2004年11月2日、アムステルダムの映画監督テオ・ヴァン・ゴッホが暗殺された。暗殺者は若いモスレムの過激主義者であり、脅迫状で予告していた。ヴァン・ゴッホは著名な画家ヴィンセント・ゴッホの血筋をひいているが、イスラーム社会における女性への不当な扱いを映画化し、そのうらみを買った。この映画はオランダのリベラルな政治家アヤン・ヒルシ・アリとの共作であったが、アリはソマリアからの難民であり、政略結婚から逃れてオランダに入国を求めた経緯があった。彼女もヴァン・ゴッホと同様な脅迫状を受け取っていた。ヴァン・ゴッホは、2002年に暗殺された反イスラーム、反移民の政治家ピム・フォルティンの支持者でもあった。
アムステルダムでは、直ちに大規模なデモが展開し、イスラームの学校や寺院への報復が行われ、さらにエスカレートしてキリスト教会への報復行為に拡大した。ハーグでの暗殺者の隠れ家捜索では手榴弾が飛び交い、警官の重傷という事態にまでいたった。オランダのイスラーム人口は約100万人で、人口比の約0.5%である。
3月11日には、マドリッドでの列車爆破事件もあっただけに、この問題は、オランダばかりでなく、瞬く間にヨーロッパ全体の問題となった。暗殺者は、自らの行為をヨーロッパ全体に対するジハード(聖戦)とする文書を残していた。オランダはヨーロッパ諸国の間でも、多文化主義を標榜してきた国である。それだけに、この事件は大きな波紋を呼んだ。リベラルな社会は、不寛容さに対してどれだけ寛容でありうるかという問いが突きつけられたといってよい。
過去20年間、オランダ社会はイスラーム移民の増加に対しても、イスラームの権利を保護し、文化を受け入れてきた。大きな衝突を生むことなくキリスト教徒とイスラーム教徒とが共存して行くためには、それしかないと本能的に感じたためだろう。しかし、それがたどり着いた今日の段階において、オランダが目指してきた多文化主義とは相容れない宗教を信じる人々への寛容さは、大きく揺らいでいる。
2002年には反イスラームの代表的存在でもあったピム・フォルティンが暗殺されたことで、政治的活動は崩壊したと思われた。しかし、その後も火種は尽きず、さまざまな場で反イスラームの右翼主義者が活動してきた。オランダはこれまで、寛容な国であることを自他ともに誇りにしてきた。オランダの移民担当大臣リタ・フェルドンクは、オランダが長年にわたり、過激なイスラーム原理主義者を許容してきたことを悔やむと公言した。その後、政府は冷静に行動するよう呼びかけてはいるが、現実にはオランダばかりでなく各国で、移民政策は入国者に厳しくなり、とりわけイスラーム原理主義者の取り締まりに向かっている。
フランスではかつての内務大臣で現在は大蔵大臣のニコラス・サルコジが、「私が好きであろうと嫌いであろうと、イスラームはフランスで第二の宗教である。したがってイスラームをもっとフランス化して受け入れる以外にない」と述べている。フランスには5百万人を超えるイスラーム人口がいるが、現政府は一方では過激主義者も陣営内に取り込むことで押さえ込んで来た。そして、他方ではトラブルメーカーには、強力な安全保障対策で対してきた。フランスは、反テロイズムという点ではきわめて厳しい政策を採用してきた。
ドイツは3-5百万人のイスラーム住民を抱えているが、暴力に対する恐怖とジハードはどうしてか小さい。ドイツのイスラーム教徒のほとんどはトルコ(260万人)あるいはボスニア(17万人)出身であり、彼らの配偶者もイスラームであるが、全体に穏健である。しかし、ドイツが新たな統合政策を推し進めるにつれて、新たな問題も生まれ、事態は深刻化している。最近では、イスラーム・ラディカルの排斥をする反面、移民にドイツ語クラスを義務づけている。
9.11以降、かつての移民受け入れ国は一様に厳しい入管政策に転じた。2004年11月にはEUの移民担当大臣がオランダに集まり、移民政策についてEUとしての統一的方向に合意した。これは新規に入国を求める外国人に対する柔軟さと強硬さの両面政策の確認である。平和的な政治体制に参加出来るよう救いの手が延べられねばならないし、信仰も尊重されねばならないが、そのために自由が削られることがあってはならないという趣旨である。しかし、現実の場において、EU諸国は各国独自の政策に走っており、その行方は定かではない。
