熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場十二月文楽・・・新版歌祭文

2007年12月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   私が子供の頃、東海林太郎と言う歌手が直立不動の姿勢で「野崎参りへ 屋形船で参ろ お染久松 切ない恋に・・・」と歌っていた。
   この場面が、新版歌祭文 野崎村の段の幕切れで、久松は籠で土手道を、お染は屋形船に乗って川を下って大阪へ帰って行くところである。
   最後には、お染久松は心中を図るのだが、この時は、お染久松は、悲恋ではなく、在所の許婚お光が久松との結婚を諦めて尼になってしまい、許された恋路なので二人ともハッピーな筈である。

   ところで、この野崎参りは、落語にもなっていて、寝屋川を舟に乗って行く客(ここでは、喜ぃ公と一寸イカレタおっちょこちょいの清ぇやん)が、土手を歩く客に口喧嘩を売る話になっている。
   野崎観音で春と秋の無縁仏回向の法会が行われる祭礼時の野崎参りに、陸と川からお互いに口喧嘩をして勝てば運が向くという奇習・悪口祭があり、これを引いた話である。
   喜ぃ公の喧嘩指南を清ぇやんが上手くオウム返しに返せず、ハチャメチャの受け答えをする似ても似つかぬ馬鹿話で、桂枝雀の語りだと言う。

   今回の舞台は、「座摩社の段」と「野崎村の段」である。
   手代の小助(勘十郎)達に集金した売掛金の一貫五百目を騙し取られた丁稚久松(文司)が、養い親の久作(玉也)の元へ返される。
   久松の思いがけない帰宅で、久作が念願の許婚のお光(清之助)との結婚話を一挙に進める。病床のお光の母(玉英)も喜び、お光も有頂天になるが、そこへ、久松恋しさに、野崎参りに託けて、お染が、久松を訪ねてくる。
   一切を知ったお光が身を引いて尼僧姿の花嫁衣裳で登場し、お染久松の恋を許し、娘心配で後を追ってきたお染の母お勝(亀次)に伴われてお染たちは大坂へ帰って行く。

   今回の舞台での主役は、お染久松ではなく、お光で、前回は、簔助が遣っていて、非常に感動的な舞台を魅せて貰った。
   悪辣な小助に、主人の金を遊女狂いしてちょろまかしたによって連れ帰ったと言われて帰ってきた久松を迎えた久作は、黒谷本山への冥加金として貯めた金を小助に渡し、これ幸いと、お光との祝言を決心する。
   義父と母のために甲斐甲斐しく立ち働いていた田舎娘のお光の体全身から迸り出る嬉しさと恥じらいの表情を、清之助は実に丁寧に優しく遣う。
   こんなことなら今朝あたり髪を結うておこうものを・・・といそいそするのも、ほんのつかの間、お染が訪ねて来る。

   この口絵は、お光が手鏡をかざして戸口のお染を覗き見るシーンで、言葉つきと垢抜けした姿かたちで常々聞いているお染と悟り、これからお光の嫉妬心と狼狽ぶりが始まる。
   お光が許婚だと知らないお染が土産代わりにと渡した小金を投げつけたり箒で戸口を突付いたり、お光の嫉妬振りが意地らしいが、父と座敷に戻ってきた久松に当てこすり喧嘩を始めたので、さあさあ花嫁の用意をと父がお光を奥に誘う。
   間髪を居れずに、待ちかねたお染が、部屋に駆け込み久松にすがり付いて、添われぬ時は死ぬると言う誓詞どおり殺してと訴える。二人は死を決心する。

   久作が道理を説いて祝言することになるが、すべてを知り、二人が死ぬ覚悟で居ることを知ったお光は、島田まげを根から切って尼姿で出てくる。
   「何も言うて下さんすな。・・・嬉しかったのはたった半時、無理にわたしが添おうとすれば、死なしゃんすを知りながら、どうして杯がなりましょうぞいな。」
   久作も、久松も、世間の義理から祝言を挙げるようとし、お染も認めるが、お染久松は目配せして死ぬ覚悟を確認しており、久松を想うお光は、そのことを痛いほど身に沁みて知っている。自分さえ犠牲になればと身を引くお光のたった17歳の心意気と犠牲の心が胸を締め付ける。
   久松一途で、一直線のお染、しかし、愛するがゆえに諦めて、犠牲の中に一縷の救いと幽かな光明を見出そうとするお光の、世の中が移り変わっても色あせぬ美しい心が観客を魅了し続けて来たのであろう。
   死のうとするお染久松を、お光に感動して必死に止めようと説得する父久作。最後まで何も知らずに娘の祝言を願い喜んだ母が娘の変わった姿と来世を願った杯に気付いての嘆き。
   切羽詰って死のうとするお染久松に、三人ながら見殺す気か、サアサアサア・・・と迫る、竹本文字久大夫の浄瑠璃と野澤錦糸の三味線が感動を呼ぶ。

   このお染久松の心中は実話で、直ぐに歌祭文が現れた。
   しかし、このお光は、この新版歌祭文で登場した架空の人物であり、勿論、野崎村の話も作り話であるが、義理と情けと恩愛に泣く主人公を、田舎娘のお光に託した筆の冴は、さすがに近松半ニである。
   最初から最後まで、お光は、俗に言う田舎娘ではなく、折り目正しいしっかりとした娘として描き抜かれているのが素晴らしい。
   私は、清之助のお光が、実に初々しくて甲斐甲斐しい半面、堂々とした一人の女として舞台を張っている姿に感激して見ていた。美しい、そして、実に女らしい。

   この舞台で、もう一つ目を引いたのは、いけ好かない悪人小助を遣った勘十郎の芸である。
   今、人間国宝を除いて、立役と女形を最高の水準で遣える両刀使いは勘十郎であることは間違いないと思うが、この何とも言えない厭な小悪党を実に憎々しく演じていて、こんな奴が周りにも結構居るなあと嫌な気持ちを感じて見ていたのだが、芸とは、リアルで上手くやれば良いというものでもないのかも知れないと思った。

   
   

   
コメント
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