吉田玉男一周年追善「菅原伝授手習鑑」が、今、東京国立劇場で公演されていて人気を博している。
菅丞相は、当然のこと、後継者の玉女で、玉男の左を8回遣ったと言うから、師匠直伝の芸が体に染み付いていて、実に格調の高い大きな丞相であった。
丞相の伯母覚寿は人間国宝文雀、娘苅屋姫が和生、それに、文吾が素晴らしい判官代輝国を演じている。
ところで、人間国宝簔助が一寸出だが奴宅内、それに、勘十郎が悪人・宿禰太郎と言った非常に灰汁の強い脇役を演じていて実に興味深い。
今回は、玉男さんを追善する意味で、菅丞相が活躍する初段と二段目だけだが、正味4時間の非常に中身の濃い充実した舞台が展開していて息つく暇なく面白い。
文楽と歌舞伎では、大分話の筋や登場人物の位置づけなど違っていて、その違いが面白いのだが、玉女の丞相は、非常に現代的な解釈の演技で、仁左衛門の演じる歌舞伎のような古風さを感じさせずに、オーソドックスで分かり易い。
今回の最後の「丞相名残の段」で、丞相が出立する時の人形の場合と本物の丞相の場合とでは、仁左衛門は人形の場合にはロボットのような動きをして完全に区別しているが、玉女の場合には、衣装や多少の動作で区別をつけている程度で殆ど差をつけずに自然に演じている。
また、覚寿の機転で小袖で覆った香を焚く伏籠に隠れて別れを惜しむ仮屋姫との分かれの場合にも、仁左衛門よりも玉女の方が、はるかに、生身の人間に近く、可なり自然に仮屋姫に反応している。
天神さんとして既に神になっていた菅原道真をどのように演じるのか、仁左衛門のように神性を重視するのか、玉女のように少し人間的に描くのかは難しい所だが、時代や人々の志向によっても違ってくるのであろう。
この丞相名残のところの木像の丞相が登場する場面での丞相の扱いについて、玉男は、「文楽藝話」で木像と本物の仕分けについて面白い話をしている。
宿禰太郎の登場で、出立のために木像の丞相が、立ち上がって下手の階を下りる所で、足を動かさないのが口伝になっていたが、浄瑠璃本文では何も書かれていないし、不自然な歩き方よりは人間の丞相にちかく目線だけは下げずに足を少し動かす方が良いと考えて演出を改めた。
また、最後の本物の丞相の旅立ちの所では、以前は天上人のように沓を履いていたが、冠もせず笏も持っていないのに沓はおかしいと思って草履に改めた。
感極まって苅屋姫が伏籠の中から嗚咽の声を漏らした時、覚寿が覆いの小袖の右袖を上げると玉女は振り返ってジッと伏籠の中の苅屋姫を見つめていたが、目を合わせたのはこの時だけで、『「鳴けばこそ、別れを急げ鶏の音の」から段切りまで、苅屋姫のことを気遣いながらも、決して顔を合わさないよう、左右の袖を交互に上げて遮る。』と言う玉男の言を守っていた。
苅屋姫と皇弟の斎世親王との逢引を政略に利用されて失脚した丞相だが、その娘との永久の別れの最後の部分での玉女の人形遣いが一番理に適っていると思った。
この少し前に、宿禰太郎父子の悪巧みを知って殺された覚寿の娘・立田の死を前にして、「某これへ来たらずば、斯かる嘆きもあるまじ」と言って合掌して悔やみの涙を流す人間丞相であるから、少なくとも一度は、苅屋姫には目を合わさないと筋が通らないのである。
この丞相は、特に「筆法伝授の段」では、正面に鎮座したままで動かず、全編にわたって、殆ど動きのない人形なので、非常に表現や演出が難しいようである。
この一時間以上にわたる素晴らしい「丞相名残の段」を、正に天下一品の美声の持ち主豊竹十九大夫が緩急自在の名調子で謳い上げ、これに、凄い迫力で三味線の豊澤富助が負けじとばかり唱和する。