ヨーロッパの寛容さは、いまや試練の時を迎えている。そして、日本も遠からず同様な問題に直面することは必至である。
アムステルダムでは、直ちに大規模なデモが展開し、イスラームの学校や寺院への報復が行われ、さらにエスカレートしてキリスト教会への報復行為に拡大した。ハーグでの暗殺者の隠れ家捜索では手榴弾が飛び交い、警官の重傷という事態にまでいたった。オランダのイスラーム人口は約100万人で、人口比の約0.5%である。
3月11日には、マドリッドでの列車爆破事件もあっただけに、この問題は、オランダばかりでなく、瞬く間にヨーロッパ全体の問題となった。暗殺者は、自らの行為をヨーロッパ全体に対するジハード(聖戦)とする文書を残していた。オランダはヨーロッパ諸国の間でも、多文化主義を標榜してきた国である。それだけに、この事件は大きな波紋を呼んだ。リベラルな社会は、不寛容さに対してどれだけ寛容でありうるかという問いが突きつけられたといってよい。
過去20年間、オランダ社会はイスラーム移民の増加に対しても、イスラームの権利を保護し、文化を受け入れてきた。大きな衝突を生むことなくキリスト教徒とイスラーム教徒とが共存して行くためには、それしかないと本能的に感じたためだろう。しかし、それがたどり着いた今日の段階において、オランダが目指してきた多文化主義とは相容れない宗教を信じる人々への寛容さは、大きく揺らいでいる。
2002年には反イスラームの代表的存在でもあったピム・フォルティンが暗殺されたことで、政治的活動は崩壊したと思われた。しかし、その後も火種は尽きず、さまざまな場で反イスラームの右翼主義者が活動してきた。オランダはこれまで、寛容な国であることを自他ともに誇りにしてきた。オランダの移民担当大臣リタ・フェルドンクは、オランダが長年にわたり、過激なイスラーム原理主義者を許容してきたことを悔やむと公言した。その後、政府は冷静に行動するよう呼びかけてはいるが、現実にはオランダばかりでなく各国で、移民政策は入国者に厳しくなり、とりわけイスラーム原理主義者の取り締まりに向かっている。
フランスではかつての内務大臣で現在は大蔵大臣のニコラス・サルコジが、「私が好きであろうと嫌いであろうと、イスラームはフランスで第二の宗教である。したがってイスラームをもっとフランス化して受け入れる以外にない」と述べている。フランスには5百万人を超えるイスラーム人口がいるが、現政府は一方では過激主義者も陣営内に取り込むことで押さえ込んで来た。そして、他方ではトラブルメーカーには、強力な安全保障対策で対してきた。フランスは、反テロイズムという点ではきわめて厳しい政策を採用してきた。
ドイツは3-5百万人のイスラーム住民を抱えているが、暴力に対する恐怖とジハードはどうしてか小さい。ドイツのイスラーム教徒のほとんどはトルコ(260万人)あるいはボスニア(17万人)出身であり、彼らの配偶者もイスラームであるが、全体に穏健である。しかし、ドイツが新たな統合政策を推し進めるにつれて、新たな問題も生まれ、事態は深刻化している。最近では、イスラーム・ラディカルの排斥をする反面、移民にドイツ語クラスを義務づけている。
9.11以降、かつての移民受け入れ国は一様に厳しい入管政策に転じた。2004年11月にはEUの移民担当大臣がオランダに集まり、移民政策についてEUとしての統一的方向に合意した。これは新規に入国を求める外国人に対する柔軟さと強硬さの両面政策の確認である。平和的な政治体制に参加出来るよう救いの手が延べられねばならないし、信仰も尊重されねばならないが、そのために自由が削られることがあってはならないという趣旨である。しかし、現実の場において、EU諸国は各国独自の政策に走っており、その行方は定かではない。
ヨーロッパの寛容さは、いまや試練の時を迎えている。そして、日本も遠からず同様な問題に直面することは必至である。