熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

わが庭・・・フェイジョア、アジサイ、ビョウヤナギ

2017年06月11日 | わが庭の歳時記
   フェイジョアやアジサイが咲くと、本格的な梅雨の季節となり、暑い夏がスタートする。
   フェイジョアは、ブラジルではポピュラーな花だと知ったのは、4年間の在住から帰って来てからで、実際には見たことがなかったのだが、懐かしくなって、庭植えした。
   30年以上、千葉の家の庭でエキゾチックな花を咲かせて楽しませてくれたが、同品種の苗木ばかりであったので、沢山結実したのは、後年になってからであった。
   立派な実はならなかったが、大きな実をスプーンですくって食べてみたら、ゼリー状の甘い味で、まずまずであった。
   この鎌倉の庭でも、一本フェイジョアが植わっていて、花が咲いて、結実もする。
   
   
   
   

   アジサイは、公園は勿論、大通りに面した表通りや、家々の庭先に、一面に咲き出して、一気にカラフルになった。
   明月院など、鎌倉のアジサイの名所は、芋の子を洗うような混雑ぶりであろうから、今年は、手短なところの路傍のアジサイのしっとりとした風情を楽しむことにしたいと思っている。
   
   
   
   
   
   
   
   

   わが庭には、2種類のビョウヤナギを植えていて、今、きれいに咲いている。
   すぐに、花が散るのだが、蕾や線香花火のような蕊など、なかなか、趣があって好ましい。
   小さな昆虫が来て、花粉に戯れている。
   
   
   
   
   
   
   

   あっちこっちに広がって華やかに咲いているのが、ムラサキカタバミ。
   すっくと茎の伸びたスマートな花で、小さな球根から群生するのだが、葉が、三つ葉のクローバーのようで面白い。
   勢いよく高く伸びて、タチアオイの様な雰囲気のハーブのマロウも、樹勢に勢いがあって、一気に庭に広がる。
   もう一つ、樹勢が強くて、白い十字花の雑草のようなのが、ドクダミ。
   名前が良くなくて、茎に触ると嫌なニオイがつくので避けていたが、毒矯めと言うことで、毒消しの薬草だと言うから面白い。
   
   
   
   
   

   花壇の縁に、垂れ下がるように植えたのが、名前は分からないのだが、マツバボタンの一種であろうか、赤い小さな花が愛らしい。
   面白いのは、キウイの新芽の先端。
   脇芽なので、切り落とすことになるのだが、萌芽力の強さは抜群である。
   
   
   

   ばらの季節なので、次から次へと咲き続けている。
   しかし、本格的に日当たりのよいオープンな庭で咲かせるのが本筋で、庭植えは良いのだが、鉢植えを、花木の下の木陰やトマトのプランターの脇などへ、移動しつつ栽培しているのは花付きがそれ程でもないのが、一寸、残念ではある。
   
   
   
   
   

   トマトのプランターの横に、キュウリを二株植えていて、花が咲き、結実し始めている。
   
   
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国立能楽堂・・・狂言「舟渡聟」・能「半蔀」

2017年06月10日 | 能・狂言
   今日の国立能楽堂の「普及公演」は、次の通り。
   解説・能楽あんない  「半蔀」のドラマトゥルギー
               ―夕顔巻からの反照― 河添 房江(東京学芸大学教授)  
   狂言 舟渡聟(ふなわたしむこ)  野村 又三郎(和泉流)
   能  半蔀(はしとみ)  今井 清隆(金剛流)

   狂言の「舟渡聟」は、2年前に、大蔵流と和泉流の両派の舞台が上演されて、その違いを知って、非常に興味深いと思った。
   大蔵流では、聟入りするために行く道中、聟が途中で川に差しかかり渡し舟に乗るのだが、無類の酒好きの船頭に、聟が舅への土産に持ってきた酒を所望されて断りきれず、自らも飲んで酒樽を空にしてしまう。舅の家に着くと、盃事にその酒が使われることになり、樽が空であることを太郎冠者に見破られて聟は面目を失うと言う話。
   今回の和泉流では、船頭(松田高義)と舅が同一人物という設定で、舟の上で聟(野村又三郎)に無理強いして酒を飲ませた船頭は、帰宅してそれが自分の聟であることが分かって大慌てする話。妻(奥津健太郎)に事情を話して面目ないので会えないと話すと、妻が、船頭自慢の大髭を剃って容貌を変えさせ、仕方なく、顔を袖に隠して盃事に臨むが、結局、見破られて恥をかく。どうせ舅のために持ってきた酒であるからと言って、別れを惜しみ、陽気に謡いながら扇を開いて舞って、ガッシ止め。
   船頭夫婦のほのぼのとした味や、舅と聟の人間的な触れ合いが、笑い+alphaとなっていて、面白い。

   解説の河添さんの話は、源氏物語の夕顔の巻から、能「半蔀」の作劇術の話。
   源氏物語では、和歌を通して源氏にアタックしたのは夕顔だが、この能「半蔀」では、源氏の和歌を詞章に取り入れて源氏主体に変えていること、そして、この能では、夕顔の供養成仏は主題どおりではなく夕顔は成仏していないようだ。と言った話が興味深かった。
   夕顔の女(霊)は、成仏よりも、機会を見ては霊として登場して、源氏との至高の愛の思い出を舞いながら反芻することに、むしろ、幸せを感じていたと言うことであろうか。

