谷啓の出演で放映されたという「NHK美の壺」を見に、高島屋に出かけた。
美のツボを理解していないと芸術品としての日本の素晴らしい壺も、ただのものを入れる壺にすぎないと言うことなのだが、お宝ブームで結構人気が高いのか、多くの老壮年の客で賑わっていた。
鑑賞のツボの解説に主眼を置いた展示会なので、10のテーマごとに2分間の凝縮されたビデオ説明があり、例えば古伊万里のコーナーでは、壱のツボ 初期伊万里は指跡のぬくもり、弐のツボ 青は枯淡を味わえ・・・と言った調子で、作品ごとに丁寧な説明がついていて実に親切である。
私の場合は、学生時代に京都や奈良の古社寺を回りながら、日本の工芸品や古美術に興味を持って、あっちこっちを見て歩いたが、その当時は、多少解説書を読んでも、殆ど十分な知識なしに鑑賞していた。
刀の目利きは、本物の名刀のみを見せて訓練すると言われているので、分からなくても、良いものを見ておればいつかは分かると高をくくっていたのである。
その後外国に出てからは、特に、ヨーロッパの宮殿等で、日本からの立派な陶磁器や古美術品が宝物として飾られているのを見て、逆に、その値打ちを教えられた感じである。
英国の大英博物館やニューヨークのメトロポリタン博物館など、あっちこっちでも、日本の絵画や古美術品などを随分見たが、マイセンの磁器など有田焼を必死になって真似たもので、ウエッジウッドなど伊万里のモチーフが今でも販売されている。
私が住んでいたオランダのデルフト焼など、あのデルフト・ブルーの青色はやはりこの古伊万里の枯淡の青の継承であろう。
マイセンは、苦心惨憺の末に磁器に到達したが、デルフトは、陶器のままで、上薬で磁器の輝きを見せているが、如何せん土なので脆くていくらか壊してしまったのが残念である。
ガラス細工だが、江戸と薩摩の精巧で美しい切子が展示されていた。
私が親しんでいたのは、やはり、ヨーロッパで、今手元にあるのは、ブダペストやプラハ、ウィーンなどで買ったボヘミアン・グラスの壺やトレー、ポット、花瓶などであるが、外国では無理をして買えても、ガラス器のみならず陶磁器でも、日本では、どうしても高くて手を出す気にはなれないのが不思議である。
偏見かも知れないが、陶磁器は日本製の方が上等だと思っているが、ガラス器については、ヨーロッパの方が上だと言う感覚を持っていて、毎日のワイングラスは、ヨーロッパ製を使っている。
ガラス芸術は、アールヌーヴォーのガレとドーム兄弟の素晴らしい作品が展示されていた。
花や虫より素地が主役と言う説明で、ガレの「蜻蛉文脚付杯」が展示されていて、幾重にも重ねて焼かれた杯にトンボがあしらわれているのだが実に精巧で美しい。
それより印象的だったのは、数匹の蜉蝣が封じ込められた杯で、光がつくるいくつもの顔と言う説明の如く、一日で命を終わる蜉蝣の姿を朝と夜に光を変えて浮かび上がらせていたが、これこそ芸術と言うものであろう。
陶磁器は、日本の場合は、色形など千差万別で、盛る食材によって器を変えるのでバリエーションが凄いが、欧米の場合には、最初から最後まで同じデザイン同じパターンの食器を使ってサーブするのでバリエーションが限られておりパターン化されている。
その所為もあって、洋食器は、非常に洗練されていて、極めて長い寿命を持っているものがあるのだが、その所為か選択肢が非常に少なくなる。
イギリスに行くと日本人が必ず目指すウエッジウッドなど、スタンダード・ナンバー以外の選択は非常に難しいし、種類も少ないので、みんな同じものを買って帰ることになる。
ところで、展示場の最初は、古伊万里だが、鍋島藩が朝鮮から職人を呼んで来て400年前に焼き始めたようだが、当初は素焼きをしなかったので非常に脆くて、焼く時に職人が用心して上薬をつけたので指跡が残っていて、それが希少価値だと言う。
やや年代が下って精巧に造形された茶碗を見て、その素晴らしさに職人の腕の上達ぶりにビックリした。
私が、ウィーンの直営店で買って帰ったアウガルテンのプリッツ・オイゲンの大皿など重ねると歪んでガタガタなのである。ハプスブルグ王室家の釜でありながら、この調子だから、なんと言っても、ものづくりは日本である。
陶器は、魯山人の作品と魯山人が愛した磯部焼が展示されていたが、食器と料理の融合、マッチングと言う素晴らしい日本文化の伝統が息づいていて感銘を受けた。
ワインと料理のマッチングについては欧米人はやかましいが、視覚の美を限りなく愛する日本人の美意識は格別で、今日本料理がグローバル化しているのは、ヘルシーだと言う以外に、その美の表現が大いに受けているのだと思う。
ヨーロッパ人が好んで鑑賞していたのは、小さな根付だが、今回も精巧な作品が展示されていた。
極意は小さく丸く、粋な遊びを楽しむと言う事のようだが、「なれ」と言って、人の手で撫ぜられて磨り減ってしまって、彫られた人間の顔など消えてのっぺりしていた根付があったが、ほのぼのとした温かさが実に良い。
柘植と鼈甲の素晴らしい櫛がたくさん展示されていたが、裏表と背面に連続して描かれた絵の素晴らしさなど格別で、見る人の目を楽しませる為とか、どうせ、素晴らしい美人が挿す櫛だろうから、櫛を見る振りをして麗人を鑑賞させてもらうのも良かろうと思う。
掛け軸入門 表具、藍染め、江戸の文様、友禅、唐津焼、等々、日本芸術の粋を楽しみながら秋の午後を過ごした。
