安部博之元学長は、「日本における勉学の文化、これまでとこれから」を論じた。
論点は、旧制高校とともに、1949年をもって日本の戦前のエリート教育が終わり、戦後の日本は、完全にエリート教育を放棄ないし否定して来た。幸か不幸か、これまでは、欧米後追いのキャッチアップで過ごせたが、21世紀のグローバル化の進展と高度な情報産業化社会において、日本が世界経済の発展と人類の幸福の為に積極的に貢献して行くためには、未来を先導するリーダー層(21世紀の新エリート)の教育育成は必須である。と言うことである。
日仏フォーラムであったので、安部氏は、フランスのバカロレアの卓越性について語った。
バカロレアは、リセなどの中等教育を終了して与えられる国家卒業資格であると同時に大学入学資格でもあるのだが、数種類の分野ごとに、文理両方に渡った論文式の試験や口頭試問が主体で非常に難しい厳格な試験が課せられている。ドイツのアビトゥアなども同じ資格だが共通資格として国際バカロレア協定が結ばれている。日本の○×式や選択式の記憶や暗記力をテストするのではなく、広い知識と深い思索力が問われるのである。
先ごろ、国際的テストで、日本の生徒に思考力やものを推論する力が欠如していると言う結果が発表されていたが、日本の教育制度では、バカロレア制度との比較以前に、至極当然で、世界の知識を吸収することのみに徹していた明治時代の二の舞を、戦後にも犯してしまったのである。
日本の私立大学の文科系なら文科系、理科系なら理科系の3科目程度の○×式テストで入学が決まり、高等学校では大学入試に出ない科目は極力履修しないなどと言ったことが常態となっており、大学でもロクスッポ勉強をしないことになると、もう、大学の存在自体が疑われる。
安部氏は、21世紀のエリートとは、
・世界的な視野で考えられる
・歴史観、文明観、価値観を持つ
・ノブレスオブリージェ
・新しい世界・社会を創造しようと言うスピリット
をあげていた。
この考え方の背後には、現在の学生は、文明観も価値観も希薄で、何かの資格を取ることは熱心だが、知への憧れが著しく欠如しているとして、三木清の旧制高校の乱造に対する「人格教育解体」説や、丸山眞男の「精神的鎖国」論を引きながら現状を憂う気持ちが濃厚なのである。
私は、このブログでも教育については何度も書いているが、エリートと言う言葉を使うかどうかは別にして、安部元学長の考え方には、全面的に賛成である。
特に、旧制高校のような、それも第一、第二、第三と言ったナンバー校主体の頃のように、文理両面の非常に難しい試験を課して、学校では、リベラルアーツやスポーツ教育に力を入れた文武両道のエリート教育を行って居た頃が一番教育制度が充実していたのかも知れないと思う。
日本の今のような平等教育、すなわち、みんなを平等にバカにするような教育制度は改めるべきだと思う。
教育については、弱肉強食に徹するべきで、良く出来る人間は徹底的に伸ばす教育システムでないと、教育の実が上がらない。しかし、勉強ができるかどうかと言うことは、人間の値打ちには関係のないことなので、人生における結果平等については政治や社会体制で十分にフォローすべきだと思っている。
論点は、旧制高校とともに、1949年をもって日本の戦前のエリート教育が終わり、戦後の日本は、完全にエリート教育を放棄ないし否定して来た。幸か不幸か、これまでは、欧米後追いのキャッチアップで過ごせたが、21世紀のグローバル化の進展と高度な情報産業化社会において、日本が世界経済の発展と人類の幸福の為に積極的に貢献して行くためには、未来を先導するリーダー層(21世紀の新エリート)の教育育成は必須である。と言うことである。
日仏フォーラムであったので、安部氏は、フランスのバカロレアの卓越性について語った。
バカロレアは、リセなどの中等教育を終了して与えられる国家卒業資格であると同時に大学入学資格でもあるのだが、数種類の分野ごとに、文理両方に渡った論文式の試験や口頭試問が主体で非常に難しい厳格な試験が課せられている。ドイツのアビトゥアなども同じ資格だが共通資格として国際バカロレア協定が結ばれている。日本の○×式や選択式の記憶や暗記力をテストするのではなく、広い知識と深い思索力が問われるのである。
先ごろ、国際的テストで、日本の生徒に思考力やものを推論する力が欠如していると言う結果が発表されていたが、日本の教育制度では、バカロレア制度との比較以前に、至極当然で、世界の知識を吸収することのみに徹していた明治時代の二の舞を、戦後にも犯してしまったのである。
日本の私立大学の文科系なら文科系、理科系なら理科系の3科目程度の○×式テストで入学が決まり、高等学校では大学入試に出ない科目は極力履修しないなどと言ったことが常態となっており、大学でもロクスッポ勉強をしないことになると、もう、大学の存在自体が疑われる。
安部氏は、21世紀のエリートとは、
・世界的な視野で考えられる
・歴史観、文明観、価値観を持つ
・ノブレスオブリージェ
・新しい世界・社会を創造しようと言うスピリット
をあげていた。
この考え方の背後には、現在の学生は、文明観も価値観も希薄で、何かの資格を取ることは熱心だが、知への憧れが著しく欠如しているとして、三木清の旧制高校の乱造に対する「人格教育解体」説や、丸山眞男の「精神的鎖国」論を引きながら現状を憂う気持ちが濃厚なのである。
私は、このブログでも教育については何度も書いているが、エリートと言う言葉を使うかどうかは別にして、安部元学長の考え方には、全面的に賛成である。
特に、旧制高校のような、それも第一、第二、第三と言ったナンバー校主体の頃のように、文理両面の非常に難しい試験を課して、学校では、リベラルアーツやスポーツ教育に力を入れた文武両道のエリート教育を行って居た頃が一番教育制度が充実していたのかも知れないと思う。
日本の今のような平等教育、すなわち、みんなを平等にバカにするような教育制度は改めるべきだと思う。
教育については、弱肉強食に徹するべきで、良く出来る人間は徹底的に伸ばす教育システムでないと、教育の実が上がらない。しかし、勉強ができるかどうかと言うことは、人間の値打ちには関係のないことなので、人生における結果平等については政治や社会体制で十分にフォローすべきだと思っている。