東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

凶暴性を担保するものとしての正義

2010-03-09 22:52:25 | 社会・経済

「正義の凶暴性」シリーズ第5回: ;

正義、あるいは大義名分を言い募るものは例外なく凶暴である。グリーンピース、シーシェパードがまさにその典型。ロシア革命の粛清の嵐しかり、チャイナの文化大革命しかり、日本の過激派の内ゲバも同じである。

正義と言う印篭を手に入れるとあらゆるおぞましい暴力行為がフリーパスとなる。

立派な正義をいうなら、手段もそれにふさわしいものになるだろうと思うのが普通の考え。ところがドッコイショである。

そもそも、人類の歴史を見ると正義とか理性というものは一歩でも相手に有利な立場に就こうとする道具にすぎない。刀と同じである。動物なら牙で決着をつけるところを、人間はたまたま脳味噌が1000グラムを超えたあたりから、屁理屈をこねる余裕が出てきて、脳味噌を武器として使用するようになった。

動機と目的は700万年前と同じである。使う道具がバージョンアップを繰り返してきたにすぎない。

もともと正義を口にしたがる連中は暴力的な気質を持っている。

正義を口にすると途端に暴力的になる条件反射には人類700万年の歴史があるのだ。

シーシェパードなどの活動だが、インディアンに対してホロコーストを繰り返したきた子孫がたかがクジラでああもいきり立つのはどう考えても異常である。もっとも黒人奴隷をリンチ殺戮しながら愛犬が死ぬとヨヨと泣くのがアメリカ人だったようだからね。

原住民アボリジニの殺戮を繰り返してきたオーストラリアやニュージーランドへの移住者の子孫やその政府が捕鯨反対の暴力、実力行動を容認するがごとき態度をとるのは偽善以外のなにものでもない。