次のように区分するのがよいのではないか
Phase1 古代から飛鳥時代、大化の改新まで
天皇の呼称はない。倭国の王たちのなかでの最強の国の指導者が大王あるいはオオキミ(大君)とよばれた。スメラミコトなどとも呼ばれた。それがだんだんと集約されて大和朝廷となる。それにつれて実質的に政治をつかさどる有力部族(現代で言えば有力官僚かな、政治派閥かな)がはっきりしてくる。最後に物部氏と蘇我氏の戦いとなり、朝鮮半島からの渡来人系の蘇我氏が政治を壟断するようになる。これに反発して藤原鎌足や中大兄皇子がクーデターを起こして蘇我氏を滅ぼす。いわゆる乙巳の乱であり、大化の改新が始まる。大化は日本初の元号である。その過程で天皇の呼称が定まる。
Ph2 12世紀末まで
朝廷親政はやがて古代末期のように、政治権力が朝廷の一部勢力に独占される。まず大化の改新の功績で藤原氏、ついて台頭し始めた武家勢力の平家の天下となる。
Ph3 12世紀末から19世紀中葉まで
治承四年(1180年)以仁王の令旨を掲げて源頼政が平家に武装蜂起する。蜂起は数日で鎮圧されるが半年後に源頼朝が同じ令旨のもとに伊豆で挙兵して平家を滅ぼし鎌倉幕府を樹立する。その後天皇親政を復活しようとする武装蜂起があったが失敗する(建武の中興)。蜂起失敗後、南朝という地方亡命政権がしばらくは存続したが、以後武家政権は足利幕府、室町幕府、戦国時代、豊臣、織田の天下統一に続き徳川幕府が19世紀半ばまで続いた。この800年間にわたる武家政治の間、天皇ということは朝廷側が自ら言ったこともなく、他からも呼ばれることもなかった。武家の政権が朝廷をどう呼んだか知らないが、興味がある。お上といったか御所とかミカドとか? 幕府と朝廷が文書でお互いにどう呼んでいたのであろうか。また文書を出す時にどういう手段、経路をとっていたのかは興味のあるところである。ほとんどが公家を経由しての実質的な命令であったであろう。
Ph4 明治維新後、大東亜戦争敗戦まで
明治維新はもちろん薩長が中心となって「関ヶ原の恨みをはらす」情念に基づいたものであるが、表向きの耳触りの良い大義名分は「天皇親政の復活」であった。だから天皇の勅書を偽造したなどという疑いが後で持ち上がったのである。
とくに明治後期以降、意識的に神格化が行われた。明治の元老政府は、文明開化はいいが社会主義の勢力勃興に不安を感じだした。元老山形有朋は同郷の物知り森鴎外に非公式にこの不安を相談した。「欧米には社会を支えるキリスト教という太い柱があるがわが国にはない」というのである。
森鴎外は外国語が堪能で哲学書なども読んでいた。それも主流ではなくて傍流の思想に入れあげる傾向があった。彼の言葉に「19世紀は鉄道とハルトマンを生んだ」というのがる。ハルトマンはエドゥアルト・ハルトマンのほうで「無意識の哲学」の著者である。現代彼の著書を見つけるのは難しい(特に日本では)。
ほかにファイヒンガーという贔屓の哲学者がいた。アルツ・オプ(as if)の哲学というのを提唱した。「かのように、の哲学」である。森鴎外は山県に言った。「日本にはお上があらせられるではありませんか。日本人には神のようなお方です」。山形有朋はこの案を採用した。しかし、思わぬところで足をすくわれた。軍事官僚がこれを利用したのである。政治感覚ゼロ、戦略眼ゼロ、政策能力ゼロで、しかも始末に負えないほど徒党感覚の発達した陸軍士官学校、陸軍大学校出身の純粋培養された軍事官僚が維新の元老たちが世を去ったあと、錦の御旗を手中に握ってしまったのである。討幕運動の活動家が錦の御旗を手に入れた過程にあいまいなところはあるが、その後の彼らの功業は立派であって過程云々の議論も吹き飛んでしまったのだが。
F5 終戦後昭和天皇崩御まで
次回に述べる。
F6 平成天皇時代
次回に述べる。