私が始めてフェルメールを見たのは、1979年12月、ヨーロッパ旅行の途中立ち寄ったアムステルダムの国立美術館で、今回来ている「小路」と昨年来た「牛乳を注ぐ女」と、その他の「青衣の女」と「恋文」の4点に出会ったのだが、特に、牛乳を注ぐ女の表情と、何とも言えないほど美しい黄色と黄緑と言うか微妙かつ繊細な衣服の色彩とその描写に感じ入ってしばらく眺ていた。
その後、2回くらいアムステルダムに出張し、1985年から3年間アムステルダムに、5年間ロンドンに赴任していたのだから、あのレンブラントの「夜警」ともども、美術館に行けば必ず、フェルメールの部屋に行っていたので、目に焼きつくほど、この4点は見ている。
ヨーロッパ在住中、日本からのお客さんをアムステルダム国立博物館に伴った時には、必ず、このフェルメールの部屋に案内し、フェルメールへの熱い思いを語っていたのだが、お客さんの大半は、殆ど知らなかったし興味も示さなかった。
ところが、今回平日だと言うのに、東京都美術館は長蛇の列で、30分以上も並ばないと館内に入れないほどの超人気であった。
幸い、その後、欧米への出張や旅行の度毎に、現地の美術館を訪ね、フェルメールの作品を確認しながら歩き、幸い、今回、見ていなかったダブリンのナショナル美術館の「手紙を書く婦人と召使」と個人蔵の「ヴァージル前に座る若い女」を加えると、現在分かっているフェルメールの作品38点の内36点見たことになる。
残っているのは、イギリス王室コレクションの「音楽の稽古」とボストンのイサベラ・スチュアート・ガードナー美術館の「合奏」だけになったが、ボストンは次に行くとしても、英王室のフェルメールは何処にあるのであろうか。
ところで、フェルメールが何故それほど良いのか、フェルメールの全作品を追っかけた作家の有吉玉青さんが、朝日新聞の「感動は言葉にならず」と言う投稿記事で、「フェルメールの魅力は何なのかと、よく尋ねられるのだが、うまく答えられない。・・・魅力を説明することなんてとてもできないが、この説明できないことこそが魅力ではないか。とにかく見てください、感じてくださいというしかない。」と書いているが、全く同感で、私自身正直なところ、説明すれば、虚しいと言うか嘘になってしまうと言う気がしている。
今回、会場に、フェルメールの全部(?)の原寸大の複製画が写真パネルで展示されていたが、殆どの作品は小さくて、世界の美術館でも、あまり目立たないところにひっそりと展示されていることが多い。
今回来ている初期の宗教画などは大きい方だが、窓辺の女性を描いた作品などでは、今回、残念ながら来日をドタキャンされたウィーンの「絵画美術」などは大きな方で、殆ど小さな作品で、今回の「ヴァージルの前に座る女」は、A5サイズに達しないほど小さい。
風景画は、2点しか残っていないが、今回の小さな「小路」と比べれば、ハーグにある「デルフト風景」は、かなり大きく、非常に精密な美しい風景画で、今でも、殆ど同じ光景が展開されているのに驚く。
フェルメールと言えども、全てが名作と言うわけではないであろうが、私自身にも、かなり、好き嫌いがある。
今回の作品で、一番気に入ったのは、「ヴァージルの前に座る若い女」で、それに、見る機会の多かったメトロポリタンの「リュートを調弦する女(口絵写真 MET Mで撮影)」も、ヨーロッパの地図をバックに乙女の表情が物語を語っているようで好きである。
他に、私の好きなのは、アムステルダムの「牛乳を注ぐ女」、ハーグの「真珠の首飾りの少女」、METの「眠る女」、ワシントンの「手紙を書く女」、フリックの「士官と笑う娘」等々女性像が多いのだが、元々、残っているフェルメールの作品の大半が女性像を描いたものだから仕方がない。
フェルメールの作品は、画面の左側に窓がある窓辺にいる人物を描いた絵画が多くて、淡い自然光を受けて微妙な表情を示す人物や調度などが活写されている。
今でも、オランダには、当時の頃のような古い民家があって、歪なガラスをモザイク様に組み合わせた古風な窓が付いた部屋があり、開け放てば明るくなるが、かなり薄暗く、冬場などは、日が短い上に、殆ど陽が照らず毎日リア王の世界のような暗さだから、日本人の感覚から言えば、オランダの家での生活感覚や空気感は大分違う。
