東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

三歴史を鑑に対中鎖国、近代編

2010-11-09 10:57:43 | 社会・経済

四、19世紀後半日本は明治維新政府が成立、徳川の鎖国政策を放擲、というより欧米列強に放擲させられた。しかし日本も欧米資本に市場を蹂躙させられっぱなしの受け身でばかりはいない。対抗上対外積極姿勢をとる。

一方の清王朝も日本を見て近代化に踏み切る。これは失敗して清は滅びるのだがそれはまだ先の話。

海軍の西欧化というか近代化では清王朝のほうが先をいった。少なくとも清朝の人間はそう考えていた。彼らは西欧式の近代化された艦隊で日本の近海に表れて示威行動をした。

現代のチャイナが東シナ海でチョロチョロするのとは規模が違う。気宇壮大である。清の海軍艦隊は相模灘をとおり、東京湾入口に現われて日本を威嚇したのである。日本がチャイナを信用せず、彼らの日本侵略を日本の明治政府が確信して対策をとったのは当然である。

五、現代編

戦後稀有の平和を日本が享受したわけ。勿論東西冷戦という「オカゲ」もあるが、チャイナが国共内戦で疲弊、赤色チャイナが大陸を統一したが、国力がなく対外侵略どころでなかったのである。また、70年代の国交回復後も経済政策の相次ぐ失敗で海外膨張など夢であった。東西冷戦下で日本と交流することなどあり得ないことだった。

おまけに同じ東側でチャイナはソ連と言う仮想敵国と対峙していた。

今は、ああ、アアである。こんなにチャイナを肥やしたのは誰だ。

歴史を鑑にするなら対中鎖国あるのみである。


二歴史を鑑に対中鎖国

2010-11-09 10:18:49 | 社会・経済

二回目の日中衝突は元寇なんだが、その前奏曲に平のきよちゃんが出てくる。

平安時代末期平の清盛は対中貿易を大々的に行って平家一族の私腹を肥やす。必然的に大陸との交渉がしげくなる。

大陸では唐が滅び、内乱が続き宋が起こるが、すぐに南北に分裂長続きしない。やがて蒙古に支配される。言うまでもなく蒙古は大膨張主義である。欧州に攻め入り、ロシアを支配し、食指を日本に伸ばした。

三回目は豊臣のヒデチャンである。

蒙古族の元王朝のあとに統一帝国を築いたのは明である。明は世界膨張政策をとり、アフリカまで遠征している。一方日本では長い戦国時代ののちに豊臣秀吉が全国を統一すると大膨張主義を取る。

明とヒデちゃんの膨張主義がガチンコで衝突したのがいわゆる朝鮮征伐である。

明がほろんで清となると、チャイナは一転して鎖国政策を取る。日本ではヒデちゃんの後に政権を取った徳川幕府も鎖国政策をとる。徳川時代は日本史上まれな、長く平和が続いた時代であるが、これは清王朝、徳川幕府がいずれも鎖国政策を取ったためである。


1歴史を鑑に対中鎖国の勧め

2010-11-09 10:10:21 | 社会・経済

チャイナと日本は対外開放、膨張の政策をとる時に平和だったことがない。よろしく交わりを絶つのがよい。

西暦663年(662年だったかな、こういうことは高校の受験生諸君が詳しいだろう)白村江の戦いというのがあった。高校生諸君は年代を暗記するが意味など考えたこともなかろう。

唐・新羅と日本・百済が戦った。日本が負けたので百済の亡命者がたくさん日本に来た。最初の在日半島人だ。

チャイナ・北朝鮮軍と日本・韓国軍が朝鮮で戦ったわけ。

唐は隋を倒して大帝国を建設中、対外拡張主義で膨張した。日本は大化の改新で朝鮮系の蘇我一族を滅ぼして新国家建設中の勃興期だ。当時のストロングマンは大化の改新の首謀者中大兄皇子だ。

この敗戦で日本は対外膨張主義をやめて国内政治に専念。やがて平安時代となり、徳川時代と並んで長期間の平和と文化の興隆をもたらした。

シナの影響を排除して、いいところだけを取り入れて日本文化を確立したといえる。