「大夫さんは段切りを盛り上げて派手に語られますけど、人形はそれにつられて大きな振りになってはいけない。ぐっと肝で受け止めて、あくまで抑えて遣う。」と玉男は語っているが、玉女の遣う人形は、正に神性と人間丞相を兼ね備えた素晴らしい丞相で、玉男の究極の芸が新しい後継者に乗り移ったような素晴らしい舞台であった。
非常に面白かったのは、簔助の奴宅内で、宿禰太郎に命令されて立田の死骸を池から引き上げて、下手人にされて牢屋へぶち込まれようとするそれだけの役なのだが、出だしから客の笑いを誘い、裸になって池に飛び込む前に唾をつけて耳栓をする芸の細かさ、
それに、池から上がってからの仕草がまた秀逸で、舞台正面では覚寿と宿禰太郎の対決が佳境に入っているのに、下手の舞台脇で冷えた身体を提灯に跨って腰を左右に振って股間を暖めていて、その仕草ばかりを見ている客は笑いを抑え切れずに爆笑。
勘十郎の宿禰も達者な芸で、ぬっと出てきて、柱にヤモリのように身体を斜めに張り付いて、立田と苅屋姫の内緒話を立ち聞く出だしからユニークで、悪は悪だが憎めない何処か抜けた悪で、楽しみながら遣っている、そんな舞台である。
この段の何と言っても中心人物は、文雀の覚寿で、少し足元があやしくなってきているが凄い芸で、玉女の登場を力強く支えていて感動的である。
実に瑞々しく健気な苅屋姫を遣う弟子の和生との呼吸がぴったりである。
やはり、このような威厳と重厚さ、品のある立役の輝国を演じられるのは文吾である、そんな凛とした舞台であった。
立田前の玉英、武部源蔵の玉輝、その妻戸浪の紋豊、左中弁希世の文司など、脇を固める人形も夫々素晴らしく豊かな舞台を作り出している。
筆法伝授の段での嶋大夫と三味線竹澤宗助の感動的な浄瑠璃も忘れ難い。
菅丞相は、当然のこと、後継者の玉女で、玉男の左を8回遣ったと言うから、師匠直伝の芸が体に染み付いていて、実に格調の高い大きな丞相であった。
丞相の伯母覚寿は人間国宝文雀、娘苅屋姫が和生、それに、文吾が素晴らしい判官代輝国を演じている。
ところで、人間国宝簔助が一寸出だが奴宅内、それに、勘十郎が悪人・宿禰太郎と言った非常に灰汁の強い脇役を演じていて実に興味深い。
今回は、玉男さんを追善する意味で、菅丞相が活躍する初段と二段目だけだが、正味4時間の非常に中身の濃い充実した舞台が展開していて息つく暇なく面白い。
文楽と歌舞伎では、大分話の筋や登場人物の位置づけなど違っていて、その違いが面白いのだが、玉女の丞相は、非常に現代的な解釈の演技で、仁左衛門の演じる歌舞伎のような古風さを感じさせずに、オーソドックスで分かり易い。
今回の最後の「丞相名残の段」で、丞相が出立する時の人形の場合と本物の丞相の場合とでは、仁左衛門は人形の場合にはロボットのような動きをして完全に区別しているが、玉女の場合には、衣装や多少の動作で区別をつけている程度で殆ど差をつけずに自然に演じている。
また、覚寿の機転で小袖で覆った香を焚く伏籠に隠れて別れを惜しむ仮屋姫との分かれの場合にも、仁左衛門よりも玉女の方が、はるかに、生身の人間に近く、可なり自然に仮屋姫に反応している。
天神さんとして既に神になっていた菅原道真をどのように演じるのか、仁左衛門のように神性を重視するのか、玉女のように少し人間的に描くのかは難しい所だが、時代や人々の志向によっても違ってくるのであろう。
この丞相名残のところの木像の丞相が登場する場面での丞相の扱いについて、玉男は、「文楽藝話」で木像と本物の仕分けについて面白い話をしている。
