「死刑のハンコを押した時だけトップニュースになる」などと発言した葉梨康弘法務大臣が辞任とのことである。岸田はまた更迭できなかった。自派閥を減らしたくなかったのか、単なる優柔不断の結果かわからないが、人の命をこれほど軽々しく扱うなどとは許せるものではない。ましてやこの男は法務大臣という要職にある。
日本は政治的立場や与野党に関係なく、8割が死刑を容認、賛同する国家である。先進国では、どの国でも死刑をなくす傾向にある。日本はどうしてこうも死刑賛同者が多いのであろうか。
江戸時代には、仇討(あだうち:敵討ち)という制度が存在したが、それであっても仇討には制限があった。仇討が許されるのは近親者のみで正当な理由が求められ、主君や地域の大名など権力者許可が必要であった。
その仇討は美談として後世まで講談やお芝居に残され語られる。赤穂浪士や荒木又右エ門など日本人には仇討は美談として定着し、大衆は歓び、それが現在まで及んでいるのであろう。
どんな犯罪に対しても、「量刑」というものがあるが、量刑そのものが日本では報復という側面が強く、犯罪の抑止になると軽重が設けられている。
量刑で最も重いものが死刑である。死刑とは人の命を奪うことである。理由は理由は何であれ死刑は国家が行う殺人行為である。戦争と死刑はそうして意味で同質といえる。一介の人間が犯罪を犯す理由を国家、狭義には社会が作り出した結果といえる。
死刑を宣告するのは日本では殺人を犯した場合と言って良いだろうが、人の命を奪うことが極めて非人道的で許されないことであるからに他ならない。であるならば、国家が行う殺人(死刑・戦争)も同質のものと質される(ただされる)べきである。
死刑は、仮に犯罪が誤審であった場合裁判を質す機会を失わせることになる。
そして今回のように、人の命をハンコ一つで終わらせ、なんとも感じないような人物が法務大臣に就くようなことが、平然と起きてしまうのである。この法務大臣の失言はこの人物に限ることなく、多くの国民は死刑判決を受ける犯罪者は、殺されて然るべき(与死)と思っていることの方が問題なのである。