   この能は、源氏物語の夕顔にイメージを得てはいるが、六条御息所らしき怨霊に祟られて儚くなった話や頭中将の正妻に脅迫されて隠れ住んだ話など暗い話題は一切触れずに、源氏との愛の物語のみで構成されていて、次のようなストーリー。
   京都、北山の雲林院に住む僧・安居の僧(ワキ/大日方博史が、安居の修行で、立花供養を行っていると、夕暮れ時に女がひとり現れ、一本の白い花を供える。僧が、美しく可憐なその花の名は聞くと、女は夕顔の花であると告げ、僧が女の名を尋ねると、その女は、名乗らずに五条あたりに住んでいる、と言い残して、花の中に消えてゆく。
所の者(アイ/野口隆行)から、光源氏と夕顔の君の恋物語を聞いた僧は、五条のあたりを訪ねると、、昔のままの佇まいで半蔀に夕顔が咲く寂しげな家があり、僧が菩提を弔うと、半蔀を上げて夕顔の霊が現れる。夕顔の霊は、光源氏との恋の思い出を語り、優雅に舞を舞って、僧に弔いを頼んで、夜が明けきらないうちに半蔀の中へ消えてゆく。

   後シテ夕顔の女の序ノ舞の優雅さ、美しさ。

   六条御息や正妻葵との愛に息苦しさを感じていた源氏にとっては、紫の上に会うまでは、夕顔は最高のベターハーフであったのであろう。
   老いの迫った源氏が、年甲斐もなく、夕顔の娘玉鬘にモーションをかけながら、黒髭にさらわれて、涙を飲んだ話などを克明に書くなど、紫式部も意地が悪いのだが、儚く逝った夕顔にはファンが多いと聞く。
   ところで、夕顔の花は、朝顔に似て、それなりに風情があるのだが、瓢箪や瓜に似た厳つい大きな干瓢の実がなるところが、ムードぶっ壊しと言えば、そう言えないこともないのが面白い。
   
   
   
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エマニュエル・トッド 著「問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論」

2017年06月08日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、トッドの最近日本での講演を纏めた本であるが、冒頭の2編は、英国の「EU離脱 Brexit」についてのインタビュー記事で、興味深い理論を展開しているので、これについて考えてみたい。

   まず、トッドは、Brexitは、良いことだと歓迎している。
   そして、これは、世界規模で起こっている現象で、特に、欧米日など最先進国で著しい、分散・不一致という現象である。と言う。
   グローバリゼーションによるストレスと苦しみの結果、それぞれの伝統の内部に、それぞれの伝統の内に、それぞれの人類学的基底の内に、グローバリゼーションに対処して自らを再建する力を見だしつつある。と言うのである。
   その最たるものは、ドイツで、東西ドイツの統合以降、ヨーロッパ大陸で圧倒的な優位を手に入れ、ロシアは、過酷で困難な時期を耐え忍んで、プーチン以降、ロシアらしい国民的理想への回帰を現実化した。

   しかし、もっと重要なのは、英国のネイション回帰である。
   英国は、最初に新自由主義の論理を推進し、グローバリゼーションを米国と先導したその当事国であり、17世紀以降、世界の経済史、政治史を推進してきたのはアングロ・アメリカンであり、この英米が、ナショナルな理想へ向かって大きく揺れ戻るのは、ドイツの擡頭、ロシアの安定化より、はるかに重要だというのである。

   ブローデル的な長期持続の観点からイギリスを捉えることが大切で、産業革命を起こしたのも英国であれば、リベラルでデモクラティックな近代を発明し議会制の君主政体を確立したのも英国であり、英国は、まさに、近代のリーダーであった。
   今回の歴史的なBrexitの国民投票で問われたEUからの離脱の動機は、出口調査によると、英国議会の主権回復であったという。
   イギリス人にとって、政治哲学上の絶対原則は、議会の主権にあるのだが、Brexitを選択するまでは、イギリス議会は主権を失っていたのである。
   フランスも、このイギリスの目覚めに、続かなければならないと、トッドは言う。

   問題は、英国が抜けた後は、EUは、ベルリンの支配下となり、米国もドイツをコントロールする力を決定的に失う。
   イギリスのEU離脱は、西側システムと言う概念の終焉を意味し、今でも、ドイツ的ヨーロッパ(ドイツ語のEUROPAオイロッパ)だが、益々ドイツによるヨーロッパ大陸の経済的掌握と言う暴力が強化され、「ヨーロッパ」は最早存在しなくなる。と言う。

   要するに、Brexitは、英国が、ドイツに支配されている欧州から離脱して、イギリス人と言うナショナル・アイデンティティに目覚めて、自らが生み出したグローバリゼーションに最も苦しめられた結果、イギリス人自身が、率先して、グローバリゼーションの終焉の始まりを主導したと言うことであろうか。
   グローバリゼーションについては、人類の歴史にとって良いことなのか悪いことなのか、主に、経済的な視点から激論が交わされており、また、トッドの言うように終焉を迎えつつあるのかどうかは、別にして、トッドは、各国に共通するグローバリゼーションによる疲労を、「グローバリゼーション・ファティーグ」と名付けたいと言っているのが面白い。

