時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

国際会議のひとこま(2)

2005年03月10日 | 会議の合間に

 世界には風光明媚といわれる所はきわめて多いが、スイスのモントルー・ヴェヴェイほど360度、どこを向いても絵になる場所は少ないだろう。町の後方は白壁の美しい民家やホテルがぶどう畑に点在し、アルプスに続く山々が町を支えるように展開している。全面は美しいレマン湖に面し、湖の背景には朝夕は荘厳なほどのアルプスの山々が屹立している。「スイスのリヴィエラ」ともいわれるが、観光地化が進んだリヴィエラよりはるかに美しいのではないかとさえ思われる。レマン湖の東の端に位置するこの地域は、古くはバイロン、リルケ、ディッケンズ、トルストイ、ワグナー、チャイコフスキー、そして新しいところではチャップリン、オードリー・ヘプバーンなど、数々の文人、音楽家、映画俳優などが長期に滞在し、晩年を過ごしている。
 ジュネーブ、ベルン、ローザンヌなどは、ILOの会議その他で何度か訪れたことがあるが、モントルー・ヴェヴェイは、ILOの会議でジュネーブを訪れ、レマン湖の遊覧船に乗った時に湖上から眺めたことはあったが、それ以外には機会がなかった。たまたま、2000年9月にスイス政府、国連諸機関などの共催する国際会議に講演者として招きたいという話があり、夏季休暇中ということもあって、あまり深く考えることもなく引き受けてしまった。モントルー・ヴェヴェイならばぜひ行ってみたいという潜在意識も強く働いていたようだ。

IAOS 国際会議
 会議のタイトルは、「統計、発展と人権」という一見すると、3題噺みたいなもので、いかなる関係を想定して設定したのか判然としなかった。しかし、正式なプログラムが送られてきて分かったことは、これが国際公式統計協会(International Association of Official Statistics: IAOS)の2000年記念会議ということである。この会議を組織したのはスイス連邦統計局およびスイス開発・協力局だが、共催機関はILO、UNICEF、EC共同体統計委員会、EUROSTAT、国連人権高等弁務官事務所、国連ヨーロッパ経済委員会など15を越える機関である。     
 会議は大変大規模なものであり、最近の通例としてインターネット上に事務局によるホームページが開かれ、公式招待者のペーパーは、会議前から公開されるという方式がとられた。これまでのように多数のペーパーをあらかじめ印刷して、会議開催の登録時に参加者全員に配布するという無駄の多い仕事が回避された。自分に関連する論文だけを参加者がそれぞれダウンロードするという方法である。
 こうした国際会議に出席すると、登録時に膨大な論文集を時には数冊も渡されるものだから、今回はそれがなくて良い企画と思ったのは早のみこみで、モントルー・ヴェヴェイの観光案内、会場やホテル、レストラン案内、参加者リスト、そして豪華な付帯プログラムの説明・招待状などが入った鞄を手渡されたが、ポータブルPCが入っているのではないかと思うくらいの重さであった。
 私に依頼があったテーマは、「移民とその社会・経済的影響の測定:アジアにおける労働力移動の主要課題」というものであった。課題が大きすぎるのでためらったが、選考委員会から日本は全招待者の中であなたひとりしか推薦していないのだからと告げられ、引き受けないわけには行かなくなった。
 本会議は9月4日からスタートしたが、成田からモントルーまでは1日で行ける適当な便がない。仕方なく、ロンドンに1泊してジュネーブまで飛び、列車で行くことになった。長い旅であったが、モントルーへ到着してみると、太陽は燦々と輝き、山も湖もたとえようもなく美しい。長旅の疲れもどこかに消え、着いたとたんにせわしない日本へは帰りたくなくなってしまった。世界的な保養地だけにホテルの数は多いが、今回の国際会議がそのほとんどを借り切っても、収容できず、近隣のホテルまで動員している。事務局の予想をはるかに上回る参加者があるためという。やはり、モントルーの魅力はすごいと感じた。しかし、事務局の悩みは環境があまりに素晴らしいので、会議を名目に登録し、どこかへ消えてしまう参加者が多いということであった。すべてのセッションに出たわけではないので、はっきりしたことは分からないが、大会議場などでの講演は6~7割の出席であった。事務局が用意してくれたホテルは、有名なシオン城にも歩いて行ける場所で、町中の豪華ホテルではないが、スイスらしい清潔さに満ちていた。

素晴らしい会議運営
 会議場は町の中心部の壮大な国際会議センターである。開会式場はストラヴィンスキー・ホールと名付けられている。ここは、いまや世界に知られた夏のモントルー・ヴェヴェイ音楽祭を始めとしてさまざまな催しが年間を通して行われている町なので、国際会議は慣れたものであり、諸事万端きわめて手際よく進行している。東京で同様な会議を開催した時には、会場探しに始まって随分苦労したが、ここでは、国際会議は日常行事なのである。開会式もスイス連邦政府の閣僚、主催者側の国際機関のお歴々が挨拶し、多彩なプログラムが展開した。  
 EUの成立に伴って加盟諸国の共同による行事は急速に増加しており、主催者が多国籍であるばかりか、使用言語も英語、フランス語、スペイン語、そしてアラビア語であった。国連諸機関が主催者側の一員であることもあって、アフリカ、中東諸国などからの参加者が非常に目立つ会議であった。これだけの規模の国際会議にしては日本人が少なく、会期中にお会いしたのは、立命館大学の先生ひとりだけという最近珍しい会議であった。テーマは人口、労働力、国際労働力移動、難民、戦争、飢饉など、きわめて広範な領域にわたる問題を、統計、経済発展と人権の関係で論じるものである。国際統計学会が主催者のひとつであるため、いずれのセッションも、統計との関わり合いを常に重視するという難しいテーマである。

