地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

ネパール・ジャナクプル鉄道空振り訪問記

2011-03-24 13:12:00 | 南アジアの鉄道


 列車が来る気配がないので、とりあえず車庫の方へ・・・



 手前の紺+グレー塗装車は一等車。二等車とのアコモ上の違いは「?」。



 部品取りに供された機関車が放置されていました・・・。



 これらの車両が最後に動いたのは何時なのでしょう……。

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 今回の海外旅で訪れた主な目的地は、ヒマラヤの南麓に細長く広がるネパール。標高8848mのエベレストから、ガンジス川中流~下流域のヒンドゥスタン平原に連なるタライ平原に至るまで国土の標高差は極めて激しく、首都カトマンズと国内各地を結ぶ道路もまだまだ発展途上であることから、傍目には鉄道が存在する余地はないようにも思えます。しかし、首都カトマンズから直線距離で南東約150kmほどの位置にあるインド国境すぐそばの地方都市ジャナクプルには、古くからインド側のジャイナガルとの間 (29km) を結ぶジャナクプル鉄道が存在します。その由縁は恐らく、ジャナクプルという街がインド文学の古典『ラーマーヤナ』にちなんだ聖地であり (主役ラーマ王子がこの地でヒロイン役・シータと結婚したとか)、巡礼輸送を見込んでのものだったのでしょう。そのためもあってか、ジャナクプル鉄道は長年地元出資の (?) 私鉄として存在しており、最近国有化によってネパール国鉄を名乗ってはいるものの、車体をはじめ至るところにもとの社名が残っています。
 とりあえず今回のネパール訪問はカトマンズにのみ滞在し近場の旧跡をめぐるというものだったのですが、順調に名所巡り (仏跡が多く、自ずと息災の祈りに力が入らずにはいられず……) が進んだことから、折角の機会ですので1日を使ってジャナクプル鉄道を訪問しようと思い立ち、国内線の航空券をゲット。カトマンズとの直線距離は近いため、飛行機での移動は奇異に思われるかも知れませんが、二つの街の間にはマハーバーラタ山脈が横たわり、バスでの移動は相当遠回りして1泊2日かかる由……。しかも沿線はマオイストなどのゲリラ活動が盛んで、日本外務省の危険情報でも長時間の (とくに夜行便での) バス移動は避けるよう強く勧告しています。さすがに最近はマオイストも民主化・王制廃止を経て政権の一部に加わっていることから、ゲリラ活動もそれほどでもないのでしょうが、やはり短期の訪問だけに安全第一とならざるを得ません。現在、日本の円借款によってマハーバーラタ山脈越え道路の建設が急ピッチで進められており、『地球の○き方・ネパール編』に載っているJIC○の広告によりますと、完成はあと3年後とか。そのあかつきにはカトマンズ~ジャナクプル間も日帰り圏となるでしょう。
 というわけで、カトマンズを10時半に出る片道25分のプロペラ機に乗る……はずだったのですが、悲しい哉、カトマンズ空港は朝から濃霧のため離発着できず……。狭い盆地の宿命……(そのためもあってか、国際線の離発着は午後から深夜に多数設定)。10時半に出発できていれば、事前に調べた昼11:55発の列車を激写でき、名所を見物したあとで14時過ぎにジャナクプルに着く列車も余裕で撮影可♪と目論んでいたのですが、古くて狭い国内線出発ロビーに諦め顔の乗客がごった返す中、時間が無為に過ぎて行きます……。しかも、10時過ぎに運航が再開されたもののネパールの国内線は少ない機体でやり繰りされており、フライト計画通りに飛ぶ結果として私が乗る便は後回しに……。「13時までに出発しなければ、14時過ぎにジャナクプルに着く列車を撮影できなくなり、現地滞在時間自体が恐ろしく減ることからほとんど行く意味がなくなる……既にチェックインしたもののキャンセルしようか」と思った12時45分過ぎ、ついにジャナクプル行きの出発アナウンスが入り、「何とか14時の列車に間に合ってくれよ!」と念じつつ生まれて初めてプロペラ機の客となったのでした。