   トーマス・フリードマンが、「フラット化する世界」で、ICT革命とグローバリゼーションの進展によって、世界はフラット化して、人類の世界は、グローバルに広がって平準化して行く、まさに、地球は一つになると言うイメージを、人々に植え付けたのは、ほんの10年少し前のこと。
   しかし、イギリスのBrexitもそうだが、アメリカのトランプ革命も、ヨーロッパで吹き荒れている極右政党の擡頭などによる右傾化旋風なども、グローバリゼーションへ背を向けたネイション回帰。
   最も、グローバリゼーションは、大航海時代に始まって、形を変えながら、浮き沈みの歴史を繰り返しているので、これもあれも一時的な現象かもしれないが、資本主義が、異常な経済的格差拡大によって暗礁に乗り上げてしまった以上、時流に翻弄されるのも、仕方がないと言うことであろうか。

   興味深いのは、この稿で、トッドは、イギリスとフランスの関係を語って、所詮、フランスはドイツの従属国に過ぎなくなるのであるから、本来的に独仏の連携は無理であって、現実を動かすパワーと文化のロジックに適っている英仏の良好な関係構築こそが、フランスにとって国益となる筈を、フランスの為政者はこれを理解しなかったと述べていることである。
   フランスにとって、イギリスは、ヨーロッパ諸国の内、全面的に信頼できる唯一の国であって、それ故に、軍事安全保障においても効果的に協力し合える唯一の国であり、これは、技術的上のことではなく、極めて強固な信頼関係を極めた事象だと言うのである。
   イギリスは、ノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest of England)によって、ゲルマンの影響下から距離を置いて、ラテン系のフランスと政治的にも文化的にも強く関係するようになったのであり、英語そのものが、フランス語の影響を強く受けていると言う。
   パリーベルリン軸よりも、パリーロンドン軸の構築強化の必要性を、英仏の経済的繋がりの深さや、欧州より大きな英語圏をバックにした英国のパワーを語るなどして強調しているのが興味深い。

   いずれにしろ、トッドは、Brexitによって、英国の将来が暗くなるとは考えていないし、むしろ、歓迎している。
   私も、5年間ロンドンに住んで、英国の永住権を持った英国びいきとして、英国は、独自の道を歩みながら、ナショナル回帰と大英経済共同圏の推進するなど、活路を見出して行くと思っている。

   さて、イギリスの総選挙だが、圧勝を伝えられていたメイ保守党が、テロなど治安対策の問題などで、労働党の追い上げを受けて、過半数確保も危うくなったと言う。
   私は、強力な保守党の安定政権よりも、両党が拮抗して、カウンターベイリング・パワーが働いた方が、イギリス民主主義政治には相応しいと思っている。
   たとえ、Brixsit交渉がうまく行かなくても、どうせ、トッドの言うように、ドイツ一強のEUそのものの将来が危ういのなら、イギリス独自の道を模索すればよいと思っている。
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今日は国立能楽堂から歌舞伎座へ

2017年06月07日 | 今日の日記
   今日は、朝、鎌倉を出て、夜遅く帰ってきた。
   国立能楽堂と歌舞伎座を、はしごすると、一日仕事になるのだが、最近では、歳の所為もあり、パフォーマンスを考えて、予定を合わせて、出ていくことが多くなった。

   能楽堂は、定例公演で、
   京都の茂山家の大蔵流狂言「蝸牛」と観世流能「雷電」であった。
   1時からの能楽堂の公演が終わってから、木挽町の歌舞伎座の4時半からの歌舞伎座へ行くのは、普通では、難しいのだが、この日の能「雷電」は、短い60分の演目なので、十分に間に合った。

   狂言「蝸牛」は、主(茂山茂)に、祖父の長寿の薬に、蝸牛(かたつむり)を藪の中から取って来いと言われた太郎冠者(茂山童司)が、かたつむりを知らないので、頭が黒くて腰に貝を付けた、時々角を出すのだと教えられて、誤って、藪に寝ていた山伏(網谷正美)を連れて帰ってきて、主は怒るが、つられて3人揃って「でんでんむしむし」と踊る、他愛もない話。
   同じように、太郎冠者が、知らないものを都に買いに行って、詐欺師に騙される「末広がり」があるのだが、ほかにも、太郎冠者が、知ったかぶりをして失敗する狂言など、狂言きってのパーフォーマー太郎冠者の何とも言えないほろ苦くて切ないストーリーが面白い。

   能「雷電」は、菅原道真(菅丞相)が怨霊・雷神(シテ/関根知孝)として登場し、法性坊僧正(ワキ/野口能弘)の千手陀羅尼の功徳と帝からの天満大自在天神の官位授与で鎮まるという話。
   厳つい能面・顰(しかみ)を付けたおどろおどろしい雷神と僧正との対決シーンなど、結構、視覚的なシーンもあり、歌舞伎や文楽で、神聖を帯びた菅丞相の舞台ばかりを見ていて、そのイメージが強いので、興味深く鑑賞した。

   歌舞伎は、4時半からの「夜の部」だったが、演目は、
   鎌倉三代記 絹川村閑居の場
   曽我綉俠御所染 御所五郎蔵
   一本刀土俵入
   の、夫々1時間半近くに及ぶ大作の舞台で、非常に充実した公演であった。
   夫々、幸四郎、雀右衛門、仁左衛門、左團次、猿之助、歌六などのベテランが好演し、松也や米吉が、先輩に伍して素晴らしい舞台を務めるなど、楽しませてくれた。

   興味深いのは、外人客、アメリカ人のグループだと思うが、かなり幕見席に入って鑑賞していた。
   
   

   インターミッションの時に、地下に降りて、木挽町広場に行って小休止するのだが、結構、日本の伝統工芸など懐かしい雰囲気が見られて興味深い。
   扇子、彫金、簪、家紋・・・
   
   
   
   
   