美のツボを理解していないと芸術品としての日本の素晴らしい壺も、ただのものを入れる壺にすぎないと言うことなのだが、お宝ブームで結構人気が高いのか、多くの老壮年の客で賑わっていた。
鑑賞のツボの解説に主眼を置いた展示会なので、10のテーマごとに2分間の凝縮されたビデオ説明があり、例えば古伊万里のコーナーでは、壱のツボ 初期伊万里は指跡のぬくもり、弐のツボ 青は枯淡を味わえ・・・と言った調子で、作品ごとに丁寧な説明がついていて実に親切である。
私の場合は、学生時代に京都や奈良の古社寺を回りながら、日本の工芸品や古美術に興味を持って、あっちこっちを見て歩いたが、その当時は、多少解説書を読んでも、殆ど十分な知識なしに鑑賞していた。
刀の目利きは、本物の名刀のみを見せて訓練すると言われているので、分からなくても、良いものを見ておればいつかは分かると高をくくっていたのである。
その後外国に出てからは、特に、ヨーロッパの宮殿等で、日本からの立派な陶磁器や古美術品が宝物として飾られているのを見て、逆に、その値打ちを教えられた感じである。
英国の大英博物館やニューヨークのメトロポリタン博物館など、あっちこっちでも、日本の絵画や古美術品などを随分見たが、マイセンの磁器など有田焼を必死になって真似たもので、ウエッジウッドなど伊万里のモチーフが今でも販売されている。
私が住んでいたオランダのデルフト焼など、あのデルフト・ブルーの青色はやはりこの古伊万里の枯淡の青の継承であろう。
マイセンは、苦心惨憺の末に磁器に到達したが、デルフトは、陶器のままで、上薬で磁器の輝きを見せているが、如何せん土なので脆くていくらか壊してしまったのが残念である。
ガラス細工だが、江戸と薩摩の精巧で美しい切子が展示されていた。
私が親しんでいたのは、やはり、ヨーロッパで、今手元にあるのは、ブダペストやプラハ、ウィーンなどで買ったボヘミアン・グラスの壺やトレー、ポット、花瓶などであるが、外国では無理をして買えても、ガラス器のみならず陶磁器でも、日本では、どうしても高くて手を出す気にはなれないのが不思議である。
偏見かも知れないが、陶磁器は日本製の方が上等だと思っているが、ガラス器については、ヨーロッパの方が上だと言う感覚を持っていて、毎日のワイングラスは、ヨーロッパ製を使っている。
ガラス芸術は、アールヌーヴォーのガレとドーム兄弟の素晴らしい作品が展示されていた。
花や虫より素地が主役と言う説明で、ガレの「蜻蛉文脚付杯」が展示されていて、幾重にも重ねて焼かれた杯にトンボがあしらわれているのだが実に精巧で美しい。
それより印象的だったのは、数匹の蜉蝣が封じ込められた杯で、光がつくるいくつもの顔と言う説明の如く、一日で命を終わる蜉蝣の姿を朝と夜に光を変えて浮かび上がらせていたが、これこそ芸術と言うものであろう。
陶磁器は、日本の場合は、色形など千差万別で、盛る食材によって器を変えるのでバリエーションが凄いが、欧米の場合には、最初から最後まで同じデザイン同じパターンの食器を使ってサーブするのでバリエーションが限られておりパターン化されている。
その所為もあって、洋食器は、非常に洗練されていて、極めて長い寿命を持っているものがあるのだが、その所為か選択肢が非常に少なくなる。
イギリスに行くと日本人が必ず目指すウエッジウッドなど、スタンダード・ナンバー以外の選択は非常に難しいし、種類も少ないので、みんな同じものを買って帰ることになる。
ところで、展示場の最初は、古伊万里だが、鍋島藩が朝鮮から職人を呼んで来て400年前に焼き始めたようだが、当初は素焼きをしなかったので非常に脆くて、焼く時に職人が用心して上薬をつけたので指跡が残っていて、それが希少価値だと言う。
やや年代が下って精巧に造形された茶碗を見て、その素晴らしさに職人の腕の上達ぶりにビックリした。
私が、ウィーンの直営店で買って帰ったアウガルテンのプリッツ・オイゲンの大皿など重ねると歪んでガタガタなのである。ハプスブルグ王室家の釜でありながら、この調子だから、なんと言っても、ものづくりは日本である。
陶器は、魯山人の作品と魯山人が愛した磯部焼が展示されていたが、食器と料理の融合、マッチングと言う素晴らしい日本文化の伝統が息づいていて感銘を受けた。
ワインと料理のマッチングについては欧米人はやかましいが、視覚の美を限りなく愛する日本人の美意識は格別で、今日本料理がグローバル化しているのは、ヘルシーだと言う以外に、その美の表現が大いに受けているのだと思う。
ヨーロッパ人が好んで鑑賞していたのは、小さな根付だが、今回も精巧な作品が展示されていた。
極意は小さく丸く、粋な遊びを楽しむと言う事のようだが、「なれ」と言って、人の手で撫ぜられて磨り減ってしまって、彫られた人間の顔など消えてのっぺりしていた根付があったが、ほのぼのとした温かさが実に良い。
柘植と鼈甲の素晴らしい櫛がたくさん展示されていたが、裏表と背面に連続して描かれた絵の素晴らしさなど格別で、見る人の目を楽しませる為とか、どうせ、素晴らしい美人が挿す櫛だろうから、櫛を見る振りをして麗人を鑑賞させてもらうのも良かろうと思う。
掛け軸入門 表具、藍染め、江戸の文様、友禅、唐津焼、等々、日本芸術の粋を楽しみながら秋の午後を過ごした。