熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

フェルメール展・・・東京都美術館

2008年12月06日 | 展覧会・展示会
   私が始めてフェルメールを見たのは、1979年12月、ヨーロッパ旅行の途中立ち寄ったアムステルダムの国立美術館で、今回来ている「小路」と昨年来た「牛乳を注ぐ女」と、その他の「青衣の女」と「恋文」の4点に出会ったのだが、特に、牛乳を注ぐ女の表情と、何とも言えないほど美しい黄色と黄緑と言うか微妙かつ繊細な衣服の色彩とその描写に感じ入ってしばらく眺ていた。
   その後、2回くらいアムステルダムに出張し、1985年から3年間アムステルダムに、5年間ロンドンに赴任していたのだから、あのレンブラントの「夜警」ともども、美術館に行けば必ず、フェルメールの部屋に行っていたので、目に焼きつくほど、この4点は見ている。

   ヨーロッパ在住中、日本からのお客さんをアムステルダム国立博物館に伴った時には、必ず、このフェルメールの部屋に案内し、フェルメールへの熱い思いを語っていたのだが、お客さんの大半は、殆ど知らなかったし興味も示さなかった。
   ところが、今回平日だと言うのに、東京都美術館は長蛇の列で、30分以上も並ばないと館内に入れないほどの超人気であった。
   
   幸い、その後、欧米への出張や旅行の度毎に、現地の美術館を訪ね、フェルメールの作品を確認しながら歩き、幸い、今回、見ていなかったダブリンのナショナル美術館の「手紙を書く婦人と召使」と個人蔵の「ヴァージル前に座る若い女」を加えると、現在分かっているフェルメールの作品38点の内36点見たことになる。
   残っているのは、イギリス王室コレクションの「音楽の稽古」とボストンのイサベラ・スチュアート・ガードナー美術館の「合奏」だけになったが、ボストンは次に行くとしても、英王室のフェルメールは何処にあるのであろうか。

   ところで、フェルメールが何故それほど良いのか、フェルメールの全作品を追っかけた作家の有吉玉青さんが、朝日新聞の「感動は言葉にならず」と言う投稿記事で、「フェルメールの魅力は何なのかと、よく尋ねられるのだが、うまく答えられない。・・・魅力を説明することなんてとてもできないが、この説明できないことこそが魅力ではないか。とにかく見てください、感じてくださいというしかない。」と書いているが、全く同感で、私自身正直なところ、説明すれば、虚しいと言うか嘘になってしまうと言う気がしている。

   今回、会場に、フェルメールの全部(?)の原寸大の複製画が写真パネルで展示されていたが、殆どの作品は小さくて、世界の美術館でも、あまり目立たないところにひっそりと展示されていることが多い。
   今回来ている初期の宗教画などは大きい方だが、窓辺の女性を描いた作品などでは、今回、残念ながら来日をドタキャンされたウィーンの「絵画美術」などは大きな方で、殆ど小さな作品で、今回の「ヴァージルの前に座る女」は、A5サイズに達しないほど小さい。
   風景画は、2点しか残っていないが、今回の小さな「小路」と比べれば、ハーグにある「デルフト風景」は、かなり大きく、非常に精密な美しい風景画で、今でも、殆ど同じ光景が展開されているのに驚く。

   フェルメールと言えども、全てが名作と言うわけではないであろうが、私自身にも、かなり、好き嫌いがある。
   今回の作品で、一番気に入ったのは、「ヴァージルの前に座る若い女」で、それに、見る機会の多かったメトロポリタンの「リュートを調弦する女(口絵写真 MET Mで撮影)」も、ヨーロッパの地図をバックに乙女の表情が物語を語っているようで好きである。

   他に、私の好きなのは、アムステルダムの「牛乳を注ぐ女」、ハーグの「真珠の首飾りの少女」、METの「眠る女」、ワシントンの「手紙を書く女」、フリックの「士官と笑う娘」等々女性像が多いのだが、元々、残っているフェルメールの作品の大半が女性像を描いたものだから仕方がない。
   
   フェルメールの作品は、画面の左側に窓がある窓辺にいる人物を描いた絵画が多くて、淡い自然光を受けて微妙な表情を示す人物や調度などが活写されている。
   今でも、オランダには、当時の頃のような古い民家があって、歪なガラスをモザイク様に組み合わせた古風な窓が付いた部屋があり、開け放てば明るくなるが、かなり薄暗く、冬場などは、日が短い上に、殆ど陽が照らず毎日リア王の世界のような暗さだから、日本人の感覚から言えば、オランダの家での生活感覚や空気感は大分違う。
   それに、ヨーロッパでは、室内照明は、日本よりかなり暗く、微妙な光の中で美意識を育んで来た伝統があり、そのあたりの空気感なり部屋の調度品等バックグラウンドの醸し出す雰囲気などのある程度の理解がないと、フェルメールの微妙な色彩描写や繊細な美意識は分かり辛いような気がする。
   