   
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根井雅弘著「ガルブレイス」

2017年06月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先にレビューしたライシュの「最後の資本主義」で、暗礁に乗り上げている資本主義の救済には「拮抗力」の再構築が必要だと、蘇ってきたガルブレイスを、久しぶりに反芻しようと思って、この本を手にした。
   伊東光晴の「ガルブレイス」とどちらから読み始めようかと思ったのだが、まず、古い方からと言うことにした。

   私事になるが、最初に読ん経済学の洋書が、ガルブレイスの「American Capitalism: The Concept of Countervailing Power 1952」であって、この拮抗力というコンセプトに、いたく感激して、その後、「大恐慌――その教えるもの」「ゆたかな社会」「新しい産業国家」などを読んで、一気に、ガルブレイスに傾倒した。
   フィラデルフィアのウォートン・スクールで勉強していた時に、ガルブレイスの「Economics and the Public Purpose, 1973」が出版されたので、恩師岸本誠二郎教授に、この本と、ダニエル・ベルの「The Coming of Post-Industrial Society: A Venture in Social Forecasting, 1973」を送ったら、早速、丁重なご返事を頂き、ガルブレイスの経済学について、高く評価した見解を開陳されていた。
   それを知って、ゼミの時に、ガルブレイスについて、ご教示頂ければ良かったと残念に思ったのを覚えている。

   余談だが、私が、経済学部で学び、卒業後も勉強し続けたのは、このガルブレイスとシュンペーターの経済学で、勿論、時流であったから、ケインズも勉強した。
   恩師岸本誠二郎教授は、「理論経済学界の長老で、古典派経済学の方法論を使い新しい理論も批判的に取り入れ、理論経済学の主要テーマの「分配と価格」に関する基本原理を作り上げた。著書に「分配の理論」「価格の理論」「労働価値論の研究」など。」と言うことで、ゼミの教授であり、経済原論の講義を受けたが、偉大な先生であった。
   しかし、当時の京大経済学部は、マル経の勢力が強くて、近経の講座は非常に貧弱で、ケインズやサミュエルソンなどの主流派経済学の片鱗は、青山秀夫教授や島津助教授など、極一部から学んだ程度で、ケインズ経済学の本格的な講座など皆無であったし、勿論、シュンペーターやガルブレイスなど聴くことさえなく、私の近経の知識は、殆ど独学と、ウォートン・スクールでのMBAでの勉強と、その後、欧米を渡り歩いてのビジネスマン生活で、趣味と実益を兼ねた長い長い自学習であった。

   恐らく、米欧のトップビジネス・スクールで、MBAコースを修了された人たちが感じている実感だと思うが、私の場合、ペンシルバニア大学のウォートン・スクールで勉強した多くの学科の内、マクロとミクロの2科目の経済学だけで、ゆうに、京大4年間に学んだ経済学総量および質をはるかに超えていたと思う。
   また、京大では、経営学については、1~2科目しかなかったと思うが、ウォートンでは、ほんの数日で終わる授業内容と量で、あのサミュエルソンの「エコノミクス」でさえも、確か、マクロ・エコノミクスの最初で、リーディング・アサインメントが加わるので、ほんの4~5回の授業で終わった。
   推して知るべしで、まして、十二分にリベラル・アーツを学んだ米欧のトップエリートに対して、日本の学卒が太刀打ちできないのは、火を見るより明らかである。

   余談が、長くなったが、著者の根井教授は、非常に、懇切丁寧に、ガルブレイスの自伝を交えながら、順を追って著書を紐解きながら、学説やその進展、学会での動向など、解説しながら、ガルブレイス経済学を、論じていて、非常に興味深く読ませて貰った。
   このブログでは、「悪意なき欺瞞」について、少しコメントしたくらいだが、「不確実性の時代 he Age of Uncertainty (PBS and BBC 13 part television series), 1977」以降は、大著が少なくて、最晩年の日経の「私の履歴書」ほか数冊を読むくらいであったので、私のガルブレイス経済学の勉強は、1970年代くらいまでが最盛期であった。
   この項では、ガルブレイスの経済学には、触れずに、感想だけを書くことにする。

   根井教授は、ガルブレイスを、当時の正統派経済学、すなわち、新古典派経済学とケインズ経済学の総合を謳ったサミュエルソンの「新古典派総合」に反旗を翻す異端派経済学者として描いている。
   主流派経済学者ではなかったが、大恐慌の解釈等を含めて、主流派経済学の理論や経済通念が如何に間違っており欺瞞に満ちているかを身を持って糾弾し続けた。最晩年の著作「悪意なき欺瞞」は、現代の社会を統べている理論や通念、特に保守派経済学のそれが如何に現実からかけ離れていて欺瞞に満ちているかを語って、その論旨は実に爽やかで爽快でさえある。
   最高の経営学者であったピーター・ドラッカーが、スタンフォードなどの象牙の塔では殆ど著作が引用されなかったと言われているのだが、はるかに正確に真実を語り続けながら正当に評価されないのは、主流派経済学者ではなかった故に、ノーベル賞の候補にさえならなかったガルブレイスに相通じるものがあって、悲しい。

