犬を連れたヴィエル弾き c. 1620-1622, フランス、ベルグ市立美術館、186x120cm
きわめて著名な画家についても一般的にいえることだが、非常に人気のある作品とそれほどでもない地味な作品がある。ラ・トゥールの場合であれば、「大工の聖ヨセフ」あるいは「いかさま師」シリーズなどが前者であろうか。
画家の名を知らない人でも、クリスマスカードなどにも良く使われているので知っている人も多い。 他方、ラ・トゥールの愛好者?からすると、あまり一般に知られていない作品に次第に強い関心を抱く場合があるように思われる。この「犬を連れたヴィエル弾き」などもそのひとつではないか。ラ・トゥールの比較的初期の時代の作品と推定されているが、その当時好まれた画題でもあるようだ。複数の同じ画題の作品が現存しており、ラ・トゥールが、時代の日常生活の中から選び出した、いわばシリーズのひとつである。「老男」「老女」などにつながるところがある。
今は古楽器となったヴィエル(ハーディ・ガーディ)を弾いて、町や村を歩いてまわった辻音楽士を描いた作品である。理由は必ずしも明らかではないが、他の画家の作品でもヴィエル弾きは、盲目の老人として描かれている。ハンディキャップを負った人たちが生計を立てる上で、当時残された数少ない職業類型だったのかもしれない。
この絵に私が接したのは、「ラ・トゥールとの出会い」に記したが、30余年前になる1972年のオランジュリーでの展示であった。今回の国立西洋美術館での「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展のカタログによると、オランジュリーでの展示までは、ラ・トゥール以外の名前も挙げられ、画家の特定も十分なされていなかったようである。その後、少なくもラ・トゥールの「工房」の作品であるらしいことまではほぼ推定が進み、痛みのひどかった作品の修復もオランジュリー展に合わせて行われたらしい。
実物に接すると分かることだが、作品が等身大に近い186x120cmという大きさである。それだけに大変な迫力もある。盲目の楽士が観る者に向かって歩みながら歌っているような実感がある。しかも「豆を食べる人々」や「老男」「老女」などと比較して、衣服も粗末であり、老楽士の容貌から漂泊の旅に日々を過ごしていることが直ちにみてとれる。これは、同じ主題を扱った他の作品についても指摘できるが、この作品の場合、とりわけ哀切感が画面に強く漂っている。それは、他の作品には描かれていないが、老楽士の足下に坐る子犬の表情からもうかがわれる。犬の傍らに置かれた小石との対比で、この子犬がいかに小さな存在であり、それでいて盲目の老楽士にとっては、苦難の多い旅路での大切な伴侶であることを切々と訴えている。旅に疲れた老楽士を支えるかのような、この子犬の存在感は大きい。この子犬が描き込まれていなかったら、画面の印象はかなり変わる。この絵を見る機会があったら、ぜひ犬の表情をしっかり見てほしい。
少なくとも現存する作品から判断するかぎり、ラ・トゥールは当時の風俗画に属する作品以外では、自分たちと同等あるいは上流とみなされる社会階層の人々を描いていない。農民や老楽士など、ラ・トゥールの出自と比較しても、階層的には低い人々を好んで描いている。この点は、ラ・トゥールが過ごした人生のあり方と関連があるのだろうか。パン屋の息子から宮廷画家の階層まで社会的上昇を達成し、資産や名声にも恵まれた自分の生涯を背負った上でのこうした画題の選択には、画家として多くの思いがあったことが想像できる。
Picture
Courtesy of Olga's Gallery (Original owned by Musée Municipal, Bergues, France)
きわめて著名な画家についても一般的にいえることだが、非常に人気のある作品とそれほどでもない地味な作品がある。ラ・トゥールの場合であれば、「大工の聖ヨセフ」あるいは「いかさま師」シリーズなどが前者であろうか。
画家の名を知らない人でも、クリスマスカードなどにも良く使われているので知っている人も多い。 他方、ラ・トゥールの愛好者?からすると、あまり一般に知られていない作品に次第に強い関心を抱く場合があるように思われる。この「犬を連れたヴィエル弾き」などもそのひとつではないか。ラ・トゥールの比較的初期の時代の作品と推定されているが、その当時好まれた画題でもあるようだ。複数の同じ画題の作品が現存しており、ラ・トゥールが、時代の日常生活の中から選び出した、いわばシリーズのひとつである。「老男」「老女」などにつながるところがある。
今は古楽器となったヴィエル(ハーディ・ガーディ)を弾いて、町や村を歩いてまわった辻音楽士を描いた作品である。理由は必ずしも明らかではないが、他の画家の作品でもヴィエル弾きは、盲目の老人として描かれている。ハンディキャップを負った人たちが生計を立てる上で、当時残された数少ない職業類型だったのかもしれない。
この絵に私が接したのは、「ラ・トゥールとの出会い」に記したが、30余年前になる1972年のオランジュリーでの展示であった。今回の国立西洋美術館での「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展のカタログによると、オランジュリーでの展示までは、ラ・トゥール以外の名前も挙げられ、画家の特定も十分なされていなかったようである。その後、少なくもラ・トゥールの「工房」の作品であるらしいことまではほぼ推定が進み、痛みのひどかった作品の修復もオランジュリー展に合わせて行われたらしい。
実物に接すると分かることだが、作品が等身大に近い186x120cmという大きさである。それだけに大変な迫力もある。盲目の楽士が観る者に向かって歩みながら歌っているような実感がある。しかも「豆を食べる人々」や「老男」「老女」などと比較して、衣服も粗末であり、老楽士の容貌から漂泊の旅に日々を過ごしていることが直ちにみてとれる。これは、同じ主題を扱った他の作品についても指摘できるが、この作品の場合、とりわけ哀切感が画面に強く漂っている。それは、他の作品には描かれていないが、老楽士の足下に坐る子犬の表情からもうかがわれる。犬の傍らに置かれた小石との対比で、この子犬がいかに小さな存在であり、それでいて盲目の老楽士にとっては、苦難の多い旅路での大切な伴侶であることを切々と訴えている。旅に疲れた老楽士を支えるかのような、この子犬の存在感は大きい。この子犬が描き込まれていなかったら、画面の印象はかなり変わる。この絵を見る機会があったら、ぜひ犬の表情をしっかり見てほしい。
少なくとも現存する作品から判断するかぎり、ラ・トゥールは当時の風俗画に属する作品以外では、自分たちと同等あるいは上流とみなされる社会階層の人々を描いていない。農民や老楽士など、ラ・トゥールの出自と比較しても、階層的には低い人々を好んで描いている。この点は、ラ・トゥールが過ごした人生のあり方と関連があるのだろうか。パン屋の息子から宮廷画家の階層まで社会的上昇を達成し、資産や名声にも恵まれた自分の生涯を背負った上でのこうした画題の選択には、画家として多くの思いがあったことが想像できる。
Picture
Courtesy of Olga's Gallery (Original owned by Musée Municipal, Bergues, France)