 到着したジャナクプル空港は、小規模な軍用空港に毛が生えたようなド田舎の空港で、小さな管制用の建物?と思った建物が実は旅客ターミナルを兼ねているという……。タラップを下りてすぐに空港を出ると、さっそくリクシャーに乗ってひたすら駅へ! リクシャーの運ちゃんにはたっぷり弾んでやっていますので、他のリクシャーを追い抜いて必死に走っているのは分かりますが、如何せん凸凹道の連続でスピードが上がらない……。貧しい地域だけにタクシーが全く走っていないのは仕方がないとして、インドネシアのオジェック (バイクタクシー) が如何に偉大な乗り物かを痛感したのでした。急ぎでなければ、初めて見るインド亜大陸平原部の風景や人々の服装は全てが面白く、途中通った聖地・ジャナキ寺院界隈の雰囲気も濃いぃものがあり、ジャナクプルの街を風雅に楽しむはずだったのですが……。
 そんなこんなで13:55頃にようやくジャナクプルダム駅に到着! 速攻で駅のホームに入り (生活道路同然でフリーパスです)、ホームの先端にてジャイナガル方面から来る列車を「さぁ来い!」と待ち構えたものの……来ない! しかし、冷静になって考えてもみれば「ここは日本ではないし、列車は屋根まで客で鈴なりだけに、途中駅での乗降に時間がかかるのだろう。まぁ時間通りに来るはずもないか。20分くらいは遅れるかな?」……ということで、手短にジャイナガル方の車庫周辺に放置されている車両を撮影してみました。
 しかし……一瞥して痛感させられるのは、車体の激しい荒廃ぶり……。客車の中に入ってみますと、フィリピン国鉄の12系客車並みに床が抜けたり椅子が壊れたりしています。ま、だからこそ運用から外れているのかも知れませんが……。そしてDLは、部品取りに供するべくエンジンや台車を抜かれて放置されている車体が複数見られたものの、状態の良さそうな現役予備機の姿が全くない! 今度は駅を挟んで反対側・ビジャルプラ支線の様子を見に行ってみたところ、そもそも線路自体が土に埋もれており、ここ数年来運行された形跡がない……。その後15時20分頃まで、ジャイナガル方面から帰って来る列車 (14時到着) を待ち続けたものの、結局来ない……。ジャナクプルダム駅のホーム上には山のような荷物とともに列車の到着を待っている客が多数いるのですが、駅の出札口が開く気配もなく……。
 そうこうしているうちに、そろそろ空港に戻らなければ帰りの便のチェックインに間に合わないという時間となり、上客のお帰りを待ち構えていた往路リクシャーの運ちゃん (撮影中も少し離れたところから私の挙動をじっと見つめ、しばしば「もう空港に戻る?」と声をかけてきたので、実に商魂たくましい……) を激励して空港まで帰ったのですが、この僅か1時間20分の駅滞在から見えてきたのは……他の様々なインフラを目にするにつけ痛感されるネパールの困難が、この「国際地方鉄道」においても明らかに現れている、ということでした。ネパールは過去10数年来、マオイストのゲリラ活動による内戦・王制をめぐる大混乱 (前代未聞の宮中乱射事件→生き残りギャネンドラの独裁)・民主化をめぐる緊張と王制廃止……といった激動を経ており、政情が辛うじて安定してきたのはここ2~3年の話。インフラ整備どころではなかったという状況がこの鉄道を青息吐息の状況に追い込んだのでしょう。線路は道床が雨水でえぐれ、よくまぁこれで脱線転覆しないな……という状況であるだけでなく (改善命令を受ける前の銚子電鉄の方がはるかにデラックス)、稼働可能な機関車や客車が激減した結果、一日一往復のビジャルプラ線は休止・廃止となり、メインであるジャナクプル~ジャイナガル間の国際列車も恐らく2往復に減便されているものと想像されます (しまった……駅オフィスで聞いてくるのを忘れた。汗)。そして、細々と走っている列車も、予備機が庫内に見当たらない状況からして……現役機が故障すればその瞬間に運休となる可能性が大きいわけで……。
 ジャナクプルの街と駅のまったりとした雰囲気は大いに気に入りましたので、いずれ是非陸路で (とくに、東進してインドに入国しダージリンの登山鉄道と組み合わせるなどして) 再訪を果たしたいものですが、再訪して激写するのが先か、それとも消滅が先か……。
 そんな四苦八苦のネパールですが、今回の大震災にあたっては、少なくないネパール人がインド・ネパール料理店を東北地方で経営していること、そしてかねてから日本が各種援助を行っていることもあって非常に関心が高く、政府が15名の救援隊を被災地に派遣したほか、私も行く先々で温かい励ましの言葉を頂きました。本当に有り難いことです……。