国際色豊かなセッション
 ちなみに私のセッションは、国際統計学会の特別テーマとして設けられた2つのうちのひとつであった。座長はフィンランドの統計局長(女性)、発表者はアメリカ、スエーデン、モロッコ、日本、コメンテイターはEUの人権委員会委員、元厚生大臣( ポルトガル)であった。移民労働(外国人労働者)の問題は、世界的にも注目を集めているだけに、時間切れまで議論と質問が続いた。しかし、この問題は立場によって見解が大きく異なるだけに、論争は止まるところがない。たとえば、発表者の一人はモロッコの代表、コメンテイターはポルトガル出身で、送り出し国と受け入れ国という意味で対立した関係にある。通訳者から定刻も過ぎていることだから終わりにしてほしいという要求が出されて終止符を打った。
 学術会議としての中心的課題や議論の内容は別にして、若い世代の研究者のために、いくつかの感想を記しておこう。第一は、講演や発表がコンピュータ・ソフト、とりわけパワーポイントを使った視覚に訴えるものが非常に増加したことである。今回の会議も100本を越える発表があったが、半数近くはコンピュータからの投影あるいはOHPが使用されていた。これだけソフトウエアが発達しても、昔ながらのモノクロのOHP用紙に、読みにくい手書きで要点を記した発表も結構多い。他方、動画を含むソフトウエア技術の面では大変こったものもあるが、概してこうした発表は内容が伴っていないものが多く、評判はいまひとつなのは面白い。やはり、学会は発表論文の質で評価されていることを感じて安心する。 
 第二に、学問が専門化、細分化が進み、弊害も多い。学会での批判を回避しようと理論を精緻化し、標本抽出などの点で技術的な配慮が払われていることは認められるのだが、自分の設定した機能的に計測可能な理論に合致するようなケースだけが選定されているような発表が多く、かえって一般性を疑われるようなものが多くなっている。今回の会議でも、こうした発表がしばしば批判の集中砲火にあっていた。   
 第三に、今回の会議は統計学者ばかりでなく、経済学、政治学、法律学などの分野の参加者も多かったので、過度な専門化への批判、反省もみられた。なかでも、アメリカからの参加者の多くが上述の狭小な専門化へ傾斜している傾向が強いため、ヨーロッパその他の地域からの参加者は不満なようであった。 
 この国際会議に限らず、こうした会議は学会メンバーや関係者の再会の場でもある。今回の会議では、この点にも多大な配慮が払われていた。特に、注目したのは、インターネット・カフェという名前がつけられた一室に、20台くらいのコンピュータ端末が設置され、関連する論文をプリントアウトし、メールを交換することができる場が準備されていたことである。。中東諸国からの参加者と見られる黒いヴェールで身を包んだ女性の隣で、カラフルな衣装のアフリカ諸国からの参加者が、PC に向かっている姿は、世界が大きく変わっていることを強く印象づける光景であった(2000年9月9日記)。

旧ホームページから一部加筆の上、転載。

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揺れ動くEU移民政策

2005年03月09日 | 移民の情景
 日本における移民や外国人労働者に関する論調を見ていると、違和感を覚えることが多い。そのひとつは、しばしばジャーナリズム主導で、あたかも「国境開放」が是、「制限」は非という論理が半ば一方的に展開されることである。移民の「統合」は規定路線、「制御」は時代錯誤というとらえ方も多い。しかし、世界各国の移民政策の推移をつぶさに観察していると、現実はそれほど単純なものではないことが分かる。近年のアメリカ、EU諸国などの対応に、各国の抱える苦悩と問題が反映されている。アメリカとメキシコのように、日本と中国が地続きであったら、いかなる状況が展開しているだろうか。地政学的状況を念頭に置いた上で、複雑な実態とその底に流れる論理を正確に理解しないかぎり、移民政策の方向判断を誤りかねない。EUの域内でも国ごとに対応は、きわめて異なっている。最近、移民政策の転換に着手したイギリス、スペインの実態を見てみよう。

ドアが狭められるイギリス
 イギリス政府は、移民政策の対象を、これまで生計を立てるために働きにくる(1)出稼ぎ移民と(2)難民申請者あるいは不法労働者として入国してくる者とに二分してきた。前者には比較的寛容でルールを緩め、定住への道を提供し、後者には厳しい法律的措置と法的権利の剥奪で対応してきた。2005年2月7日に公布された新しいプランは、この区分を廃止した。といって、政府が難民申請者や不法労働者に優しく対応するようになったわけではない。労働党の案が法制化されれば、難民申請者にはドアは閉ざされ、5年経過の後に母国の状況が改善されていれば、強制送還ということになる。不法労働者を雇っている使用者には罰金が科せられる。
 与党・労働党は、外国人労働者、学生、配偶者に厳しく対応する考えである。特に大きな変化は不熟練労働者への対応で、市民権獲得を目指すことは困難になろう。イギリスは、不熟練労働者の定着を極力避けようとしてきた。これらの方向は、難民申請者、不法移民を受け入れない政策を具体化するものである。将来は、これまで比較的寛容であった家族の受け入れも厳しくなるだろう。労働許可が下りなかったり、学生査証を拒否された者は、アッピールすることを認められない。
 医師、技術者、IT専門家など、熟練労働者の場合は、現在の基準とさほど変化はないが、カナダやオーストラリアなどですでに採用されているポイント・システム(教育や技能などの水準を項目ごとに点数化)を政府は提言している。家族の呼び寄せも規制される。入国前に英語能力試験に合格するという条件がつくだろう。
ドイツも2005年1月に移民法を改正しており、それまであまり受け入れが進まなかった高度な技術や知識を持つEU域外からの労働者に定住許可を与えることにしたほか、移民にドイツ語の受講を義務づけた。ドイツ語圏のオーストリアなども外国出身者にドイツ語習得を義務づける「外国人同化政策関連法」(2003年施行)している。ドイツの場合、外国人観光客誘致拡大の意味もあって2000年3月にヴィザ発行要件を緩和したが、結果として闇の労働者が増加したり、犯罪者が多数入国するなどの予想しなかった結果に、フィッシャー外相への批判が集中するなどの事態が発生している。総体としてみると、EU諸国では移民を制限する方向にあるが、これらの国々とは異なった方向を選択する国も現れた。