それに、ヨーロッパでは、室内照明は、日本よりかなり暗く、微妙な光の中で美意識を育んで来た伝統があり、そのあたりの空気感なり部屋の調度品等バックグラウンドの醸し出す雰囲気などのある程度の理解がないと、フェルメールの微妙な色彩描写や繊細な美意識は分かり辛いような気がする。
その後、2回くらいアムステルダムに出張し、1985年から3年間アムステルダムに、5年間ロンドンに赴任していたのだから、あのレンブラントの「夜警」ともども、美術館に行けば必ず、フェルメールの部屋に行っていたので、目に焼きつくほど、この4点は見ている。
ヨーロッパ在住中、日本からのお客さんをアムステルダム国立博物館に伴った時には、必ず、このフェルメールの部屋に案内し、フェルメールへの熱い思いを語っていたのだが、お客さんの大半は、殆ど知らなかったし興味も示さなかった。
ところが、今回平日だと言うのに、東京都美術館は長蛇の列で、30分以上も並ばないと館内に入れないほどの超人気であった。
幸い、その後、欧米への出張や旅行の度毎に、現地の美術館を訪ね、フェルメールの作品を確認しながら歩き、幸い、今回、見ていなかったダブリンのナショナル美術館の「手紙を書く婦人と召使」と個人蔵の「ヴァージル前に座る若い女」を加えると、現在分かっているフェルメールの作品38点の内36点見たことになる。
残っているのは、イギリス王室コレクションの「音楽の稽古」とボストンのイサベラ・スチュアート・ガードナー美術館の「合奏」だけになったが、ボストンは次に行くとしても、英王室のフェルメールは何処にあるのであろうか。
ところで、フェルメールが何故それほど良いのか、フェルメールの全作品を追っかけた作家の有吉玉青さんが、朝日新聞の「感動は言葉にならず」と言う投稿記事で、「フェルメールの魅力は何なのかと、よく尋ねられるのだが、うまく答えられない。・・・魅力を説明することなんてとてもできないが、この説明できないことこそが魅力ではないか。とにかく見てください、感じてくださいというしかない。」と書いているが、全く同感で、私自身正直なところ、説明すれば、虚しいと言うか嘘になってしまうと言う気がしている。
今回、会場に、フェルメールの全部(?)の原寸大の複製画が写真パネルで展示されていたが、殆どの作品は小さくて、世界の美術館でも、あまり目立たないところにひっそりと展示されていることが多い。
今回来ている初期の宗教画などは大きい方だが、窓辺の女性を描いた作品などでは、今回、残念ながら来日をドタキャンされたウィーンの「絵画美術」などは大きな方で、殆ど小さな作品で、今回の「ヴァージルの前に座る女」は、A5サイズに達しないほど小さい。
風景画は、2点しか残っていないが、今回の小さな「小路」と比べれば、ハーグにある「デルフト風景」は、かなり大きく、非常に精密な美しい風景画で、今でも、殆ど同じ光景が展開されているのに驚く。
フェルメールと言えども、全てが名作と言うわけではないであろうが、私自身にも、かなり、好き嫌いがある。
今回の作品で、一番気に入ったのは、「ヴァージルの前に座る若い女」で、それに、見る機会の多かったメトロポリタンの「リュートを調弦する女(口絵写真 MET Mで撮影)」も、ヨーロッパの地図をバックに乙女の表情が物語を語っているようで好きである。
他に、私の好きなのは、アムステルダムの「牛乳を注ぐ女」、ハーグの「真珠の首飾りの少女」、METの「眠る女」、ワシントンの「手紙を書く女」、フリックの「士官と笑う娘」等々女性像が多いのだが、元々、残っているフェルメールの作品の大半が女性像を描いたものだから仕方がない。
フェルメールの作品は、画面の左側に窓がある窓辺にいる人物を描いた絵画が多くて、淡い自然光を受けて微妙な表情を示す人物や調度などが活写されている。
今でも、オランダには、当時の頃のような古い民家があって、歪なガラスをモザイク様に組み合わせた古風な窓が付いた部屋があり、開け放てば明るくなるが、かなり薄暗く、冬場などは、日が短い上に、殆ど陽が照らず毎日リア王の世界のような暗さだから、日本人の感覚から言えば、オランダの家での生活感覚や空気感は大分違う。
それに、ヨーロッパでは、室内照明は、日本よりかなり暗く、微妙な光の中で美意識を育んで来た伝統があり、そのあたりの空気感なり部屋の調度品等バックグラウンドの醸し出す雰囲気などのある程度の理解がないと、フェルメールの微妙な色彩描写や繊細な美意識は分かり辛いような気がする。