拙へっぽこ模型置場の状況 【小さな防災】

2011-03-23 00:00:00 | 超へっぽこ模型製作


延々と歩いて帰宅してみると……あわわ、何ということに。



1枚目に折り重なっていた落下車両とレールはここから落下。



御本尊様のHOデワ3043 (U-Trains製) にも上から車両が直撃……。



それでも本棚が転倒せず最小限の被害で済んだのはストッパのおかげ。

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 3月11日の激しい揺れは、鉄筋コンクリートで造られた都内の怪社の建物でも相当なものであった以上、築33年となる拙宅も相当揺さぶられたようで、両親によると生きた心地がしなかったとのこと。確かに、自室の灯りをつけてみると……本棚の一部の棚を利用している拙へっぽこ車両工場車両置き場も大変なことに……。しかし、少々時間を置いて冷静に考えてみますと、背後に並べてある書籍は落下しておらず (書籍の手前に置いてある模型がそれに巻き込まれたらもっとメチャクチャ)、本棚の上に重ねておいたGM&クロポ箱のいくつかが落下しているだけで済んでいる……。その最大の要因は、天井と本棚のあいだに挿入した転倒防止用バーでしょうか。「こんなもので果たして転倒防止になるのか?」と思いつつ、確か10年以上前に親の薦めで導入したこのバー、なかなか威力絶大です。車両についたキズは、大きな被害を受けられた方々の労苦に比べれば全く取るに足らないもの。むしろ、地震の記憶を留め、いつ何時起こるか分からない天災に少しでも備えることの必要性を再認識させるよすがとなるでしょう……。

田園都市線・国道246沿い徒歩帰宅の記録

2011-03-21 20:12:00 | 大手民鉄 (東急)


 3月11日の大震災から10日が過ぎ、明らかになった被害の状況は余りにも深刻であることに改めて悲しみを覚えます。被災された方々には改めましてお見舞い申し上げますとともに、困難な状況の中で原発被害の拡大阻止や救援・救済活動に当たられている自衛隊・消防ほか全ての皆様に敬意を表します。
 そのような中、私は翌12日から今日まで海外旅行に出かけておりました。被害の一端を見届けながら、国外に逃れて旅行という名の安楽を貪るとは何事か?という発想は当然あり得るでしょうし、私自身も多くの人々が苦しむ中で外国のテレビや新聞を眺めるのみで何も出来ないもどかしさを感じたのは確かです。しかし、今回の旅行はだいぶ前から業務閑散期にあたり有休を取得していたものであり、成田空港に到達できる限りそれをキャンセルせず普通に出かけることで、経済にごく僅かでも足しになるのではないか?と思った次第です。
 そして、いま何よりも重要なのは……まさに日本が正真正銘の国難に際会し、国力の維持そのものが問われている中、もちろん被災された方々に思いを致しつつ、かつ明日は我が身の心構えを忘れないようにしつつも、あくまで無事な者としてはなるべく平常心を保って消費に貢献し、ひいては日本経済の再建に貢献すること、そして少しでも心の余裕を保ち前を向いて歩み続けることなのではないでしょうか。そんな極めて小さな個々人の心がけが積み重なってこそ、巡りめぐって被災地の復興にも何某かの役に立つのだろうと思います。そこで、このブログもあくまで管理人自身の平常心や心の余裕を保つための手段として、今後も引き続き思いつくままに更新して参ります。
 外国を訪れて痛切に感じるのは、世界史上稀に見る悲劇に直面した日本への心からの同情と、日本が危機を克服して力強い復興・復活を成し遂げ、その経験を将来世界のために活用することへの強い期待です。日本は決して孤独ではありません。皆さん頑張りましょう。……とエラソーなことを言える立場ではないへっぽこな管理人ですが、まずは脳内に去来する思いを述べさせて頂きました m(_ _)m