ドアが開かれるスペイン
 2005年2月から、スペインでは「半年以上滞在した不法移民に就労ビザを与えて合法化する」という手続きが始まった。この資格取得のためには自国での無犯罪の証明などが、合法化申請のために必要である。しかし、今回は条件が大幅に緩められ、100万人といわれる不法移民のうちで80万人が対象となる見込みで、過去最大の合法化措置となる。
 より詳細は、6ヶ月以上スペインに住む不法就労者に1年間の就労ビザを与えることを目指している。適格であるためには、1)正式な雇用契約がある、2)居住する自治体に住民登録している、3)出身国とスペインで犯罪歴がない、が条件となっている。5月7日までに、使用者が申請手続きをする。期間後も不法移民を雇い続けた使用者には、移民1人あたり6万ユーロ(約840万円)以下の罰金が科せられる。
 スペインでは、不法雇用や密入国斡旋など闇経済が拡大し、その除去が必要となっていた。不法移民が増加する理由は、雇用する側が安い労働力を求めるからである。合法化して使用者に社会保険料を納めさせれば、移民は劣悪な労働環境から解放され、移民増加による財政負担も減らせるという発想である。申請を移民本人ではなく、使用者が行うのもそのためである。
 この新政策については、国内でも保守派の側から「移民に甘い国という印象を広げるだけ。かえって合法化を期待して不法移民が増える」という反発もある。EUはほとんど国境審査がないため、スペインで合法化された移民が大挙して周辺国に流入する懸念もある。ドイツとオランダは「他のEU加盟国と協調した移民政策をとるべきだ」とスペインの独断専行に苦言を呈している。これらの国では、移民増加はすでに高率となっている失業率をさらに悪化させることが懸念されている。
スペインでは北欧や独仏よりも早く少子高齢化が進行しており、合計特殊出生率は日本と同じ1.29という低水準である。移民に頼らなければ今の成長が維持出来ないとの危機感もある。
 しかし、拡大したばかりのEUにとって、最前線の国境で東欧、ロシア、中国、アフリカなどから進入を企てる膨大な労働者の圧力に対処するのに懸命になっている時に、内部の加盟国間で移民、難民申請者などへの政策方向が異なるというのも頭痛の種である。
 欧州委員会は、これまでにも共通移民政策の設定に努力を続けてきたが、移民の数の管理は、各国政府の裁量に委ねられており、共通政策への合意、導入は実現するとしても未だかなり先のことであろう(2005年3月9日記)。


注:関連記事「欧州、移民政策巡り摩擦」『日本経済新聞』2005年3月9日。
写真は2月5日、220人以上のアフリカ人を乗せ、カナリア諸島沿岸で漂流していた漁船(ロイター/Carlos Guevara)

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ラ・トゥールを追いかけて(6)

2005年03月08日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

  今日は国立西洋美術館「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展初日、運良く連続講演会の初回も聴講することができた。講師はジャン・ピエール・キュザン氏(元ルーヴル美術館絵画部長)と日本のラ・トゥール研究の第一人者田中英道氏(東北大学教授)であり、願ってもない機会だった。
 
  キュザン氏はラ・トゥールに関して、4つのテーマに整理して短い講演をされた。すなわち、1)イコノグラフィの観点、2)夜と昼の情景、3)真作と偽作(あるいはコピー)、4)主題の反復性についてである。 ひとつのラ・トゥールか、複数のラ・トゥールか。 

  田中英道氏は、ラ・トゥールの作品の判断を、キュザン氏の想定する基準よりもかなり高い精神性と画家の天性に基準を置いて話をされた。結果として、短いプレゼンテーションに引き続いて行われた両者のディスカッションは、複数のラ・トゥールか単一のラ・トゥールかというきわめて難しい次元の議論となった。すなわち、田中氏の基準に従えば、ラ・トゥールの息子エティエンヌの手になると思われる作品、工房における作品だが、ラ・トゥールの手があまり入っていないと思われる作品あるいは模写などは、当然判定枠から外れることになる。

難しい選択基準の設定 
  他方、キュザン氏の観点からすれば、宗教画、世俗画、作品の優劣を含めて、かなり幅のある選択基準が設定されることになる。ラ・トゥールが世俗的にも評価の難しい人生を過ごしたことが判明しているだけに、作品に込められた高い精神性や作品世界への没入度と世俗の関係が、後世の人間にとってはきわめて判定が難しい問題となる。すでに17世紀初めにおいて、ラ・トゥールはロレーヌばかりでなく、パリにおいても宮廷を中心に名の知られた画家となっていた。世俗や名声への傾斜、高い精神性の世界への埋没など、複数の顔を持つ画家と成っていた可能性は高い。 

  キュザン氏が指摘したが、ラ・トゥールの作品は主題の解釈についても、多くの可能性を残している。この「ラ・トゥールの小部屋」でも取り上げた「金の支払い」にしても、取り立てているのは、これまでは支払いを迫られている側と思われてきた一見実直そうな男が取り立て役人(?)だとの解釈も確かにできそうではある。ラ・トゥールの絵には、こうした謎が多く、画家はそれを仕掛けて楽しんでいる風でもある。

  今回の特別展の目玉のひとつでもある「蚤をとる女」も、実際は腕飾りのジェット(黒玉)を見ているという解釈も不可能ではない。「蚤をとる女」というテーマが、当時ある程度の流行をみせていたとはいえ、ラ・トゥールの他の作品と比較しても、きわめて卑俗なテーマである。といっても、この作品にはそうした卑俗さを直接的に感じさせる要素はほとんどない。400年近い時空をさかのぼり、ラ・トゥールの生きていたロレーヌの時代空間をなんとか仮想体験するという原点への回帰を試みないかぎり、画家の実像は推し量れないと想われる。

