地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

さようなら業平橋駅&東武6050系の今後

2012-03-17 00:17:00 | 大手民鉄 (東武)


 毎年恒例のJR・私鉄ダイヤ改正を前にして、昨日は各地で引退する列車・車両への名残を惜しむ様々な動きがあったようですが、個人的には人混みが苦手ですし、鉄道車両が普段通りに元気な活躍を魅せるシーンを訪ねて乗って眺めることを宗旨としておりますので、とくに昨日の大きな動きを取り上げることはありません(引退車両のラストランを訪ねるとしたら、どうしても思い入れがある関東私鉄の超お気に入り車両がHMを掲げて走る場合限定です ^^;)。しかし、その一方で非常に惜しい気分になったのは、伝統ある東武・業平橋駅の改称……。
 この駅は当初吾妻橋駅として開業し、やがて浅草と改称され東武の総本山として隆盛を極めて行きましたが、後に隅田川鉄橋が完成し浅草駅の名を譲ったことから、東国に流された往年の歌人・在原業平が草深い隅田川のほとりで恋の歌を詠んだという伝説にちなむ風雅な橋の名前を冠して以来約80年。ついに東武が社運をかけて建設した東京スカイツリーの開業を前にして、その名を「とうきょうスカイツリー」に改めたのは周知の通りです。「東京」ではなくわざわざ「とうきょう」としたのは、恐らく東京駅に対する遠慮、あるいは混同防止なのではないかと推測しておりますが、ともあれ業平橋は東武本社&一大貨物駅所在地としての由緒を持ち、東武にとって「約束の地」である以上、その駅名も東武新時代に合わせて改められるのはまた運命と言うべきなのかも知れません。
 とはいえ、この駅には個人的な思い入れもあり、千々に乱れる心を抑えられません。昭和59年の春、相州人でありながら東武78系への興味が昂じていた中学生だった私は、神保町書泉を初めて訪れたついでに初めて東武伊勢崎線にもちょこっと乗ってみたのですが、その際に業平橋駅のホームにも降り立ち、眼下に広がる一大ヤードや東武本社の佇まいに圧倒され、たまに来る非冷房6000系にも悩殺されたことで、ますます私鉄の雄・東武への愛にのめり込んで行ったものです……(遠い目)。



 しかし極めて遺憾なことに、最近は多忙、そして昨年夏の骨折もあって、体内の「東武ん」は著しく低下してしまっておりました……(滝汗)。半蔵門~田園都市線で50050系に当たっても、所詮腰痛製造機のAトレインでは少しも「東武ん」は回復するはずもありません。そして気が付いてみれば、業平橋駅という名称が消える3月16日が刻一刻と迫るばかり……。このままみすみす体内「東武ん」低下と業平橋駅改称を見過ごすことがあっては、精神衛生上極めて宜しくありません。
 そこで、一昨日開催されたインドネシア鉄の宴の前には、平日休みを東武伊勢崎線に投じることにしまして、ファインダー越しに「The長距離ボックスシート電車と呼ぶべき6050系万歳!万歳!万々歳!」と内心絶叫したのでした (爆)。ただ、この日は杉戸高野台~幸手間の人身事故のため、「きぬ122号」が63分遅れとなったほか、区間快速56レが南栗橋にて運転打ち切り……。猛烈な北風が吹き、スギ花粉も荒れ狂う中、2時間開いた区間快速を待ち続けるのは堪えました……(T_T)。
 こんな感じでいろいろな苦労はありながらも久しぶりに6050系への愛を確認した後は、夕方業平橋駅に寄り道しまして、昨日限りで回送を除いて見納めとなった「業平橋を通過する6050系」をズーム流し!(↓をクリックしてご覧下さい) 黄昏の淡い桃色に染まったスカイツリーをバックにしたカットは、個人的な業平橋駅の最後の思い出として最高のものとなりました……(*^^*)。
 そんな6050系、来月には東急車輌改め総合車輌に4両が入場するとのことですが、果たしてそれは6050系にとってどのような変化を意味するのでしょうか? パッと思いつくのは、6050系として新造されたグループを車体更新or多扉化のうえ栃木以北のローカル用とし、6000系からの更新車は全廃、そして快速・区間快速廃止という悲しい筋書きですが、あるいは他の可能性もあるのでしょうか。東武の正式発表を待ちたいところですが、同時に6050系を普段通りに楽しむことが出来る時間は余りないのかも知れないと気を引き締めざるを得ません。業平橋、そして6050系……「春なのに」という思いが改めてこみ上げますね……。


 東武新時代と「古き良き東武」の邂逅……時代はこうして移るのでしょう。



 まさに過渡期な駅名板。簡体字も諺文もない体裁も次第に過去のものに。