 それにしても、改めて鮮烈に思い出されるのは……まさに地震が起きた日の夜の東京を埋め尽くし、私自身もその中に加わった膨大な歩行帰宅者の流れであり、その中において見られた「これぞ日本人らしさ」と呼ぶべきものの発露です。
 周知の通り、11日には地震発生直後から首都圏全ての列車の運行が止まり、保線区員等による徒歩巡視を経て運行が再開されるまで多大な時間を要しましたが、当初は「じきに運行再開されるだろう」と思い東京メトロ某駅にてのんびり構えていた私も「ひょっとしてこれは首都圏でも想像以上に被害があり、当分動かないのではあるまいか……」と危惧したのでした。そこで有り得た選択は (1) 怪社に帰ってテレビで運行再開の報が流れるまで徹夜籠城する (2) そのまま運行再開まで駅で待つ (3) 待たずに行けるところまで歩く、といったものでしたが、(1) を選択すると予約済みの翌日のフライトに間に合わない可能性が大であり、あるいは夜遅くの運行再開の場合報道で一気に人が駅に殺到して乗車不可という可能性もあります。(2) では余りにも芸がなく、単に当てもなく立ち尽くすのみ……。そこで17時40分頃に (3) を選択し、とにかくまずは道なりに都心を脱出し、ひたすら自宅に向かって最短経路を歩きつつ、あわよくば東京からかなり離れた場所で運行を再開した電車に乗車出来れば良い……と思った次第。東京の中心部から拙宅がある小田急江ノ島線 (遙かなる田舎……汗) 沿いに出るには、かつて大山巡礼で賑わい、近代以降は静岡東部まで軍事施設を結ぶ影の重要ルートである国道246号線をたどれば良く、しかも東急田園都市線は神奈川県大和市まで事実上246号線の並行鉄道として作られていますので (軍事的には何の足しにもなりませんが)、とにかく (3) の選択に賭けて帰宅を期するには最適なルートでもあります。
 そこでまず、お茶の水界隈にある明○大学の前を通りかかったところ、○バティー・タワーのロビーにテレビが置かれ逐一NHK総合テレビが流されていましたので、当面の最新情報として首都圏の鉄道全面停止を改めて確認するとともに、津波の恐るべき映像に「これは非常時である」との覚悟を固め、スーツ上下にPC入り手提げ鞄・黒革靴という如何にも長距離歩行には不向きな服装であったものの、いざ自宅への長い道程に踏み出したのでした。40kmを優に超える道を歩き切れば、恐らく所要8~10時間となることが予想され、それを一気に歩ききれるのかどうか武者震いが……。何とか途中で田園都市線に回復して欲しいと思うものの、どこでその機会に巡り会えるかも全く見当もつかなかったのは言うまでもありません。
 午後6時10分頃に○治大学を出発し、神保町界隈に達しますと、書店群が早々に営業を繰り上げたのに代わって、靖国通りには早くも家路を急ぐ徒歩リーマンの流れがあふれつつあり、天井が落下した九段会館を横目に千鳥ヶ淵の脇を進む頃には、粛々とした秩序ある「束」が出来上がっていました。ひんやりとした早春の桜並木の夜に冷たい月が輝き、普段見慣れない東京の夜景が歩くごとに展開する中、誰もが直面した運命を受け入れて黙々と進もうとする意志の固まりとなり、言葉こそ交わさなかったものの不思議な連帯感を抱いたのは私だけではなかったでしょう。やがて半蔵門のTFM前を通り、赤坂見附にて霞ヶ関方面からの人の流れと合流する頃には、道路が完全に車で埋まって巨大駐車場と化している中、見渡す限り人間の太い流れが青山通り、246へと向かって行くという圧倒的な光景を歩道橋の上から眺めたのでした……。その後管理人がたどった道程は以下の通りです。