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錦秋の鎌倉を歩く(5)~浄光明寺、寿福寺から近代美術館へ

2008年12月04日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   海蔵寺、岩船地蔵堂から、少し、鎌倉方向に歩いて、浄光明寺に向かった。
   頼朝の依頼で、文覚上人が創建した草庵が前身だと言うお寺だが、ここには、重要文化財の阿弥陀三尊像が安置されているので、やって来たのだが、残念ながら、休館日で、本堂である阿弥陀堂は、閉まっていた。
   一段高くなった台地に阿弥陀堂があるのだが、境内には、鎌倉市の天然記念物だと言うイヌマキの巨木がそそり立っている。確かに、葉を見るとマキの木で、幹の表面が筋状に伸びた表皮に覆われていて非常に精悍な井手達で、空洞など全くない現役隆々の巨木である。
   何の変哲もないお寺で、ひっそりと静まり返っていて寂しいくらいで、しばらく境内に佇んでから外に出た。

   ススキの美しい線路沿いの道を鎌倉に向かって歩き、踏切を越えて、少し歩くと寿福寺の総門に着く。
   寿福金剛禅寺と大書された石柱が門前に建っている。総門の奥には、鎌倉石を敷き詰めた綺麗な参道が一直線に中門まで続いていて、流石に禅寺の雰囲気で非常に気持ちが良い。
   しかし、参道の横幅も非常に狭く、左右の参道脇の木々も、神社などによくある杉木立などでそれなりに鬱蒼としているが、こじんまりしていて威圧感はない。
   この中門から内部へは入山を禁止されているので、正面に建つ仏殿と右奥の庫裏の建物くらいしか見えないが、殆ど、堂塔伽藍が無くなってしまったのか、頼朝の父の旧邸があった所であり、北条政子の開基で栄西の開山と言う由緒正しい鎌倉五山の第三位の禅寺としての威厳と風格は全く消え失せている。
   仏殿の正面には、天然記念物のビャクシンの巨木だけが往時を忍ばせて立っている。

   ところが、この寿福寺の背後の山の中には、広い墓地があり、奥の洞窟の中に、北条政子と源実朝の墓と目されている五輪塔がある。
   山から突き出して露出した岩に奥行きの浅い横穴を穿ったこじんまりとした墓で、実朝の方が大きく、政子の方は間口2メートルくらいの小さな墓で、奥の平土間の真ん中に五輪塔が据えられて、前の花立には、綺麗なピンクのユリとピンクのバラの花が供えられていた。
   二つの墓の洞窟は、ほんの10メートル足らずの距離なのだが、洞窟にあるという意味では、他の偉人たちの墓のように野ざらしではない分幸せだろうが、いかにも質素なのが印象的であった。
   ここの墓所には、高浜虚子や大佛次郎、陸奥宗光の墓があるようだが、虚子の墓しか見つけられなかった。
   この背後の山道を登ると源氏山に至るようであるが、道なき道を登る気はせず、鎌倉駅方向に歩くことにした。

   かなり交通量の激しい街道だが、鶴岡八幡宮の境内横を通って小町通に達して鎌倉駅に至る。
   この日、先日の美術館シンポジウムに触発されたので、丁度、行ってみようと思っていた近代美術館が八幡宮に隣接して建っており、街道に面しているので都合が良かった。
   しかし、残念ながら、ここも、展示換えと言うことで、週末まで閉館であった。
   大体、観光地などに出かけて、都合よく、目的の場所がオープンしていて見られるといった幸運に出くわすことなど、これまでも、それほど多くなかったので気にはならなくなっている。

   しかし、美術館に面した平家池の周りの風景が秋色に染まって、丁度淡い逆光を浴びて光っていて美しかった。
   大きな源氏池の方は、鴨やカモメのような水鳥で賑わっていたが、この小さな平家池の方は、全く人もいないので喧騒感などなく、一羽のコサギと、一羽のゴイサギが池に浮いている島の上でじっとしているだけで、実に静かであった。
   
   私は、鶴岡八幡宮には一度行けば十分だと思っているので、ここへ出かけてくるのは、この源氏と平家の二つの池の周りの自然の変化を楽しみ、源氏池に面したボタン苑のある回遊庭園を散策することで、明日、天気が良ければ、庭園の紅葉見学を楽しもうと思っている。
   
