今日は国立西洋美術館「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展初日、運良く連続講演会の初回も聴講することができた。講師はジャン・ピエール・キュザン氏(元ルーヴル美術館絵画部長)と日本のラ・トゥール研究の第一人者田中英道氏(東北大学教授)であり、願ってもない機会だった。
キュザン氏はラ・トゥールに関して、4つのテーマに整理して短い講演をされた。すなわち、1)イコノグラフィの観点、2)夜と昼の情景、3)真作と偽作(あるいはコピー)、4)主題の反復性についてである。 ひとつのラ・トゥールか、複数のラ・トゥールか。
田中英道氏は、ラ・トゥールの作品の判断を、キュザン氏の想定する基準よりもかなり高い精神性と画家の天性に基準を置いて話をされた。結果として、短いプレゼンテーションに引き続いて行われた両者のディスカッションは、複数のラ・トゥールか単一のラ・トゥールかというきわめて難しい次元の議論となった。すなわち、田中氏の基準に従えば、ラ・トゥールの息子エティエンヌの手になると思われる作品、工房における作品だが、ラ・トゥールの手があまり入っていないと思われる作品あるいは模写などは、当然判定枠から外れることになる。
難しい選択基準の設定
他方、キュザン氏の観点からすれば、宗教画、世俗画、作品の優劣を含めて、かなり幅のある選択基準が設定されることになる。ラ・トゥールが世俗的にも評価の難しい人生を過ごしたことが判明しているだけに、作品に込められた高い精神性や作品世界への没入度と世俗の関係が、後世の人間にとってはきわめて判定が難しい問題となる。すでに17世紀初めにおいて、ラ・トゥールはロレーヌばかりでなく、パリにおいても宮廷を中心に名の知られた画家となっていた。世俗や名声への傾斜、高い精神性の世界への埋没など、複数の顔を持つ画家と成っていた可能性は高い。
キュザン氏が指摘したが、ラ・トゥールの作品は主題の解釈についても、多くの可能性を残している。この「ラ・トゥールの小部屋」でも取り上げた「金の支払い」にしても、取り立てているのは、これまでは支払いを迫られている側と思われてきた一見実直そうな男が取り立て役人(?)だとの解釈も確かにできそうではある。ラ・トゥールの絵には、こうした謎が多く、画家はそれを仕掛けて楽しんでいる風でもある。
今回の特別展の目玉のひとつでもある「蚤をとる女」も、実際は腕飾りのジェット(黒玉)を見ているという解釈も不可能ではない。「蚤をとる女」というテーマが、当時ある程度の流行をみせていたとはいえ、ラ・トゥールの他の作品と比較しても、きわめて卑俗なテーマである。といっても、この作品にはそうした卑俗さを直接的に感じさせる要素はほとんどない。400年近い時空をさかのぼり、ラ・トゥールの生きていたロレーヌの時代空間をなんとか仮想体験するという原点への回帰を試みないかぎり、画家の実像は推し量れないと想われる。
秘められた寓意
ラ・トゥールの作品には、後世の人が正しく理解しているか否かは別として、なんらかの寓意や暗喩が込められたものが多いようにみえる。その点では、「豆を食べる人々」(c. 1620-22, ベルリン国立美術館蔵)も、画家がいかなることを思い浮かべて題材を選んだのか、やや理解が難しいところがある。 絵は農民の夫婦が素朴な陶器から豆のスープを食べている光景である。「老男と老女」と比較すると、主題はより絞られているといえるかもしれない。きわめて綿密に考えられた位置取りで、描写がなされている。(一寸、絵の上下が詰まった感じがするが、実は後世において切断されているとの説もある。)貝殻あるいは木の短いスプーンを使っているのか、直接手で口に運んでいるのかは不明で読み取れない。しかし、きわめて綿密に描写されている。画家が、油彩の技法を十分マスターしていることが感じられる。
これまで見てきた2作よりも手慣れた筆致が感じられる。繊維の質感すら体験できそうな衣服の微妙な濃淡などからその点は十分うかがわれる。「税を支払う男」などと比較しても、ぎこちないところや不自然なところがない。 自然のままの人物像 描かれた人物はおそらく農民であり、当時の社会階層として決して高い水準に位置する人々ではない。しかし、そこには貧困や飢餓の影のようなものは感じられない。宗教的な含意らしき要素も感じられない。きわめて自然に描かれたという印象が強い。といって、画家がなにも思い浮かべることなく、これだけの作品を残したとは考えられない。ラ・トゥールはここにおいても、われわれに謎を投げかけている(2005年3月8日記)。
Picture: Courtesy of Staatliche Museen zu Berlin