●19:50 渋谷駅ハチ公口通過。誰もが渋谷の喧噪に見向きもせず西へ西へ。
●20:30 三軒茶屋通過。三軒茶屋までは世田谷・調布方面への人波と一緒であるため、決して広くない歩道がしばしば過密状態に。ところどころ、警察官が歩道に出ないよう指導。道路は全く動かず、歩く方がはるかに速い状態。渋谷から三軒茶屋までバスに乗るだけでも4~5時間はかかったのでは……?
●20:50 三茶を過ぎて多少歩きやすくなり、駒沢界隈でコンビニに入り兵糧補給。菓子パンを歩きながらかじろうと思ったものの、棚の菓子パンは払底。幸い、新商品が別のコーナーで売られていたのを発見し1個購入。夕方怪社を出てからここまで飲まず食わずだったため、美味い。沿道のラーメン屋はファミレスは、歩き疲れた人々がしばしの充足を求めて超満員。
●21:40 二子橋の都県境を通過。電車は全く往来せず、ただ駅の灯りのみが光る二子玉川駅の表情が侘びしく……。川風に吹かれながら、都心から多摩川まで歩き切った高揚感に浸るも、まだまだここからアップダウンの道程が延々と続くことに途方もない気分・・・。
●22:00 溝の口界隈を通過。きついアップダウン開始。三茶までとは比較にならないほど徒歩帰宅者の流れは細くなったものの、田都沿線、そして神奈川県央を目指してひたすら246を歩く人々は少なくない状態。梶が谷を過ぎてさらにアップダウンは長く過激になり、女性の歩みは苦しそうで気の毒……。確か馬絹~有馬間だったでしょうか、猛烈に長い上り坂に絶句……。
●23:00 川崎市と横浜市の境界に到達。しかし先はまだまだ長い……
●23:10頃 新石川付近を歩いていたところ、直前を歩いていたおじさんのケータイ会話の内容から、田園都市線が運行を再開したとの情報を知り感激……。江田駅まであと1.5kmほど歩けば良い!
●23:20過ぎ 江田駅前にさしかかったところ、ちょうど到着した東武30000系・中央林間行きの灯りを目にして「ここまで歩ききったのか……。電車が普通にやって来ることが何と有り難いことか……」と感無量。
●23:34 次の中央林間行きに乗車。東急新5000系でしたが……暖かい午後ティーを飲みつつ、鉄道の有り難味を改めて痛感。中央林間では、ちょうど24時から小田急全線で運行が再開されたとのことで、本来の終電の時刻にやって来た江ノ島線再開一番列車に乗って帰宅。

 ……以上が私にとっての「3.11」ですが、怪社から江田駅まで歩いた距離を地図を用いて計算したところ約31kmという途方もない距離に達していたことも (江戸時代の旅人が1日に歩く距離は大体この程度とか→それを半日で歩いた勘定)、梶が谷を過ぎたあたりから相当悩まされた足の筋肉の痛みも、今考えてみればおよそ取るに足らないものでしょう。むしろ、公共交通機関としての鉄道が安い運賃で当たり前のように提供されてきたことがどれほど素晴らしいことであるかを認識せずに、如何に漫然と生活してきたかを身にしみて思うのであります。しかし、この経験を通じて改めて、高度な技術力・社会性と趣味性を兼ね備えた公共交通への熱い思いを新たにするとともに、あの夜誰も不平不満を上げずに黙々と歩き続けた膨大な意志と秩序の中に、うろたえることなき日本人の底力、そして復興の希望を見出したい……と思っています。

常磐線の地味な王者・安中貨物

2011-03-12 00:00:00 | 貨物列車


 【午前0時55分・おことわり】地震で大変な被害が生じている中、この記事の内容はふさわしくないものと存じます。アップするべきではなかったかも知れませんが、私自身がPCを操作出来ない中、予約投稿で午前零時に自動で更新されてしまったため、そのままとしておきます。午後6時に怪社近くのお茶の水界隈を出発し、大渋滞で車が全く前に進まない国道246号線をひたすら西に向かって歩き、運転を再開した直後の田園都市線に江田駅で乗ることが出来 (23時30分過ぎ)、午前零時に運行を再開した小田急に乗って先刻帰宅したばかりです。
 何はさておき、今回の大震災で被災された方々に心より哀悼とお見舞いを申し上げます m(_ _)m そして、世界史上最大級とされるこの地震で各地の断層が刺激され、明日は我が身かも知れません。皆様もくれぐれも防災にご留意を……。

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 いよいよ本日はJRグループのダイヤ改正当日ですが、東日本エリアに限って見てみますと、新幹線では先週E5系がデビューし、南武線で快速が登場することになるのを除けば基本的に波静か (?) なようですので、最も顕著な変化は貨物列車とその牽引機において現れるのでしょう。
 