   
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錦秋の鎌倉を歩く(4)~化粧坂を下り海蔵寺へ

2008年12月03日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   この日も快晴で気持ちの良い朝だったので、北鎌倉に抜けようと思って、9時過ぎに源氏山へ上り、源頼朝像の前に立った。
   小鳥の鳴き声以外は何も聞こえない静かな朝で、紅葉に包まれた丘の上の綺麗な公園の真ん中に鎧姿で端座する銅像は、何となくそぐわないが、当時は、鬱蒼とした山中であろうし、ここに頼朝軍が集結して出陣したと言うことだから、由緒正しい場所なのである。

   その頼朝像のすぐ背後から、急峻な化粧坂が始まる。少し下れば眼下に民家が見えるので短い坂道だが、非常に傾斜が激しく道の体をなしていないので、地面が湿っていると滑り易いので気をつけて下りなければならない。
   化粧坂(けわいざか)とはうまく言ったもので、平家武者の打ち首を化粧したとか、女郎屋があったとか言うことだが、新田義貞が軍を率いて鎌倉に攻め込んだとも言われているので、昔からの坂道であったのであろう。
   ここもそうだが、源氏山の場合は、山を下って平地に下りると下は殆ど平地になっていて、このあたりも道路に沿って民家が集まっている。
   とにかく、鎌倉は山が迫っていて平地が少ないので余分な住宅地が殆どなく、古都保存法があるので、新築の住宅は難しいと聞く。

   化粧坂を下って少し歩くと、民家が建つ反対側の右手の崖っぷちに石柱が二本立っている。景清の土牢跡である。
   地上2メートルほど上にある大きな岩を垂直に切り出した壁面と、三角様に残った天井の部分だけしか現存していないので土牢だとは分からないが、土の部分は崩壊してしまったのであろう。
   頼朝暗殺を目論んでいた平家側の忠臣だが、歌舞伎でも中々重要な役割を演じているキャラクターなので、感に打たれてしばらく佇んでいた。

   しばらく歩いて三叉路を左に折れてしばらく歩くと、前方に美しく色づいた紅葉群が見えてくると、正面の高見に花の寺としても有名な扇谷山海蔵寺の山門が見える。(口絵写真)
   寺へ入る前の、手前左側のもみじの一群が実に美しく、もみじの葉が、緑から黄色、橙、赤と色のグラデュエーションが鮮やかで、平等院前の宇治川畔の錦に輝く美しい紅葉を思い出した。
   
   山門を入ると、右手に鐘楼、正面に本堂、左手に薬師三尊像の安置された仏殿があるが、非常に小さな簡素な寺である。
   鐘楼横の一本のもみじは大杯であろうか、真っ赤に色付いた大葉の鮮やかさは格別で逆光で見ると実に美しい。
   今、庭に咲いている花は、サザンカとホトトギスくらいだが、あっちこっちで、真っ赤に色付いて光っている万両が美しい。

   本堂正面玄関の背後の障子戸が開けっ放しにされていて、衝立越しに、朝日に輝く裏庭の風景が額縁に入った絵のように美しい。
   本堂左手の十六井戸や仏像などがある洞窟前を回りこんで、本堂横に立つと、禅宗風の瀟洒な庭園が良く見える。
   心字池の背後の山の傾斜を上手く利用した自然の世界を禅風に体現した庭のようだが、京都の庭のような豪華さや整然としたと言うか、計算し尽くされてプロが作庭した庭と言うような格調と精神性はあまり感じられないが、豊かな四季の移ろいを鑑賞する楽しさを感じさせてくれるシンプルな良い庭である。
   はい寒椿の鮮やかな赤が印象に残った。

   ところで、余談だが、この寺の山門を入って正面の本堂に向かう石段右手に、大きな赤い番傘が立っていて、前に小さな台が置いてあり、その上に、海蔵寺演略縁記と言う小冊子の山と、小銭入れの箱が置いてある。
   後のたて看板に拝観料(?)だったと思うが、一人100円入れてくださいと言ったことが書いてある。
   気付かない筈がないのだが、10時過ぎには沢山人が入って来たが、見るとはなく見ていると、90%以上の人が無視して境内を散策し、ひどいのになると、一銭も置かずに、沢山小冊子を取って、仲間に配っている人がいる。
   自律と自己責任の徹底した欧米と比べて、何処でも検察・切符チェックを止められない日本の悲劇と言うか、モラルのなさを感じて、日本の将来は暗いと思ったが、ひとごとであろうか。