宿禰太郎の登場で、出立のために木像の丞相が、立ち上がって下手の階を下りる所で、足を動かさないのが口伝になっていたが、浄瑠璃本文では何も書かれていないし、不自然な歩き方よりは人間の丞相にちかく目線だけは下げずに足を少し動かす方が良いと考えて演出を改めた。
また、最後の本物の丞相の旅立ちの所では、以前は天上人のように沓を履いていたが、冠もせず笏も持っていないのに沓はおかしいと思って草履に改めた。
感極まって苅屋姫が伏籠の中から嗚咽の声を漏らした時、覚寿が覆いの小袖の右袖を上げると玉女は振り返ってジッと伏籠の中の苅屋姫を見つめていたが、目を合わせたのはこの時だけで、『「鳴けばこそ、別れを急げ鶏の音の」から段切りまで、苅屋姫のことを気遣いながらも、決して顔を合わさないよう、左右の袖を交互に上げて遮る。』と言う玉男の言を守っていた。
苅屋姫と皇弟の斎世親王との逢引を政略に利用されて失脚した丞相だが、その娘との永久の別れの最後の部分での玉女の人形遣いが一番理に適っていると思った。
この少し前に、宿禰太郎父子の悪巧みを知って殺された覚寿の娘・立田の死を前にして、「某これへ来たらずば、斯かる嘆きもあるまじ」と言って合掌して悔やみの涙を流す人間丞相であるから、少なくとも一度は、苅屋姫には目を合わさないと筋が通らないのである。
この丞相は、特に「筆法伝授の段」では、正面に鎮座したままで動かず、全編にわたって、殆ど動きのない人形なので、非常に表現や演出が難しいようである。
この一時間以上にわたる素晴らしい「丞相名残の段」を、正に天下一品の美声の持ち主豊竹十九大夫が緩急自在の名調子で謳い上げ、これに、凄い迫力で三味線の豊澤富助が負けじとばかり唱和する。
「大夫さんは段切りを盛り上げて派手に語られますけど、人形はそれにつられて大きな振りになってはいけない。ぐっと肝で受け止めて、あくまで抑えて遣う。」と玉男は語っているが、玉女の遣う人形は、正に神性と人間丞相を兼ね備えた素晴らしい丞相で、玉男の究極の芸が新しい後継者に乗り移ったような素晴らしい舞台であった。
非常に面白かったのは、簔助の奴宅内で、宿禰太郎に命令されて立田の死骸を池から引き上げて、下手人にされて牢屋へぶち込まれようとするそれだけの役なのだが、出だしから客の笑いを誘い、裸になって池に飛び込む前に唾をつけて耳栓をする芸の細かさ、
それに、池から上がってからの仕草がまた秀逸で、舞台正面では覚寿と宿禰太郎の対決が佳境に入っているのに、下手の舞台脇で冷えた身体を提灯に跨って腰を左右に振って股間を暖めていて、その仕草ばかりを見ている客は笑いを抑え切れずに爆笑。
勘十郎の宿禰も達者な芸で、ぬっと出てきて、柱にヤモリのように身体を斜めに張り付いて、立田と苅屋姫の内緒話を立ち聞く出だしからユニークで、悪は悪だが憎めない何処か抜けた悪で、楽しみながら遣っている、そんな舞台である。
この段の何と言っても中心人物は、文雀の覚寿で、少し足元があやしくなってきているが凄い芸で、玉女の登場を力強く支えていて感動的である。
実に瑞々しく健気な苅屋姫を遣う弟子の和生との呼吸がぴったりである。
やはり、このような威厳と重厚さ、品のある立役の輝国を演じられるのは文吾である、そんな凛とした舞台であった。
立田前の玉英、武部源蔵の玉輝、その妻戸浪の紋豊、左中弁希世の文司など、脇を固める人形も夫々素晴らしく豊かな舞台を作り出している。
筆法伝授の段での嶋大夫と三味線竹澤宗助の感動的な浄瑠璃も忘れ難い。