 このうち直流機陣営につきましては、EF65PFやEF66 0番台が少しずつEF210に置き換えられていますが、それは漸進的に進みつつある変化だということで……。むしろ既に様々な雑誌やネット上でも取り上げられている通り、昨年EF510北斗星・カシオペア罐が田端区に投入されたことに伴って、常磐線のEF81運用が短期間のうちに大幅に減ったという変化は、やはり時代を画する意味があるのでしょう。
 そんなEF81が牽引する名物列車・安中貨物 (福島臨海鉄道から安中まで亜鉛焼鉱などを輸送) につきましても、恐らくスピードアップのためかと思われますが、タキ15600がタキ1200に置き換えられることとなり、しばしばEF510牽引となることもあってまさに過渡期の状況を呈していたようです。しかし、先日タキ1200の量産車が大量に落成し、認可を経て近いうちに正式に投入されることが予想されることから、EF81とタキ15600の組み合わせはついに見納めとなるのでしょう。
 ……しかしそんなことより、小名浜をはじめ常磐線沿線が大津波に襲われている中、安中貨物用貨車及び出荷施設・線路・そして機関車が無傷で済むとはとても思えず……。あらゆる人的・物的被害が最小限であることを祈るより他にありません……。

 【お知らせ】3月下旬まで更新を休止させて頂きます……たぶん。(成田空港までのアクセスが通じず、かねてから計画していた旅行が全く不透明になりました)。

貨物天国四日市を歩く (2) 海山道の緑重連

2011-03-11 00:00:00 | 貨物列車 (四日市)


 昨日成田線の滑河駅で発生した鹿島サッカースタジアム行き貨物列車73レの脱線・横転事故の第1報をネットで目にした際、横転車両から出火して30分後に消し止めた云々という記述から「まさかその車両がエチレンコキで、タンク体の中に残留していた酸化エチレンが摩擦・火花によってちょっとした爆発を起こし火災となったのではあるまいな・・・」という悪い予感が。その後ネット上で続報として無残に横転したエチレンコキの姿を目にし、ただただ愕然としたのは言うまでもありませんが、タンク体が焦げているわけではなかったことから、むしろ脱線した台車から生じた火花が線路脇の草に飛び散って出火したのでしょうか? 
 鹿島 (奥野谷浜)~四日市 (海山道) のエチレン輸送は間もなく約10年の歴史に幕を閉じますが、最後の最後にこのような事故が起こってしまったのは残念……。もっとも、鹿島から来た積車ではなかったこと、そして周囲に民家がなかったことは不幸中の大いなる幸いと言うべきでしょう。もし積車が派手に横転して爆発やガス漏れしたら……そして普通列車と交換するところだったとしたら……と思うとぞっとします (間違いなく死者多数の大惨事でしょう。ISOコンテナの頑丈さはどの程度なのでしょうか? -_-;)。


 
 というわけで物騒な話となってしまいましたが、ここからはまったりと (^^;
 鹿島から来たエチレンコキは近鉄海山道駅前にてJR貨物塩浜線から分岐する専用線に入って行きますが、この専用線は非常に短く、駅から200mほどカーブを走るともう貨車門にたどりついてしまいます。そんな呆気ない専用線ながら、住宅街の谷間を走る小さな鉄路の風情は相模大塚 (休止中・・) を思い出させるものがあり、小~中学生の頃ヒマさえあれば相模大塚にチャリを飛ばしていた私としましては、どうしても海山道を訪れる度にときめきを禁じ得ません (笑)。
 しかもここは、単に線路の雰囲気それ自体が濃いぃだけでなく、エチレンコキを牽引するスイッチャーが余りにも美しいという魅力があります。四日市市内の倉庫会社が運行と保守整備を委託されている2台のスイッチャーは、いつ訪れても必ずピカピカに磨き上げられており、しかも新年に訪れると注連縄を取り付けているという御丁寧さ……。そんなスイッチャーの重連に遭遇した日には、もう宝くじ大当たり並みの喜びが炸裂です! (^O^) 
 では、何故重連だったのか……とても気さくな作業員の方から伺ったところによると、「工場内の荷役線が短いため、コキが4車以上連結されていると重連は出来ない」とのことですが、貨車門から荷役線の様子を窺い知ることは出来ないためチンプンカンプン (^^;)。むしろ、コキの数に関係なく単機で来れば良いのではないか……とも思うのですが、そこを敢えて重連としているのはファンサービスか?と思わずにはいられないほどです♪ 最終日が何時になるのかは、昨日の事故とからめて全く分かりませんが、その日まで作業員の皆様と海山道を訪れるファンの関係が良好であることを願って止みません。