   また、根井教授は、ガルブレイスは、一連の著作活動を通じて、「拮抗力」「依存効果」「社会的アンバランス」「テクノストラクチュア」などの新概念でもって現代資本主義の本質に迫ろうとしたが、その際に依拠したのは、数学的能力ではなく、多年にわたる現実観察によって磨き上げられた自らの「直感」であった。かって、シュンペーターが、自らの優れた「直観」に基づいて起業家の「新結合(イノベーション)」の遂行という資本主義の本質を把握したように、かれもまた「直観」の経済学者であった。と述べている。
   偶然とは言え、私が、勉強し続けてきたガルブレイスとシュンペーターが、スケールの大きな「直観」の経済学者であり、それ故に、偉大な学説を築き上げてきた、ということが非常に嬉しい。
   あのドラッカーが、いわば、同郷の偉大な先輩シュンペーターに傾倒して、そのイノベーション論を経営学の根幹に据えて継承したことも、偉大なら、この3人が残した業績の凄さに、感動を覚えている。

   サミュエルソンが、ガルブレイスの追悼記念論文集に、「芸術家および科学者としてのガルブレイス」と題する文章を寄稿したということだが、ロイ・ハロッドも、経済学が自然科学の方法を模倣する方向に流れすぎたことを痛烈に非難して、経済学者はもっと人間の感情を理解する努力を積むべきで、何よりも人間感情の理解者である文豪から学ぶべきだと言ったと言うが、芸術家であり感性豊かな人間であったが故に、ガルブレイスは、孤高ではあったが、経済学に金字塔を打ち立てることが出来たのであろう。
   先日レビューしたセドラチェクが、「善と悪の経済学」で、本来、経済学は、人間の幸せを追求する学問であり、善が報われるのかを追求し、経済学と倫理が表裏一体である筈なのに、現在の主流派経済学が、これを忘れてしまっている、と糾弾していたのだが、ガルブレイス経済学の精神と相通じるような気がして、経済学の、政治経済学としての回帰の必要性を感じている。
   
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わが庭・・・トマトの脇芽苗を植える

2017年06月05日 | わが庭の歳時記
   四月に、ミニトマトと中玉トマトをプランター植えしたのだが、元気な脇芽を、プランター苗の脇に挿芽していた。
   トマトは、非常に萌芽力が強くて、必ず、根がついて小さな苗木になる。
   その苗木を、何本か、同じように、プランターに植えたのである。
    
   勿論、市販苗とは違って、それほど、立派な苗ではないが、親の品種に間違いがないクローンなので、それなりに生育して結実するであろう。
   一寸、タイミングとしては遅いが、うまく順調に生育すれば、四月に植えたトマトが、だめになったころに、結実して収穫ができるので、成功すれば上出来である。
   毎年、暑い8月をどう越せるかが、問題だが、9月には、と期待している。
   4月苗は、結実して実が肥大し始めたので、梅雨入り頃には、色づき始めるかもしれない。
   

   さて、ばらのルイの涙が咲き始めた。
   アジサイも、ボツボツ最盛期で、鎌倉が一面にアジサイで輝く。
   明月院や長谷寺など、アジサイの名所は、大混雑だが、案外、路傍のアジサイの方が情緒があってよい。
   ビョウヤナギも咲きだすと、もう、すぐに、暑くなる。
   
   
   
   
   
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エマニュエル・トッド &佐藤優「トランプは世界をどう変えるか? 「デモクラシー」の逆襲」

2017年06月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   神保町の古書店の道端のワゴンに乗っていたので、新古書を買って読みだしたが、アマゾンの古書の方が安いので、その程度の評価なのであろうが、中々内容豊かで興味深く、結構面白かった。 
   大統領選直後の、トッドのインタビュー記事と、佐藤優の感想文を併記しただけの新書で、帯に大書されているような「歴史的大転換の深層を読む!」などと言った、それ程、大仰な本でもないが、大新聞などのメディアの記事よりは、パンチが利いていて興味深い。

   まず、トッドだが、冒頭で、
   アメリカ人の生活水準が、この15年で下がり、白人の一部で死亡率が上がった。米国の有権者の4分の3を占める白人たちが、自由貿易と移民が、世界中の働いている人間を競争に放り込んで、不平等や停滞をもたらしたと考えて、その自由貿易と移民の自由を問題にした候補者を選らんだ。これは当然のことで、米国の有権者は全体として理にかなった振る舞いをして、これが、米国が民主主義国だと言うことだ。と述べている。
   更に、みんなが結果に驚いているが、上層階級にも、メディアにも、大学生たちにも、何故、現実が見えなかったのか、
   選挙戦の終わり頃、米国の最良の大学の経済学者たち370人が声明文を出して、トランプに反対して、自由貿易には反対しなかった内容だったが、(愚の骨頂で)、深刻な問題は、社会の上層部の間違った意識である。と言う。
   エスタブリッシュメントと、民意との乖離が、あまりにも深刻だったのだが、アメリカの世論として、はっきりと表出せず、理解さえされていなかったと言うことであろうか。

   トランプは、「米国はうまくいっていない」「米国はもはや世界から尊敬されていない」と言い続けていたが、実際にそのとおりで、幻想の中にいたクリントンとは違って、現実に戻った方が諸問題の対処は容易であることを示した。
   人口学者であるトッドが、興味深い指摘をしている。
   核家族が基本のアングロサクソンの国米英では、不平等の拡大は1980年代から続いていたのだが、不平等に忍耐強く、エリートたちは、人々は非論理的で従順で、だから、統治できると考えていたのだが、これまでは耐えてきた国民が、一気にノーを突き付けた。この15年間で、不平等は拡大し続け、生活水準は下がり、余命は短くなり、アングロサクソンでさえ耐えられなくなった。人類学的な決定論から逃れて、最終的に、経済や階級や利益の対立の方が、社会を動かす上で優位に立った。と言うのである。

