東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

主権在憲(法)

2017-05-04 08:27:59 | 憲法第九条

昨日は憲法記念日だったてね。日本は主権在民ではない。主権在憲(法)である。こんな国がほかにあるのかね。憲法が基本法であることに異議はない。現に国によっては「基本法」と称している。

 主権在民なら憲法は常に国民によるアップデート、ファインチューニングの対象でなければならない。

 基本法であるからには解釈に可能なかぎり恣意性、多義性の余地を残してはならない。現実の情勢を無視した女学生の作文であってはならない。つまり具体的、明確で現実に的確に対処出来るものでなければならない。

 曖昧で現実に対応しなくなっている憲法を唯一無二の聖典とあがめるのはドグマ主義である。しかも憲法の条文は幼稚で曖昧であるからつねに解釈者が必要となる。しかもその解釈者は民意を反映し、民意の批判に耐えうる政治家ではなくて内閣法制局、最高裁判事*など民意のスクリーニングを受けることのない(つまり解釈の責任を国民から問われることのない)官僚たちである。

*    最高裁判事には総選挙のとき等に添え物的にマル・バツ信任投票があるから民意の批判を受けるという意見があろうが、本当に信任を受けたいなら政治家同様選挙に立候補して国民の信任を受けるべきである。内閣法制局にいたっては役人にすぎない。*

 司法の行政、立法からの独立とは法律で明確に定められている(解釈の余地のない)法律の適用が行政や立法からの干渉でねじ曲げられるのを排除するということである、大津事件のように。

 司法の独立とは本来国民の判断、政治行政の判断によるべきものを司法が勝手にこっちだ、あっちだということではない。

 私は昭和22年の憲法は必然的だったと思っている(歴史的にはね)。当時の事情を考えなければならない。アメリカは日本人を根絶やしにするつもりであったし、日本の産業が永久に二度と立ち上がれない様にするのがアメリカ占領軍の明確な方針であった。

 そして日本人は敗戦で腰が抜けた状態であって極限的な飢餓状態にあった。この茫然自失状態がアメリカ占領軍民政局のお下げ渡しになる憲法を受け入れる素地であった。要するにだね、マルクス主義者流にいえば「歴史的必然」であった。

 東西冷戦の勃発、そして朝鮮動乱によって世界で唯一冷戦が熱戦となった極東でアメリカは対日政策を180度転換させた(世にこれを逆コースという)。そして昭和二十七年の一応の独立回復、所得倍増計画成功などにより日本人は抜けていた腰が据わり出したのだが、まともな憲法を持とうという機運が大勢とはならなかった。その理由は多く既に語られているとはいうもののまだ議論は練り込まれていない。