まず前々回の補足;令には相手を尊敬する、良いという意味があるという。それは正しい。しかしそれは令の語釈としては下位に来る。それは漢和辞典に例示されている。漢和辞典に例示されているということは日本に入る前にシナで確立した語法であって、やまと言葉ではないことを示している。本居宣長なら日本の古語としては認めなかっただろう。
万葉集から採ったというが、梅花の序文はよほどの専門的な書物でないと収録されていない。私も初めて知った。見ているのは久松潜一氏の編纂した講談社文庫全五冊である。したがって国民に広く受け入れられているとか浸透している文章とは言えない。
また、だいぶ前の支那の文選からのコピペであると報道されている。日本の漢詩文、とくに古い時代のものはシナ古典のコピペばかりである。石を投げれば必ずシナ古典からの孫引きに当たると言っても過言ではない。
それは現代風の意味での盗用ではない。故事古典に典拠して文章を書くというのはシナでも日本でも漢詩文作成の基本的作法である。むしろ典拠からのコピペが多いのは学識の深さを示す指標である。
勿論コピペしながら自分独自の味を加えていくところが読みどころである。ところが今回の令和の二字はもろに文選からのコピペの部分にある。日本人の序文作者の独創部分からの引用あるいは典拠なら許せるが、よりによって孫引きの部分から採ってくるとは学識の無さをさらけ出している。
今回の元号は無学の恥を内外に晒している。
要するに日本の古典の序文とかいわゆる文章から採録するなら、必ずと言ってもいいほどシナ古典にさかのぼることになる。和歌の部分のやまとことばから採録するならそのようなことはあるまいが。