   もう一つ、トッドの指摘で興味深いと思ったのは、
   トランプが支持を広げたのは、長い歴史を持つ製造業の地元で疲弊したラストベルトの諸州で、トランプは、いわば、虐待されたプロレタリアに選ばれたと言うことで、マルクスが生きていたら結果に満足したであろう。と言っていることである。
   最も豊かな先進国であるアメリカで、こう言う形で、ルンペンプロレタリア革命の片鱗を見せるとは、・・・何故か、昔見たロンドンのイタリアレストラン「クオバディス」の3階にある暗いマルクスの住居を思い出した。ここから、大英博物館に通って勉強していたのだが、繁華街を通り抜けると、それ程遠くはないので、歩いてみた。

   更に、トッドは、アメリカの教育の不平等についても論じ、
   最後に、大衆迎合だ、人々の不安や意思の表明をポピュリズムだと言うのは止めよう、トランプを選んだのは民主主義であって、これこそ、民主主義なんだと説く。

   トッドは、自由貿易を世界に押し付けてきた国で、自由貿易に異議を唱える人物が政権に就いた、これは思想的に極めて大きいことだ言うことが分かってくる。と指摘する。
   TPPについて、スティグリッツは、弱肉強食獣を野放しにするだけだと反対を唱えていた。保護主義貿易には、反対するとしても、野放しの自由貿易が良いのか悪いのか、トランプ貿易論は極論だとしても、考えてみる必要はあるであろう。

   もう一つ、自由の意味について、ライシュは、
   富者や強者が、自由を隠れ蓑にして資本主義のルールを自分たちの利益のために一気にスキューして格差社会の拡大を策し続けてきた、と筆法鋭く糾弾していた。
   自由は、民主主義の根幹だが、もう一度考え直す必要があるのであろう。

   さて、この本に、資料として、「トランプ氏 共和党候補指名受諾演説」が掲載されていた。
   先入観を排して読むと、非常にまともな演説で、一寸、意外であった。
   私など、どうしても、NYTやワシントンポストと言ったトップメディの情報などに影響されているためもあって、トランプに少なからず違和感を感じていたので、トッドの指摘が新鮮であった。

   さて、過半を占める佐藤優の”「トランプ現象」の世界的影響、そして日本は”と言う論稿は、視点が違っていて、面白かった。
   特に、トランプ大統領以後のアメリカを見極めるための、三つのポイントの指摘。

   ⓵1941年12月7日より前のアメリカ、非介入主義への回帰
    アメリカ・ファーストと言う内向き視点のモンロードクトリンの復活・回帰であり、パクス・アメリカーナを維持すべく世界の警察を任じていたアメリカが、表舞台から退場するとどうなるのか、世界秩序が根底から変わってしまう。
   ⓶FBIの政治化による自由と抑圧のせめぎあい
    クリントンの私用メール問題調査に捜査妨害の圧力を感じたFBIが、クリントンに最もダメージを与えるタイミング、投票日前日に捜査終結を宣言して、あたかも指揮権が発動されたかのように国民に思わせた。トランプを大統領に当選させた最大の立役者は、FBIだと言う指摘を、小沢代表の西松建設事件を東京地検の捜査と絡ませて説明している。
   このFBIの立役者コミー長官を、感謝しながら、ロシアゲートで、首にしたトランプ、どうなっているのか、
   ⓷国内の敵探しが始まる危険な兆候
   赤狩りで全米に吹き荒れたマッカーシズム、
   マッカーシズムを通してトランプを見ると、「歴史は繰り返す」と言う反復現象が浮かび上がってくるのだと言う。
   真実なら、民主主義の根幹に関わる脅威となる。

とにかく、日経やインターネットの記事ばかり見ていては分からない話題満載の小冊子だが、面白かった。
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ロボットが取って代わるとき・・・ロバート・ライシュ

2017年06月03日 | 政治・経済・社会
   先にレビューしたライシュの「最後の資本主義」に、「ロボットが取って代わるとき」と言う興味深い1章があった。
   近年、デジタル技術が巨大なネットワークの効果と結びついて、多くの労働者を必要としなくなって、企業の顧客数に対する従業員の割合が極めて低くなった。と言うのである。
   例えば、2012年に人気の写真共有サイトのインタグラムが約10億ドルでフェイスブックに売却されたとき、ユーザー数は3000万人だったのに対して、従業員は13人だったが、コダックの従業員は、最盛期には14万5000人であった。

   トランプなどが問題にしているのは、ラストベルトのレッドオーシャン企業の従業員や労働者の雇用喪失とその確保なのだが、今、人類が直面しているのは、そのような単なる労働者を代替する技術ではなく、知力を代替する技術なのである。好感度センサー、音声認識、人工知能、ビッグデータ、テキストマイニング、パターン認識アルゴリズム等が合わさって、人間の活動を素早く学習して、更に相互学習する機能を備えたスマート・ロボットが生み出されつつある。また、生命科学領域で革命が進行し、一人ひとりの患者特有の症状や遺伝子に応じて薬剤を作ることも可能となっている。と言う。

   このような傾向が続けば、シンボリック・アナリスティック・サービスなど、高度な知識と技術を必要とするクリエイティブなプロフェショナルが、代替されることになる。
   インターネット・ソフトなどの進化発展で、相当以前から、弁護士や会計士の仕事を蚕食して代替しつつあったことなどは周知の事実で、チェスや将棋や囲碁までもが、チャンピオンは、ロボットだと言うから恐ろしい。
   ライシュは、米国で最も専門家が集中している医療と教育分野が特に大きな影響を受けると言っているが、
   先日、何かで読んだのだが、人間がロボットに恋をして、結婚したいと思うのも、時間の問題だと言うから、途轍もないロボット時代が到来する。と言うことである。