秘められた寓意 
  ラ・トゥールの作品には、後世の人が正しく理解しているか否かは別として、なんらかの寓意や暗喩が込められたものが多いようにみえる。その点では、「豆を食べる人々」(c. 1620-22, ベルリン国立美術館蔵)も、画家がいかなることを思い浮かべて題材を選んだのか、やや理解が難しいところがある。  絵は農民の夫婦が素朴な陶器から豆のスープを食べている光景である。「老男と老女」と比較すると、主題はより絞られているといえるかもしれない。きわめて綿密に考えられた位置取りで、描写がなされている。(一寸、絵の上下が詰まった感じがするが、実は後世において切断されているとの説もある。)貝殻あるいは木の短いスプーンを使っているのか、直接手で口に運んでいるのかは不明で読み取れない。しかし、きわめて綿密に描写されている。画家が、油彩の技法を十分マスターしていることが感じられる。

  これまで見てきた2作よりも手慣れた筆致が感じられる。繊維の質感すら体験できそうな衣服の微妙な濃淡などからその点は十分うかがわれる。「税を支払う男」などと比較しても、ぎこちないところや不自然なところがない。 自然のままの人物像  描かれた人物はおそらく農民であり、当時の社会階層として決して高い水準に位置する人々ではない。しかし、そこには貧困や飢餓の影のようなものは感じられない。宗教的な含意らしき要素も感じられない。きわめて自然に描かれたという印象が強い。といって、画家がなにも思い浮かべることなく、これだけの作品を残したとは考えられない。ラ・トゥールはここにおいても、われわれに謎を投げかけている(2005年3月8日記)。

Picture: Courtesy of Staatliche Museen zu Berlin

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アジアの移民世界:厳しくなる入国管理

2005年03月07日 | 移民政策を追って
 グローバリゼーションは、移民・外国人労働者の世界を大きく変えつつある。とりわけ、アジア諸国の発展に伴い、労働力の送り出し、受け入れの状況はダイナミックに変化してきた。かつては自国労働者を海外に送り出していた国も、経済水準が上昇するとともに、送り出しを止め、次第に受け入れ側に変化して行く。北東アジアでは、日本、韓国、台湾、香港などは、すでに完全な受け入れ国に変容している。東南アジアでは、シンガポール、タイ、マレーシアなどが、受け入れ国に移動しつつある。しかし、方向は決して一方的に「開放」に向かっているわけではない。日本にはこの点、ジャーナリズムを中心に誤解や理由のない開放論者が多い。まず、正確に事態を見つめることが大切である。今回は、マレーシアの場合をとりあげよう。
 9.11以降、世界の受け入れ国は自国に滞在している不法労働者を減少させるために、入国管理措置を厳しくしている。日本もそのひとつだが、ここで紹介する例は、マレーシアである。マレーシアには2004年時点で約130万人の合法外国人労働者、70万人の不法労働者が働いていると推定されていた。同国政府は、基本的に自国民優先の政策を推進している。その一環として、2005年3月1日に、同国政府は約500人の移民取締官を動員し、クアラルンプールの不法労働者を摘発する動きに出た。この3月1日の捜索では、62人が逮捕され、収監、罰金、むち打ちなどの刑に処せられる。
 これに先だって、同政府は不法滞在者であっても、あらかじめ指定した4ヶ月間に入管支局に出頭し、帰国の意思を表明すれば、処罰なしにアムネスティが適用され、優先的に帰国できることにした。2月28日の夜半までにマレーシアを離れていれば罰則対象とはならなかった。
 アジアにおいても、受け入れ国側は経済発展に伴い、次第に自国の利益を優先する入管政策を確立しようとしている。マレーシアの場合、一人あたり所得は隣国インドネシアの3倍、失業率は3分の1までになった。他方、自国労働者は筋肉労働に就くことを次第に忌避するようになった。
 マレーシアでも、入国管理政策を厳密に施行することは困難が伴っている。国境線は複雑で長く、隣国から入国しようとすれば抜け穴だらけである。現在でも100万人近いインドネシア人労働者が入国し、働いている。さらに、不法滞在の形で40万人近くがレストラン、工場、農場、土木建設現場などで働いている。
 この例から明らかなように、国境線の段階で出入国管理政策を目的に添って、十分に機能させるには多大な困難がある。日本の場合も同様だが、入国管理政策は必然的に国境の背後に広がる「社会的次元」へ拡大して設定されねばならない(2003年8月5日記)。


Note:統計数値については、The Economist,March 3-11,2005 を参照。
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ラ・トゥールを追いかけて(5)

2005年03月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

農夫と農婦


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
『農婦』
サンフランシスコ美術館
(画面クリックで拡大)



  前回話題とした「税の支払い」は、その状況からして、絵を見る者に画家がなぜこの主題を選択したか、自ずとその意図をある程度語っていた。当事者の関心が税なのか借金なのか、どちらが支払っているのかなどの疑問は残されてはいる。しかし、この老いた男と女の一対の絵は、ラ・トゥールがなぜこの主題、テーマを選んだのかを直ちに語りかけてこない。

  たまたま、現在の絵の所有者は二枚ともに、サンフランシスコ美術館 The Fine Arts Museums of San Francisco だが、これらの絵が当初から一対のものとして描かれたことを示す証拠も残っていない。絵の大きさ自体もやや小振りなサイズである。しかし、その迫力は大変大きく、印象的である。対としてではなく、一枚の絵画として迫力十分である。ベラスケス級の力作といわれるのも十分納得できる作品である。両者ともやや誇張されているのではないかと思われるほど、上半身に比較して下半身が大きく描かれている。


 
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
『農夫』

サンフランシスコ美術館
(画面クリックで拡大)

  

 主役は男も女も農民を描いたといわれるが、当時の農民にしては男女ともに身につけている衣装が立派なものである。むしろ町の住民に近い。農夫にしても、この衣服で日常の農作業をしていたとは思われない。しかし、描かれている男女の手足や顔に刻み込まれたしわや肌色は時代の風雪に耐えてきたことを思わせ、一通りのものではない。これらの顔や手のしわの描写など、今日の写真に十分匹敵する観察眼で描かれている。細部までしっかりと描き込まれ、強い迫力がある。
 
