日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

県外研修、私の収穫。その3

2017-06-21 09:18:49 | 旅行・休養
さて、二日目の午後、ようやく本命の『ねむの木学園』に向かう。
前記事の昼食でお腹がいっぱいになっているので、バスの中では睡魔が、、、状態。

学園は街から離れたところでした。

学園と美術館も1キロ離れています。
学園には先客の団体さんがあったので先に美術館へ向かいました。大型バスが周囲の雑木林の緑葉に腹をこすらんかのようにして進んでいきます。

宮城まり子さんの『ねむの木学園』は、ずいぶん以前から聞いていたのですが、ようやく訪れることができました。
昭和43年に浜岡町設立。その後移転して今の場所になったとのこと。

彼女は確か昭和2年生まれでしたから、40歳のころから活動していたのですね。
やさしく、やさしく、やさしく、がモットーだそうです。

誰からも守られることがないということはないよ、ここにおいで、というのが彼女のスタンスなのでしょう。
どんなマイナス条件でも引き受ける、に徹しているように思いました。
ご本人は不在で、直接の話は聞いていません。

学齢期の児童は11名、それ以上の年齢の人が38名。70歳を超える人も。
学園スタート時から現在までという人もいらっしゃるそうです。

学園には宿舎も付随していて、通学の人もいるし、寝泊りも「ねむの木」でという人もいる、という形。

施設開始当時は肢体不自由児には就学の機会を与えたいということでスタートしています。もう50年。ねむの木に触発されて、制度は整えられて来ているように思います。

いろんな授業が企画されているのですが、アートを学ぶより、技能をみにつけたい、という意見の方もおられる、ということも案内の方は伝えてくださいました。
そうなのです。女優でアートティストの宮城さんの感性が学園全体をリードしているので、独創性を大いに評価し、後ろ支えしているモードですが、芸術家として自立の道よりも(『ねむの木学園』というバックボーンが必ず必要な気がします)、技術を身に着けて、社会で間に合うひとになりたい、という人のほうが本音じゃないかと、こっそり思いました。世の中芸術家ばかりでは回っていきませんから。

きっと、これまで宮城さんの資産と女優としての収益の多くを注ぎ込んでこられたのでしょう。建物の普請は立派です。でも、宮城さんの尽力を失うとどうなるのかしら、と思わないでもありませんでした。
90歳でも官庁との交渉ごとは、宮城さんご本人がやっていらっしゃるようです。
宮城まり子ブランドがあるから成り立っている、きっと、無名の後続施設が受け皿になり、持続可能なシステムに持っていくべきなのでしょう。

宮城まり子さんと素敵な子供たち、のユートピアでした。

美術館に展示してある子供たちの作品、素敵でした。
イラスト画として充分ほしくなる作品です。
スカーフになっていたらほしいな、ネクタイがらにしたらいいのでは、そんなことも思いました。
子供たちの絵を企業がカレンダーとして使っているところもあるそうです。
トートバックを1つ買って帰りました。
そういえば、介助犬施設に行った時も、犬のデザイン画のトートバックを購入したことを思い出しながら。

■追加■

『ねむの木学園』のことを考えている。大きなお世話!!かもね。
以下、個人的感想です。
学齢期の子供たちが11名と聞いて、年齢が到達したからと言って退園する人がいないから新規受け入れが困難という状況になってしまうのだと思っていた。
運営責任者の宮城さんご本人の説明はまったく聞いていないし、なかなか直接聞きにくいことだから、外野から見せていただくよりほかないのだけれど、これが自然の流れなのだとおもった。
開設当時から福祉面の変化もあって、昨今は、各地に施設がつくられているのだろう。障害のレベルも多様だから対応も各様になるのだろうけれど。時に悲惨な事件があったのは残念。職員の労働環境、労働条件の問題でしょうか。
社会の中で生きていってほしい、と先日障碍者を持つ母親さんのことばが心に残っています。森の奥にある学園ではなく、当時よりも現在は街から離れていな学園ができているのじゃないか、よくなっているのでは、と思ったりする。
公共からのサポート+障碍者年金や生活保護費に併せて宮城さんのご尽力で運営されているのだとしたら期間有限がある施設になってしまう。施設運営の後継者は育っているのだろうか。

やっぱり、大きなお世話、でしたね。



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研修旅行、私の収穫。その2

2017-06-21 07:59:32 | 旅行・休養
海の向こうに富士が見えるホテルと書きましたが、ホテルに着いたときは小雨が降ってきて、眺望は残念。でも小雨降る中、露天風呂にはつかりました。

