自民党麻生副総裁が新潟県新発田市で講演し、政治資金規正法改正の議論に関し、「民主主義はコストがかかる」と述べ、過度な規制が行われることに懸念を示した。
大財閥の御曹司で戦後在台の政治家、吉田茂のお孫さんらしい、金銭感覚もない坊ちゃん政治家らしい、賄賂色の強い献金政治を念頭にした発言である。予算委員会で、カップラーメンどのくらいの価格かご存じかと問われ、「7~800円ほどか」言った男である。年金は受け取ったことがない、コロナ時の10万円の給付金は受け取っていないと答えて平然としている男である。
今回の政治と金の最大の問題は、『政治には金がなかる』とするドグマから抜け出すことが出来ない、金権政治屋の金銭感覚こそが問題なのである。
金を掛けた民主主義は、民主主義ではなくなる。政治の金はの流れは、100%透明化するべきである。透明化のためには、過度の規制に制限などあってはならない。
麻生太郎は金のかかる政治を続け、金を恵んでくれるところには、政治の自由という都合の良い言葉を使って受け入れ、裏金にして見えなくしたいというのである。
地方自治体はこのところの物価高と円安で、子どもたちの給食がやってゆけないということである。努力も限度で、300円の給食量を減らすことで乗り切ろうとしている。子どもたちは献金しない、教育関係者も献金しない(公務員法に触れる)、地方の零細食品業者も多くは献金しない。
献金する自由を奪うなという麻生たちの論理は、献金する金のある階層、献金をほぼ賄賂と思って金を出す業者の論理である。
献金しない、献金できない国民には政治の陽が当たらない政治を続けるということである。「そうした指摘は当たらない」と岸田文雄は繰り返すが、それでは献金した人たちの顔が立たない。
政治に金しかも裏金が必要だとするのは、やましい金があってこそ叶う政治は犯罪の匂いがする。政治に金がかかるとするのは、そうしたことを続けたいという、麻生太郎の声である。