 男の方は杖と思われる棒で身体を支え、やや目を伏せて、立っている。その頑丈な足腰は圧倒的である。赤い色のズボンに黄褐色の脚絆をつけ、頑丈な靴をつけている。女の方は、当時でも高価であったに違いない、地の厚いしっかりとした絹のエプロン、濃緑色の胴着を身につけている。特にエプロンは見るからに良い素材であり、日常の農業活動ではなく、祭事など特別の折に着る衣服ではないかと考えられる。この絹のエプロンは彼女の自慢する品ではないかと思わせる圧倒的な存在感がある。

 男に比較して、女はいかにも芯の強そうなきつい顔立ちであり、その鋭い眼光と薄い唇は、両者が夫妻だとすれば、夫がたじたじとなりそうな面構えである。その顔立ちは、誰も一度見たら忘れないだろう。それに対して男の方は、実直に長い労働の生活に耐えてきたという頑丈な肢体が印象的である。衣服の素材まではっきりと分からせる描写の腕前、女の上着の見事な刺繍までも十分に描かれている。

  室内で描かれたと見られるが、ラ・トゥールの他の作品同様、いかなる場所であるかを推定させる什器・備品や窓のようなものもいっさい描かれていない。自ずと見る者の視線は、対象に釘付けになる。この対象と背景のコントラストの大きさは、ラ・トゥールの計算通りだが、絵に力強い迫力を与えている。いずれにせよ、両者ともに大変見応えのある作品である。

 



Photo: Courtesy of The Fine Arts Museums of San Francisco.

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ラ・トゥールを追いかけて(4)

2005年03月04日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

  このたびの国立西洋美術館の展示に合わせて、いくつかの美術雑誌などがラ・トゥール特集を組んでいる。そして、いずれもラ・トゥールの出生の地であるロレーヌ地方、ヴィック=シュル=セイユの現在の写真などを掲載している。70年代初めに私が最初に訪れた時もそうであったが、今日でもさびれた小さな町である。

  しかし、ラ・トゥールの両親たちが住み、画家ジョルジュが生まれた当時、16世紀から17世紀初めにかけては、今よりはるかに隆盛であったようだ。モーゼル川の重要な支流セイユ川に沿ったこの町には、中世以来、鍛冶屋、金工職人、織物職人、なめし革職人、大工、樽職人、染め物屋、石工などがいたに違いない。現在も町の周囲にはブドウ畑が広がるが、ワインも醸造されていた。水車がまわり、人々はそれぞれの職に日々を過ごしていた。  

  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールはそうした環境の下で、1593年3月14日、パン屋の息子としてこの世に生を受けた。しかし、その後、しばらくジョルジュは歴史的な記録から姿を消す。比較的新しい発見では、1616年ヴィックで洗礼の代父となったらしいこと、1613年にはパリにいたらしいことが判明している。いずれにしても、画家としての修業時代であったとみられる。  

  ジョルジュの存在が再び確認されるのは、1617年の結婚記録である。それによると、新婦はロレーヌ公の会計係であったジャン・ル・ネールの娘ディアーヌ・ル・ネルフであった。父親はリュネヴィルの下級貴族ではあったが、社会階層としてはジョルジュの家よりは上に位置していた。

  こうした結婚が成立した背景には、ジョルジュがこの地方ですでに画家としての実績を築いていたことがあったと思われる。記録に残る結婚式の参列者などから推察されるのは、新婦側に圧倒的に著名人が多いことから、ジョルジュにとっては有利な結婚であったとみられている。

  画家としての実績があったとはいえ、上層階級への参入が認められたのである。とりわけ、新婦側の賓客の中に、メッス司教区の代官ともいうべき地位にあったアルフォンス・ランべルヴィエが含まれていた。ジョルジュはその後、画家でもあり、詩人でもあったといわれるこの高官のさまざまな庇護を受けたようだ。ロレーヌの支配階層でもあり、文化人でもあるサークルに、ラ・トゥールは最初の一歩を踏み入れたといえようか。  

  もちろん、後年のラ・トゥールの名声は、本人の画家としての才能が支えていたことが最大の理由だが、パトロンを含めての環境が大きな寄与をしたことはいうまでもない。その点、彼が2年後1620年に27歳で居を移した妻の生地リュネヴィルは、画家としての才能を発揮するに好適な町であったようだ。  

  さて、こうして画家としての生涯を歩み出したラ・トゥールの初期の著作がどれであったのかについては、ほとんど分かっていない。なにしろ、散逸、現存しない作品の方がはるかに多いのだから。美術史家の間でも、現存作品の前後関係は必ずしも定着していない。これからラ・トゥールのいくつかの作品を鑑賞してみたい。 「ばらまかれた金」  「ばらまかれた金」「税の支払い」などの画題がつけられたこの作品は、コニスビーによると画家の初期の段階、1620年前に製作されたのではないかと推定されている。

  税あるいは借金などなんらかの負債支払いをめぐる状況が描かれている。年配の実直そうな顔の男が、税あるいは借金を支払っている状況である。一見して緊張した、緊迫した光景である。一人のまともな男ときつい顔つきをした男たちが狭い空間で厳しく対立をしている。限られた空間にいっさい無駄なく、描き込まれているが、アマチュアの目でみても、構図がややぎこちなく、男たちの姿勢にも無理が感じられる。これだけの登場人物を書き込まねばならなかったという背景には、見る人になにかを思わせる暗喩があったのかもしれない。  

  オランダ絵画では16世紀に確立されたテーマといわれるが、ラ・トゥールは同じテーマであっても全く異なった取り扱いをしており、特に対象への集中度が素晴らしい。主題に徹底的にのめり込み、見る者の視線を散漫にさせるものはいっさい描かれていない。装飾らしきものは極力排除され、フォルムは基本的なところまで削り取られている。作品でも債権・債務関係が書かれていると思われるノートに光が当たり、視線を集中させる。この作品にかぎらず、他の画家に見られる室内の調度の状況や外部の景色などを多少なりとも想像させる要素が意識して排除されている。  

  テーマは革新的、珍しいものではないが、伝統的あるいは時代のファッショナブルな主題であっても、そこにラ・トゥールの独自な画風を確立しているのが素晴らしい。光と陰の中に彼のスタイルが貫かれている。それにしても、ラ・トゥールは屋外の風景とか、室内を描くことになぜ関心を抱かなかったのだろうか。これも大きな謎である。