   さて、ライシュが問題にするのは、「最後の資本主義」の本の中であるから、富と収入の配分の問題である。
   より多くのことがより少ない人の手でなされるにつれて、残りの人々は失業するか低賃金の仕事に就くため、生産されたものを買うためのカネは減って行く。20世紀に支配的であった多数による大量生産と多数による大量消費と言うモデルは最早適用できなくなり、将来のモデルは、少数による無制限の生産と、それを買える人だけの消費となる形態となる。
   こうなると、大ヒットするアイデアを創造した幸運なクリエーターは更に大きな富を手にして、比類ない政治的権力を獲得する。しかし、大多数の人々は金銭的利益を分配されず、政治的権力も失って行く。新しい目もくらむような財やサービスが生まれ出でても、それらが人々の仕事にとって代わり、賃金を引き下げるので、購入することさえ出来なくなる。

   こう言った事態が進行すれば、現在進行中の経済格差拡大が行き過ぎて、一握りの富者と貧しい大衆ばかりの世界になってしまって、有効需要が激減して経済が縮小均衡状態となって、資本主義と言うよりも、経済が壊滅してしまう。
   中流階級の退潮と崩壊事態が、経済にとっては、非常に憂うべき現象だが、”"We Are The 99%!" Occupy Wall Street "が極に達して、有効需要が激減して経済を壊滅状態に追い込めば、結局、1%の富者も、富と権力の崩壊に直面して、自ら墓穴を掘ることとなる。
   現に、今日の先進国の経済不況、と言うよりも、セドラチェクが説くごとく成長が止まってしまった経済の原因の大半は、有効重要の不足だと言われている。

   ところで、ライシュの記述で、気になるのは、アメリカでは、学歴が高くなればなるほど給与水準が上がる経済であったのだが、2000年以降、高い教育を受けた労働者の供給が増えているにも拘らず、その需要はピークに達して下降気味となり、大卒者の給与が極僅かしか上がらないか、全く増えなくなった。と言うことである。
   言い換えれば、前述したロボットによる、デジタル革命による知的クリエイティブ業務の代替傾向が、どんどん進行していて、高度な知識労働者の職業さえ減少して、これらの恵まれたプロフェッショナルさえ、"We Are The 99%!" に追い込みつつあると言うことであろう。

   経済成長のカナメとも言うべき、科学技術の進歩、技術革新、イノベーションが、知識情報社会を窮地に追い込みつつあると言うこのパラドクスを、どう考えたらよいのか。
   富者が政治経済社会ルールを捻じ曲げて富の集積に現を抜かすと言うのが前門の狼なら、科学技術の進歩は、後門の虎と言うべきであろうか。
   
(追記)今朝(6月4日)の日経トップに、「脳の働き全て再現可能」と言う記事が掲載されていて、「アルファ碁」の三番勝負での全勝について、書かれている。
   人間の脳をまねた情報処理手法「深層学習」に、「強化学習」と言うもう一つの情報処理手法を組み合わせることによって、AIの自己学習能力を飛躍的に向上させた、しかし、これは、一段目を上ったに過ぎない。と言うのである。
   東大の合格者は、ロボットばかりと言う世界も、そう、遠くはなさそうだし、AIやロボットが、クリエイティブな知的労働者を駆逐するなどと言ったライシュの心配などは序の口で、
   今幼児たちにも人気の高いFS動画の宇宙戦争が現実となって、人間自身が、ロボットに征服されて、この宇宙船地球号から人類が消滅すると言う悪夢が現出しないと言えるであろうか。
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ロバート・ライシュ著「最後の資本主義」

2017年06月01日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   Robert B. Reichのこの本「資本主義の救済 富める少数者のためではなく 多くの人のために Saving Capitalism: For the Many, Not the Few 」は、従来のライシュ節を踏襲しているので、新鮮味には乏しいが、年を追うごとに、富と所得が記録的な勢いで富裕層に集中して行き、もう、富の偏在が頂点に達してしまって、このままでは、資本主義そのものが行き詰まってしまうと言う危機意識が極に達した本である。

   ライシュの本は、これまで、大体読んでいて、このブログでは、「暴走する資本主義」と「余震(アフターショック) そして中間層がいなくなる」については、レビューしている。
   どの本でも、ライシュは、リベラルの視点から、舌鋒鋭く、現代資本主義の病巣を抉り出し、糾弾しているのだが、珍しく、この本では、切羽詰まって(?)、どうすれば、この資本主義を救済して、本来の健全な資本主義に立ち戻せるのか、その処方について提言している。
   その理論とは、偉大な経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスが、1952年に著わした「American Capitalism: The Concept of Countervailing Power」で展開した「拮抗力 countervailing power」を、国民を糾合して再構築して、富者や強者に益々富が集中して行く現代資本主義を修正せよと言うことである。
   大多数のために機能する民主主義と経済を取り戻すための唯一の方法は、大多数が再び政治に対して積極的になり、新たに拮抗力を打ち立てることだ。巨額な資金に支えられた勢力は、彼らが最も得意とする金儲けを続けて行くであろうが、それ以外の我々は、自らが最も得意とする、自分たちの声と活力と投票権を活かして、経済と政治に対する支配権を奪い返すことである。と、ライシュは、激しく激を飛ばしている。

