛門の幡随院は、最も、私のイメージに近く、非常に素晴らしい舞台であり、色々なことを考えさせてくれた。
どこか遠くの方から社会と人生を達観した、骨太で奥の深い淡々とした演技が秀逸である。
お時の芝翫は、多少、老成し過ぎた感じで、実際は、20代後半か30代前半の若女房なのであるから、もう少し色気と瑞々しさが欲しかったのだが、これも、頂点を極めた最高の女形のひとつの形だと思って鑑賞させて貰った。
唐犬権兵衛の梅玉の格好良さ、出尻清兵衛の歌六のひょうきんさ、近藤登之助の東蔵の腰巾着のような卑劣さ等々、それに、豪華な若手を揃えた子分衆など、脇役にも人を得て非常に充実した素晴らしい舞台であった。