身近かになったキリストの使徒たち
「聖小ヤコブ」 c. 1615-1620. Oil on canvas. Musée Toulouse-Lautrec, Albi, France.
ラ・トゥールはその生涯に、いくつかの連作、シリーズ物を生み出している。その中に「キリストとアルビの12使徒」と呼ばれる一連の作品がある。今日の段階で、真作として確認されている点数は、最近発見された作品を含めて6点にとどまっているが、模作を含めて画家が意図したシリーズの内容はかなり明らかにされている。また、最近では科学的技法を駆使しての研究(注)も行われている。その中から私の印象に残る一枚を選んでみた。
ラ・トゥールの作品を見ていると、時に昼夜、聖俗の世界についてかなりクリティカルな目を要求されているなあと思うことがある。ラ・トゥールと同時代の人々には共有されていたと思われる「知的継承」が、400年近い時空の隔たりの間に失われており、見る側も努力をしなければ、画家の真意を把握できないものがある。この12使徒シリーズについても、それが感じられる。
ここに取り上げる「聖小ヤコブ」(英語ではSt. James the Minor, or James the Less)は、キリストの親戚筋でもあり、容貌が大変キリストに似ていたといわれている。聖大ヤコブSt. James the Greater(最近ラ・トゥールによる真作が発見された)と区別するため “the Minor/the Less”という語が付加されている。ちなみに聖小ヤコブは、キリストの没後、使徒たちが各地に離散した後、パレスチナに残り、イエレサレムの最初の司教になったと伝えられる。 聖小ヤコブの説教などについては、他の使徒ほど伝えられていない。また、しばしば聖大ヤコブと混同もされてきたようだ。
戻ってきた使徒たち
キリスト教の歴史に詳しくはないが、ラ・トゥールの使徒像はどれをとっても、それまでに制作された他の画家の使徒と比較して、普通の人々との距離感が少ない。言い換えると、ラ・トゥールが描いた使徒像はいずれも16-17世紀に生きていた普通の人々とあまり変わりないように思われる。先人の画家、たとえばルーベンスやヴァンダイクあるいはクラナッハの描いた使徒は、いかにも「聖人らしく」描かれている。使徒は聖・俗二つの世界を結びつけるいわば仲介者の役割を担った人々である。ラ・トゥールは、使徒のイメージをむしろ普通の人に近づけることを明らかに意図して描いたようだ。
それでも、ラ・トゥールの「聖小ヤコブ」は一見して威厳を秘めた人物として描かれている。しかし、少し落ち着いてみると、いずれの使徒も、日常はさまざまな分野で働き、しばしば戸外で労働生活を送っている人々がモデルのようだ(ラ・トゥールのシリーズの中では、「聖アンドレ」と大変似ているように思われる。同じモデルかもしれない)。聖小ヤコブの場合も、これまで彼が生きてきた年輪を感じさせる皮膚の色、しわ、ひげ、髪の色、そして手指に刻まれた労働の跡などが、克明に描き出されている。身につけている衣服の色彩に表現された時の経過も、素晴らしいリアリズムの成果である。
右手にはおそらく肩にかけるふりわけの荷物、左手に太い木の枝を握っている。これは聖小ヤコブであることを示すアトリビュート(象徴的な持ち物)である。すなわち、聖小ヤコブは毛織物を木の棒で叩いて柔らかくすることを仕事としており、その棒で殴られ殉教したと伝えられている。
近くにいる聖小ヤコブ
描かれた聖小ヤコブは、内に秘めた強い意思を感じさせるが、普通の人々との間に距離をおいて、高いステイタスの持ち主として君臨する、近づきがたい聖人・使徒のイメージではない。人々が日常、町や農耕の仕事の場で出会うかもしれないような人々である。ラ・トゥールがモデルとしたのは、ほとんどが当時の農民あるいはそれに近い社会階層の人々であった。日々の生活の規律に従い、勤労の厳しさに耐えることを通して、神の世界に近づくことができるという思いを実感させてくれる使徒像が、ラ・トゥールの意図したものであった。