 

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国際会議のひとこま(1)

2005年03月03日 | 会議の合間に
国際会議の一こま
 
    これまでの人生で、かなり多数の国際会議や学術会議に出る機会があった。自分が事務局や開催者になったこともある。長い年月の間には、会議の仕方や内容自体も大きく変化してきた。その変化を振り返ると、いろいろなことを考えさせられる。その中から比較的最近の例としてベルリンで開催された国際会議についてふれてみよう。この会議は3年に1度、世界中で会長国が持ち回りで実施する形式のものである。いままで、ジュネーブ、ロンドン、パリ、京都、ハンブルグ、ブラッセル、ワシントン、シドニー、ボローニャ、東京、ベルリンなどで開催されてきた。それぞれに懐かしい思い出もある。これらの会議の間には各地で、空白を埋めるように多数の地域会議が、それぞれのブロックで開催されてきた。昨年は韓流ブームに沸くソウルで開催された。

2003年に開催されたベルリン会議の前は東京で開催され、筆者はプログラム委員長を担当した。そうしたこともあって、各国で開催される会議には、多くの関心を持ってきた。お国柄もあって、会議の準備や開催のプロセスなどが、かなり顕著に異なり、それ自体が大変面白い考察の対象となる。日本は際だって面倒見のいい、準備にエネルギーをかける国として知られてきた。そのこともあって、全般に大変良い評判を残してきた。日本は例外、あのようには自分たちの場合はうまくやれないというのが、しばしば日本への讃辞であった。しかし、その他の国も独自の方式で工夫を凝らして実行し、それぞれに好評を博してきた。

今回の会議は、ベルリンの南西部に位置するベルリン自由大学(Freie Universitat、略称FU)で開催された。大学は郊外の広大な土地に現代的な建物が散在する大変美しいキャンパスだが、会議期間中、ベルリン中心部のホテルなどから通うにはやや不便であった。そのため、主催者は学会の名札をつけた者は期間中、地下鉄、バスなどベルリンの公的な交通機関は何回乗っても無料という措置をしてくれた。参加者の多くが利用した地下鉄U-Bahnにしても、東京都と違って郊外の駅はほとんど無人駅である。特に少し時間が遅くなると、駅員はだれもいない。改札も出口は回転ドアがあっても入り口はなにもない駅が多い。時々車掌が乗車券をチェックに来て、その時、無賃乗車をしていると高額の罰金を徴収する仕組みである。
 
会議のテーマや報告については、とうていここでは扱いきれないが、統一テーマはBeyond Traditional Employment: Industrial Relations in the Network Economyであり、会長演説で触れられたように2000年東京会議のテーマの延長線上に展開された諸問題が議論された。2000年に開催された東京会議までは、すべてのペーパーはあらかじめ印刷され、参加者に配布されたが、ベルリン会議では、地図、スポンサーの広告、若干の基礎的ペーパー以外は、すべてWEB上で閲覧、ダウンロードできるようになっており、小さなトートバッグに入れて軽い資料が渡されただけである。これは、遠い国から参加している者にとっては、大変有り難い方法であった。これまでの会議では、時には大きな段ボールボックスで、大量の資料を自国に送らねばならないというのが普通だったからである。初期の頃は、コンピューターでも入っているのではないかと思われる重い立派なバッグまで手渡してくれた会議もあった。バッグだけでも、かなりお金がかかっているのではないかと思わせるものもあった。しかし、中身のない買い物袋のようなものを手渡された参加者の中には、どうして論文が入っていないのだと文句を言っている人もいた。
 
帰国してしばらくすると、参加者への感謝のメールと併せて、会議の公式HP上で(http://www.fu-berlin.de/iira2003/)で、すべての主要なペーパーがダウンロードできるようになったとの知らせがあった。もうひとつ、会期中にカメラマンが記録写真を撮影していたが、そのうちのスナップ写真がHP上に掲載されていた。何の気なしに開いてみると、私の写真も数枚入っていた。会議で報告中の写真もあり、これでは居眠りもできないなと苦笑したほどである。
 1983年の京都会議以来、世界会議のひとつのモデルとなっているのは、図らずも日本が主催した京都および東京での会議である。この二つの会議は日本人らしい面倒見のよさ、行き届いた運営で大変評判が良く、参加者も多かった。そのため、常に比較対象とされてきた。ベルリン会議は、主会場が郊外の大学キャンパスであったということもあり、参加者の満足度は高いとはいえなかった。プログラムのミス、近隣のレストランが少なく、昼時の長蛇の列なども目立った。しかし、これらはしかたのないことである。参加者はそれぞれの立場で、ベルリンを楽しんでいたようだ。私にとっては、ベルリンの美術館の充実は魅力であった。会議の合間に、好きな美術館を見て歩いた。特に、あのラ・トゥールへの再会は嬉しかった。
 
前回は主催国が日本だったということもあるが、日本人の参加者はきわめて少なく、日本的経営・労使関係が注目を集めた1980年代とは昔日の感があった。2004年にソウルでアジア地域の会議が開催されることもあって、韓国からの参加者が多かった。中国本土からの参加者も少数ではあるが、みかけるようになった。

 次回は2003年にペルーのリマで開催されるが、2006年の開催国としてオーストラリアが決まり、IIRAの次期会長President Electとして家族ぐるみの親友のProf. Russell Lansburyが選ばれたことは大変うれしいことであった。20年以上前、初めて会った時は、少壮?の研究者であったが、いまや世界の学会での重鎮の一人である。年に一度くらいは世界のどこかで会う機会があるが、一緒に日光の山々やシドニー近郊の丘陵を歩いた記憶がよみがえってくる。