      
   奇しくも、私が、最初に買った経済学の原書が、このガルブレイスの「American Capitalism」で、この本で論述されている「拮抗力 countervailing power」の考え方にいたく感激して、その後、「豊かな社会The Affluent Society (1958)」で展開された、もう一つのガルブレイスの重要な理論・官と民との「ソーシャル・バランス」論とともに、一気に、ガルブレイス経済学に傾倒して、その著作は殆ど読んで勉強を続けてきた。

   ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説によると、
   「拮抗力 countervailing power」とは、
   経済社会のなかに存在する経済権力に対抗し,それを相殺する権力。 J. K.ガルブレイスが名づけたもので,彼は『アメリカの資本主義』 (1952) のなかで現代資本主義経済はこのような拮抗力によって平衡が保たれているという理論を展開した。今日の社会は消費者主権が保証されず,現代のビッグ・ビジネスの多くは独占または寡占市場のなかで巨大な力をもっている。このような企業に対して,社会的厚生の見地からその力を牽制する組織をつくり上げることで抑制力とし,そこに平衡的な関係を形成してフェアな競争を実現させようとする。たとえば労働条件をめぐる対立において大企業に対する労働組合,消費者運動を通じて行う製品の不買活動などによって大企業の社会的責任の遂行を迫るという形で拮抗力が働くとする。

   ガルブレイスは、
   この新たに生まれた拮抗力と言う影響力の中枢が、経済成長から得られた利益を広く拡散させる手段となると考えた。経済には民間の市場支配力が存在するため、拮抗力の拡大によって米国経済が自立的に自己調整する能力が強化され、大企業とウォール街に集中した権力との均衡を図る重石として作用し、経済成長が齎した利益のかなりの部分を、米国で大多数を占める中間層や労働者が受け取ることができ、それによって政府に求められる全面的な統制や政策立案の規模が少なくて済むようになった。事実、拮抗力をこの20年間支えたことは、平和時の連邦政府が果たした恐らく最大の役割となった。と述べている。

    事実、第二次世界大戦後30年に及ぶ高度経済成長期には、経済とは、将来への希望を生み出すものであり、きつい勤労は報われ、教育は上昇志向で、より多くのより良い仕事を生み出し、殆どの人々の生活水準が上がり続け、米国では、他には見られないような巨大な中間層が形成されて、米国経済の規模が倍増すると同時に、平均労働者の所得も倍増した。
   企業経営者たちも、自らの役割を、投資家、従業員、消費者、一般国民、夫々の要求をうまく均衡させることだと考えて、大企業は実質的には、企業の業績に利害をもつすべての人に所有されたステイクホールダー資本主義であった。
   アメリカにも、そのような民主主義と資本主義が息づいた素晴らしい時があったのである。
   私が、フィラデルフィアで学んでいた1970年代は、ウォーターゲイト事件の最中ではあったのだが、正に、アメリカは憧れの国であり、そのような幸せの残照の時であったのかも知れないと思う。
   しかし、その同じ学び舎で、少し前に、トランプが学んでいたとは、驚天動地。

    ところが、1980年代から何かが決定的に変わった。
   その一つは、草の根の会員組織であった米国在郷軍人会や労働組合、小規模小売店、農協、地方銀行などと言った拮抗勢力の中枢が経済力とパワーが衰退し始めて、米国の多元主義に力と意味を与えていた各種団体の巨大なモザイクがばらばらに崩れ去り、21世紀の最初の10年までに殆ど姿を消し集団としての発言力を消滅させた。
   その後は、一気に、富裕層が、カネと権力を駆使して、アメリカの民主主義と資本主義のルールを捻じ曲げて、富の集中に邁進し、格差社会を極致に追い込む。
   

   私は、「暴走する資本主義」のブックレビューの冒頭で、
   ライシュ教授は、今日の資本主義をSupercapitalism超資本主義と捉えて、資本主義の暴走が、社会的正義を犠牲にして国民生活ををどんどん窮地に追い込んでおり、この暴走を止めるためには、法律や制度で方向付けを行って規制する必要があると説いている。
   多少ニュアンスが違うが、何十年も前に、ガルブレイスが、ソーシャル・バランスの欠如、すなわち、民間企業分野の成長発展に比べて、国民の厚生や社会福祉や正義など公的部門の著しい立ち遅れによって社会的な価値のバランスが欠如していると説いて当時の社会に警告を発したが、丁度、その現在版の再来のようで面白い。
   と書いたのだが、ソーシャル・バランスと拮抗力とはガルブレイス経済学の表裏一体の理論であって、ここで、ガルブレイスを想起したのは、偶然とは言え、何となく、ライシュにガルブレイスの影響のあることを感じた査証として、興味深いと思っている。

   クリントンは、2008年の世界的金融危機を引き起こす因となったグラス=スティーガル法を廃止に走ったし、あのオバマでさえ、米国史上最も経済界に好意的な政権だと言われており、弱者の味方である筈の民主党でさえ信用できなくなったアメリカ国民の堪忍袋の緒が切れたとは言え、あるいは、それ故にか、選りによって、トランプと言う信じられないような人物を大統領にしてしまった。
   ライシュは、新しい時代を信じて、第三政党を立ち上げるなど、果敢に拮抗力復活に向けた処方箋を展開しているのだが、果たして、アメリカ国民は、健全な資本主義を再興できるのであろうか。
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