   寺を出て、踏切を渡ると、小さな真新しい八角形のお堂が左手に現れる。
   海蔵寺に所属する岩船地蔵堂で、源頼朝の長女大姫の守り本尊を体内に内蔵した木造地蔵菩薩像が安置されていると言う。
   私は、判官びいき、その上に、平家びいきであるから、源頼朝が好きではないのだが、この大姫に対する仕打ちについても納得できないと思っている。
   院宣によって木曽義仲を討ったので、自分の平家への恨みつらみと同じことが起こって、謀反を起こされては大変と疑心暗鬼で、その子である木曽義高を刺客を送って殺害するのだが、その結果、許婚であり義高に恋焦がれていた自分の最愛の娘を苦しめてあたら20歳で死なせてしまう。
   分からなければ見過ごしてしまうお堂が哀れである。
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自動車産業の金融危機救済は急務・・・カルロス・ゴーン社長

2008年12月01日 | 経営・ビジネス
   米国民が「恐竜の延命」に難色を示しているが、ビッグ・スリーの金融危機は極に達して破産寸前。ヨーロッパも日本も同じような状態であり、雇用の10%以上を占めている戦略的重要産業である自動車産業を破産に追い詰めれば、取り返しが付かないことになる。
   ゼロエミッションの未来の自動車について夢を語っていたカルロス・ゴーン社長が、アメリカの自動車産業の危機について質問されて、急に語気を強めて、自動車産業が直面している金融危機の深刻さについて熱弁を振るった。

   東大安田講堂で開かれた日仏交流150周年記念シンポジウム「持続的発展可能な社会実現に向けた科学技術および産業界との連携」で、「風景をぬりかえよう:CO2ゼロ排出車」と言うテーマのQ&Aセッション(質問者は、フランス国立科学研究センター・カトリーヌ・ブレシニック総裁)でゴーン社長が登場したのである。

   電気自動車を20万台の生産ベースに乗せるためには、その開発のために10億ドルと言う膨大な資金が必要だが、自動車産業がR&Dや投資を試みてみても、現在、金融機能が完全に麻痺していて、資金の融通が付かず、暗礁に乗り上げている。
   自動車産業のような戦略的基幹産業に対しては、安い金利で長期的に安定して資金をファイナンスすると言うシステムを確立することが絶対必要であり、
   自動車産業の危機を傍観して見殺しにすれば、労働市場の破壊と言う高いツケを払うことになるので、政府の資金援助すると言う宣言が重要である。と言う。

   M&Aについて聞かれて、自動車会社の株価が暴落して時価総額が6~70%も下落しており、効率等考慮に値するとしても、資金の手当てが付かない以上誰も手を出すものは居ない。とにかく、企業自体が生きるか死ぬかの瀬戸際に立っている状態では、R&Dも設備投資もM&Aも、考えて行ける余裕などある筈がないという口ぶりである。
   日産救済の時には、自動車産業は上り坂だったが、日産だけが経営危機に陥っていただけなので、コストカッター方式で復活を図れたが、自動車産業そのものが需要の大幅ダウンや金融危機で資金的に窮地に立つと、流石のゴーン社長も、手も足も出ないと言うことであろうか。

   ゼロエミッション車やエコカーなどに対して消費者は、多少のコスト高は容認するかと聞かれて、ゴーン社長は、そんなことは絶対有り得ないことで、消費者は安い車を求め続けると即座に応えた。
   エコカーを求めざるを得ないのは、地球温暖化による環境破壊や石油依存からの脱却、或いは、消費者の強い要望などへの回答を図らざるを得ない政府の思惑が優先するのだが、税制を優遇するとか、補助金を与えるとか、消費者が買いたくなるようなインセンティブを与えるシステム作りが必要だと言うのである。

   ゼロエミッション車については、バッテリーの開発が最も重要で、他から充電すると発電にCO2を排出しているので、究極的には、原子力や太陽電池と言った車自体で発電する車が望ましい。
   バッテリーの開発には、これまでの技術者ではなく、化学系のエンジニアが必要だと言う。
   産学連携はどうかと聞かれて、
   これまでの自動車会社のR&Dでは専門に固守するので、新しい別な研究ルートから新しいヒントが得られる、
   個々別々のR&D開発より効率が上がり、お互いにメリットとなり、
   コストが安くなるので、歓迎だとしながら、そのマネジメントが重要だと付け加えた。

   例の調子の早口で捲くし立てるゴーン節は健在であり、原稿棒読みの日本企業のトップとは雲泥の差の頭の回転の速さと識見は、やはり、レバシリ、フランス、ブラジル・オリジンのコスモポリタン経営者故の特質であろうか。

   フランス語の通訳をメモして綴ったので、多少誤解があるかも知れないが、大体ゴーン社長の言わんとしたニュアンスは、こんなところだったと思っている。
   とにかく、飛ぶ鳥を落とす勢いであった自動車産業の凋落と蹉跌(?)の経済社会に与えるインパクトは、あまりにも大きすぎる。
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