会議期間中にベルリン自由大学の学長主催のレセプションが、大学付属の植物園で開催された。広大な植物園の中で、ビュッフェと円卓を併せたディナーの夕べとなった。夜になると、さすがに暑さもやわらぎ、さわやかな空気が支配する。700人近い参加者とのことであったが、それほどの混雑観はない。漆黒の闇を巨大な温室や会場にあてられた建物の光がほのかに映し出す印象深い光景であった。しかし、FUの学長の話では日常は市民の憩いの場でもあるこの素晴らしい植物園も、大学財政の負担から、大学の手を離れるとのことである。どこの国も大学は厳しい競争時代に入ったことを痛感させられる。

座席が決められていないで自由に円卓に座る形式のビュッフェ・ディナーだが、偶然に座った10人くらいの円卓の隣人は、旧知の台湾国立中央大学の李誠教授夫妻とドイツのオスナブリュック大学のスゼル教授夫妻でお互いに驚いた。お互いに連絡しあってベルリンに来たわけではない。世界は小さいという経験はたびたびしている。まさにIt’s a small worldである。

こうした国際会議は世界の研究の先端や関心がどこにあるかを知るに欠かせない絶好の機会だが、同時に久しぶりに友人に会い、家族や友人・知人たちの動静を話し合う楽しい場でもある。しかし、別に書いたこともあるが、イタリア労使関係学会々長のマルコ・ビアッジ教授のように、その後テロの凶弾に倒れるという予想もしなかった悲劇で、会議が最後に会う機会になってしまったという悲劇もないわけではない。今回の開会式典でもヴァイス会長は、演説でその点に触れ追悼の意を表した。

FUの招宴の前夜は、はや20年近く前になるが、外国人労働者調査で訪れたクロイツベルクのイタリア・レストランで、友人のコーネル大のハリー・カッツ教授などと、私の学生時代の指導教授などについて話がはずんだ。多くの先生方が次々と世を去られているのは、大変悲しいことであり、自分自身もそうした年齢に近づいているのだということを改めて感じる。話にふけり、気づいてみると、深夜に近く窓の外は漆黒の闇であった。

 東京を出る前に、10月16日に予定されるコーネル大学の新学長ジェフレイ・レーマン氏から就任式の招待状をいただいたが、残念ながら今の私の日程では出席ができない。お祝いの手紙だけを差し上げることにした。ちなみに、アメリカの著名な大学の学長就任式は、大変大規模で、世界中から多数の著名人や卒業生が招待されるため、はるか以前から近隣のホテルの借り上げ、大学施設の活用など、日本では想像できない準備が行われる。コーネルの場合も、大学町ということもあるが、大学ホテルスクール経営のシュタットラー・ヒルトン・ホテルのみならず、近隣の30近いホテルは式典参加者のためにすべて借り上げとのことである。初めて、私がキャンパスを訪れた時に視界を埋め尽くす黄や赤色の一大パノラマに大変感動したように、美しいニューイングランドの紅葉が参加者を待っているに違いない。ベルリン郊外、大学キャンパスの紅葉した光景を眺めながら、いつの間にかアメリカのことを考えていた。

ベルリンは短い滞在であったが、人生の来し方・行く末を考えさせる濃密な時間を与えてくれた(2003年9月14日記)

旧ホームページから一部加筆の上、転載。
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国境の意味を考える

2005年03月02日 | 移民の情景
グローバリゼーションの光と影

 新たな世紀を迎えて「グローバリゼーション」は、もはや邦語訳を必要としないキーワードとして定着している。しかしながら、グローバリゼーションという言葉で、人々が思い浮かべる内容はさまざまである。そのため多数の定義が可能だが、 経済審議会によると「さまざまな経済主体の効率性の追求が全地球規模で行えるようになること」と定義されている。 今日の世界では資本、労 働、経営技術などの生産要素がかつてなく大規模に国境を越えて移動している。
 筆者は、1995年からカリフォルニア大学(サンディエゴ)US―メキシコ研究センターと共同で、日米の研究者グループを編成し、サンディエゴと浜松を対象に、移民労働者の研究を実施してきたが、グローバル化の衝撃の大きさに瞠目させられた(調査結果は、桑原靖夫編『グローバル化と外国人労働者』東洋経済新報社、1991年)。
 アメリカとメキシコ間には約3,400キロメートルの長い国境がつらなり、世界最大の先進国と第三世界を分け隔てている。国際経済学の理論が教えるように、労働力が移動しなければ資本などの代替資源が移動することで均衡が図られる。それはいかなる内容であり、どんな変化のプロセスをたどるか。アメリカ側実地調査の対象となったカリフォルニア州南部のサンディエゴ地域はこうした理論のテストには格好な場といえよう。
 サン・ディエゴ市の一人当たり所得25,000ドル、車で15分のメキシコの都市ティフアナでは3,200ドルである。93年のNAFTA成立後も国境が果たす役割に基本的な変化はない。500万人近いといわれる不法移民の存在を背景に、アメリカはクリントン政権以来、国境管理を強化する政策をとっている。しかし、国境を不法に進入するメキシコ人などの労働者の数は減少する兆しがない。それどころか、移民労働者なしには成り立たない職業が多い。カリフォルニア州全体で、農業労働者、家内労働者、レストラン労働者、建設労働者、電機組立工などの60% 以上は外国人労働者である。帰国する意思のない労働者の定着化は、彼らに依存する低賃金産業を繁栄させている。今回の調査では、サンディエゴの製造業で働く移民労働者の初任賃金は時間当たり5ドル60セントである(日本側調査都市の浜松では12ドル80セント)。
 労働力の移動が制限されれば、資本などの代替生産要素が均衡を求めて移動する。安い労働力を目指す外国資本のメキシコへの流入は、絶え間がなく続く。
 ティフアナや東に伸びる国境周辺には、1,500を越えるマキラドーラと呼ばれる低賃金に依存する工場群が展開する(画像は一例の衣服縫製工場)。そればかりではない。日本、韓国、台湾などアジア諸国からの直接投資が大きく様相を転換させた。97年のアジア金融危機は本国企業の経営危機につながり、海外経営にも影響を与えたが、松下、ソニー、サンヨー、日立、サムソン、エイサーなど各国の有名企業の工場が林立する。いまやティフアナは世界のTV生産拠点であり、年産1400万セットを生産する。電機以外にもカメラ、フィルム、衣服、自動車部品などの大企業 が数多く存在する。
 こうした構造を基本的に支えるのは、両国間の労働コストの隔絶ともいえる格差である。マキラドーラ労働者は一日賃率5-7ドルであり(94年末のペソ切り下げ前は9ドルくらい)、フリンジベネフィットや地代、管理費を含めても時間当たり4ドルくらいでティフアナでは 経営可能といわれる。他方、サン・ディエゴで同様の製品を生産するには18-25ドルを要する。
 両国の経済格差は国際経済理論の教える通り、長期的には縮小するだろう。しかし、繁栄の裏側で大量の不法入国や麻薬密輸などに関連する犯罪、開発に取り残される貧困者、目を覆うばかりの環境汚染など、荒廃した光景も同時に展開している。コカイン密輸は、こうし た非合法貿易に関わる人々に22億ドルの利益推定を生んでいるといわれる。アメリカへの不法入国を仲介するコヨーテといわれるブローカーは、一人当たり1500ドルを奪い取っている。1996年の日本人経営者誘拐事件に象徴されるように、外国人経営者目当ての犯罪も多い 。
 比較対象となった日本の浜松市では、日系人を中心とする外国人の定住増加などアメリカと同様な変化が進行しているとはいえ、変化の速度ははるかに緩やかである。バブル崩壊後、不況の影響で流入も少ない。島国で出入国管理がしやすいことが幸いしている。しかし、 ブラジルなど送り出す側の日系人社会は激変した。もし、日本が中国大陸と地続きで国境を接していたら、アメリカとメキシコに起きている変化を上回る激しい状況の展開が予想される。経済学者のクルーグマンが指摘するように、移民労働研究における国際経済学と地理 学の結合の必要性、そして当該国の置かれた初期条件の差異の重要性を改めて認識させられる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
出所:桑原靖夫「巻頭エッセイ:国境の意味を考える」『アジ研ワールド・トレンド』第4巻第1号、1998年1月
* 掲載時の紙幅制限のために、読者の理解を助ける上で最小限加筆してある。ブログ掲載時、冒頭部分に若干加筆。