アルビの「キリストと12人の使徒」がいかなる目的のために描かれたか、初期の歴史はよく分かっていない。おそらく教会、修道院などのため、もしかするとパトロンの依頼によるものであったのかもしれない。
ラ・トゥールはなぜ、それまでの使徒像とは異なるイメージを導き入れたのか。いくつかのことが考えられる。ロレーヌは、私も訪れてみて初めて実感したことだが、16世紀初めに生まれたカソリック改革(反宗教改革)の前線地帯であった。宗教改革は新教プロテスタントの側から、カソリック(旧教)への挑戦であったが、カソリック改革(反宗教改革)はいわば体制側からの巻き返しであった。教義の神秘化、使徒の神格化などが進み、キリストと世俗の人々との距離が開いてしまったことに対する、プロテスタントからの批判に応えねばならなかった。確かに、すでにこの時代において、使徒、聖人のイメージと世俗の人々の距離は大きく乖離していたのだろう。教会や使徒たちをもっと人々の身近なものに取り戻さねばならないというカソリック改革の使命を、ラ・トゥールは画家として敏感に感じ取り、自らの作品に具象化していったと思われる。
時代の風向きを感じていた画家
アルビの使徒シリーズを通して、ラ・トゥールはロレーヌの宗教社会に教会が期待する方向での貢献をしたのではないか。結果としてみると、ラ・トゥールより20年ほど前のローマにおいて、カラヴァッジョが行った革新と似ている部分があったように思われる。
カラヴァッジョのカソリック改革美術への最も顕著な貢献は、それまで幾度となく語られてきた宗教上の真実を日常世界との直接的な関連で、再現したことであった。これはある意味で、既成のイメージに対する偶像破壊的衝撃であったにちがいない。
ラ・トゥールが実際にローマに行ったか、あるいはカラヴァッジョの作品に接したかといった詮索は別として、間接的にもなんらかの影響を受けたことはほぼ間違いない。カラヴァッジョはラ・トゥールの時代にはもう伝説的話題の画家であったと思われる。ちなみに、カラヴァジョは1610年に没している。ロレーヌばかりでなく、同業の工房の世界には、新しい試みや時代の好みは直ちに伝わったはずである。そうした話は、ラ・トゥールにとって新たな創造欲をかき立てるものであったろう。事実、この天賦の才に恵まれた画家は、聖俗を含めて時代の風向きに大変敏感であった。
ラ・トゥールは自らが感じた時代への対応の必要をカラヴァッジョのように激しい形ではなく、ロレーヌの風土に合うような、柔らかな形で持ち込んだ。リアリズムによる描写を通して、使徒の存在を身近なものとすることで、それを行ったのである。それまでの使徒のイメージと比較すると、粗野な雰囲気を漂わせているが、それは宗教を時代の人々に近づけるという課題を果たす上で必要であったのだろう。今なお田園風景が残るようなヴィックやリュネヴィルのごとき小さな町の礼拝堂や修道院には、きわめて適切な作品だった。
ラ・トゥールは、画家としての天才的才能を持ち大きな成功を収めながら、他方で世俗的社会における成功者でもあった。名声や金銭欲も強く、したたかな日常生活を過ごしていたと見られる。そうした人生経歴を経てきたラ・トゥールは、ロレーヌの社会の中で生きて行くために、時代の変化や流れを他の人々以上に敏感に感じ取っていたと思われる。それこそが、ラ・トゥールが世俗と芸術の二つの世界を巧みに生き抜くための知恵でもあった(2005年3月16日記)。
(注)C2RMFフランス博物館科学調査・修復センター(パリ)は、「ラ・トゥールの12使徒」の科学的調査・研究に関するDVDを2004年4月に完成した。その日本語版が発売されている。