日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

通り過ぎたあの時。

2006-04-28 11:31:50 | あの頃(~昭和40年代)
場面 その1
それは今ごろの季節だったと思います。
空気の澄んだ日は佐渡島までも見えるという見晴らし最高の城山の風景を覚えています。
山頂付近の一角に畑作地帯がありました。主な作物はジャガイモとサツマイモ。他にはカボチャやラッキョを作っていました。
登るのに1時間ほどもかかる山ですから、植付けと収穫、その他数回しか出かけることはありません。その頃は子供だから、そんなものだと思って暮らしていたのですが、今の基準からすると、まだ豊かとはいえない時代だったのでしょう。
まだ一般家庭には車はありません。だから、芋の収穫とジャガイモの植付けの時は、全員でトラックをチャーターして出かけるのです。
今ごろの季節だから、あれはジャガイモの植付けだったのでしょうか。
「向うの畑に、ホラ ○○先生も来てるよ」と、母がいいました。
遠目にだけれど「多分、…かな」とは思っていました。収穫の時は空のトラックの荷台に乗っていくのですが、ジャガイモの植付けは種芋を満載していくので、人はそれぞれ歩いて登るのです。
メンバーは母の実家の地域の農家の人たちだから、母には顔なじみばかり。その中に、ひとり中学生の私が混じっているという具合です。
うちの畑というのは山の斜面を母が開墾して、何とか作付けできるようにしたという代物。戦後も夫が捕虜で未帰還だったこともあり、自活のための苦肉の策だったと、後から聞きました(作付け面積は貴重だから、嫁いだ母に一部分けてくれるという甘い考えは通用しなかったのですね、キビシイ!)。
見晴らしは最高なのですが、平らな面は殆どなく、斜めの3階建てのような段々です。
だから、どうってこともなく、その日は、〈担任の先生も畑仕事…、バツが悪いような、照れくさいような、かっこ悪いようでもあり…〉の一日でした。 

場面、その2
そして多分同じ頃の学校のホームルームで
黒板に板書する係をしようとすると、「学級委員は男女各1名と決まっている。学級委員と副学級委員じゃないんだよ。だから、ホームルームの司会は男女交互にしなさいね」と、その担任の○○先生。
その時、私「ウソッ、えぇっ!」って気分。
そして、渋々司会をやったけれど、ホームルームはできたら他教科に変更にならないかなー、と願ったりしたものです。

そして、ずっと、後になってからは思うのです。
あの時、そんな風に声を掛けてくださったのは、先生の見識、価値観だったのだと。
広い、ちゃんとした畑が、いくつも連なっているなかで、開墾してやっと作った段々畑に、母娘で畑仕事をしていたことも、ちゃんと見ていて…。
その先生の一声は、何十年立っても埋もれることなく、私の心に残っています。

その時のこと、20年ぶりの同窓会で冗談交じりに伝えたかったのだけれど、残念なことに既に先生は故人でした。
なんでこんな話を今ここに?
きっと、教育基本法に則って生徒たちを見てくださっていたのだろうと、そこに繋がるから。
学校での勉強を補うために通塾するのが一般的、当たり前という風潮に、「ちょっと待った」と声をかけたいおばさんがここにいます(笑い)。

後記
今は、町が一体を買取り城山公園になっています。勿論、買収価格があったのですが、母のところはナシです。勝手に開墾した斜面だったのですから。
その後何度か車で登りましたが、斜面の段々畑の一体を捜そうとしても、斜面の芝では想像もできません。こんなところであんなに収穫していたのかと、思い返せば驚きです。


コメント (2)
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