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ラ・トゥールを追いかけて(3)

2005年03月01日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
  今年は日本のジョルジュ・ド・ラ・トゥールの愛好家にとっては、願ってもない良い年となった。3月8日から「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展が国立西洋美術館で開催されるのに合わせて、この未知の部分が多い画家についての資料もかなり紹介されることになったからである。  

  すでに『美術の窓』、『芸術新潮』3月号などは特集を組んですでに販売されているが、2月に入ってジャン=ピエール・キュザン&ディミトリ・サルモン(高橋明也監修・遠藤ゆかり訳)『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』(知の再発見双書121、創元社、2005年)が刊行された。原著は昨年ガリマール書店から発行されているが、著者のキュザン氏は元ルーヴル美術館絵画部門主任学芸員、サルモン氏は同部門の協力者で、監修者の高橋明也氏(国立西洋美術館主任研究員)とともに、今回の東京でのラ・トゥール展の運営委員会の参加メンバーというまさに願ってもないスタッフである。  

  本書の第一印象は一見小著ながら、よくもこれだけ詰め込んだと思われるほど、ラ・トゥールに関する最新の情報が盛り込まれていることである。「知の再発見」双書は、美術愛好家(その他の分野もあり)にとってはかなりおなじみで、美術関係だけでもすでに16冊が刊行されているが、そのいずれと比較しても勝るとも劣らない充実ぶりである。

    本書の最もユニークな視点は、ラ・トゥールという画家の作品が、多数の人々の努力でいわば闇の中に埋没していた状況から、次第に発見されて行くスリリングな過程を時間軸に沿って描いたことにある。   

  構成は、次のようになっている:

  第1章  1915-34年:ラ・トゥールの作品と生涯が再発見される
  第2章  1934-47年:無名の画家から、「ロレーヌの非常に有名な画家」へ
  第3章  1947-72年:傑作の他国(へ)のsic流出と、困難な年代の特定
  第4章  1974-2004年:作品は広く知られるようになったが、ラ・トゥールは依然として謎の画家である
  
  資料編
  ラ・トゥールの作品の値段の推移
  ラ・トゥール略年譜
  作品目録INDEX
  出典
  参考文献
  
  この双書の特徴として図版がきわめて多く、きわめて楽しい読み物に仕上がっている。ラ・トゥールの生涯や作品をめぐるエピソードなども豊富で、構成を含めて、良くも悪くもフランス的な小著である。ラ・トゥールに関する小エンサイクロペディアといってもよい。  

  読後、ちょっと気になったのは、略年譜には結婚の事実は記載されているが、資料編の1.生前のラ・トゥールの部で、1617年のラ・トゥールのディアーヌ・ル・ネールとの結婚に関する資料の所が空白になっていることである。結婚証明書はArchives de la Moselle, 3 E 8176,fol.238-239に所蔵されていることになっている(Thuillier 245-146)。いずれ記すことになるが、ラ・トゥールの生涯で、画家として最初の登場が確認される公的記事はここにあると思われるからである。
  
  また、本書135ページの欄外説明にある映画『忘れられ発見された天才、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』(1999年)*の監督名がE.マリンズとなっているが、A.マーベンが正しいと思われる。前回にたまたま言及したが、現物が手元にあり、確認(歴史家マリンズ氏は映画の中に登場する)。
  
  しかし、これらは些細なことであり、ラ・トゥールの作品について、「発見史」というユニークな視点から、これだけ濃密かつコンパクトに書き込んだものは、過去の大展覧会のカタログや専門家のための研究書は別として、他にない。ラ・トゥールの愛好者にとっては、ハンディなガイドとして、時宜に適した得難い贈り物である(2005年3月1日記)。

Reference
*Georges de La Tour: Genius Lost and Found, with the participation of Edwin Mullins, written and directed by Adrian Maben, Color, 59 minutes, DEL, 1999. Photo: Vic-sur-Seille, Archives Municipales
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