で翌朝。梅雨時なので期待していたのに、雲間から日が昇ってきました。海側全面ガラスの室内からは絶景を楽しめました。
で、向かったのは、久能山東照宮。

私など昭和30年代に小学生だったものだから、久能山≒石垣イチゴ、って頭に出てくるタイプなんです。
バスの窓から、斜面に何段もの石垣、時にはブロック土塁が見えて、ビニールハウスになっています。あ~、これが太陽で石垣が温められて、その熱でイチゴを育てるという、子供のころ教わった耕作方法なんだ、と感慨深かったです。
昨今のイチゴ栽培はビニールハウスもすっかり大型化して石油で温めていますけどね。

日本平ロープウエーから、久能山東照宮に向かいます。
ロープウェーって、行きは昇るものだとばかり思っていましたが、行きが「下り」でした。初体験!!

久能山東照宮って、耳にしたことはありますが出向くのは初めて。研修に付けてくださった「おまけ」みたいなものです。
家康がなくなって、秀忠によって1617年に作られたのが久能山の東照宮。その数年後には日光東照宮に分骨。日光東照宮は家光の代に現在のような大造替されたとのこと。参道の石段は一段毎の高さが相当であり登るのに難儀。神職の方々は今でも毎朝下からロープウエーを使わず登っておられるのだという。







家康のお墓です。4月末に増上寺で徳川将軍家の墓所を訪ずれたばかりなので、なんだか徳川づいているような思えたり、、、。わたしにとっては、楽しめるおまけでした。


2日目の昼食。かつての東海道沿いの明治初期からある老舗「椎の木茶屋」というところでした。
去年は、長距離(福島被災地)でムリムリの予算のため、お食事はイマイチでしたが、今年は満足至極。ありがたい。



家康の遺話「金の成る木」について

以下、説明の立札に書かれていた説明文の抜粋

家康公は自ら筆をとられて、三本の木を描き、
『よろず程のよ木』
『志ふかき』
『志やうじ木(正直)』
と書かれ、「これを常々信用すれば必ず富貴が得られよう』と仰せられました。

立札には細川忠興の追加文もあるのですが省略。

伝聞には脚色が入っているとしても、400年後の今もそう外れていないことが、見事ですね。


で、午後から、「ねむの木学園」へ向かいます。

続く。













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研修旅行、私の収穫。

2017-06-21 06:46:34 | 旅行・休養
日、月の研修旅行。年に一度。いつも企画委員さんのおかげで中身ある企画です。
翌火曜は仕事で、今日は早朝から雨。庭にも出られず、ひといきつけます。
で、時系列に感想を綴ります。

最初は現在休止中の浜岡原発見学でした。
念のため、ガイガーカウンター持参しました。苦笑
うちのエリアでは、数値は0.05μシーベルト/時間でした。
時々、ガイガーカウンターでチェック。
浜岡原発付近で、数値が0.18を超えたりもしましたが、見学建屋の中でも、それ以上上がることもなく、0.05だったりもしました。
現状は大丈夫なんですね。

42階(?)の展望室から、1号機~5号機とそれぞれのタービン建屋が見渡せます。
1号機、2号機は廃炉になることが決定しています。稼働開始からちょうど40年超になるので、耐用年数が来たからという理由の判断ですか、と質問したら、耐用年数からの判断というより、メンテナンスして稼働させるためにかかるコストとの比較で決まった判断です、とのことでした。
3~5号機は、同様の判断基準では、稼働に向けての対応がとられているのです。
海際には22メートルの防護壁、西、東側には24メートルの土塁が完成していました。数年前に行ったときはこれから作る、というところでした。
何台もの赤い消防車やブルドーザーなどが非常時に備えて待機していました。

原子力発電建屋群の手前に、5階建ての本部棟が見えます。中部電力の浜岡原発チームとして800名が働き、ほかに関連の仕事をする他企業40社ほども同じビルに入っています。で、総勢4000人が毎日浜岡原子力発電所の仕事についているということです。
稼働しておらず、収益には貢献していないのに、こんな人件費が賄えるって、大きな組織ってすごい、物事の発想が違うのだろうな、と思うにとどまりました。・・・わからないから。

わたしは浜岡原発に3度行ったことになります。一度目は15年以上前のまだ福島原発事故が起こる前でした。その時の記憶では、建屋への入館にあたって、ものものしく金属探知機のゲートをくぐった記憶があります。テロも警戒しなくてはならないからね、と口々に話していたものです。そして、水溶液の中に浸っている核燃料棒を上からのぞいた記憶があるのです。見えたというのはガラス張りになっていた?
ガラス越しに制御室もみられる見学コースだったような?今の見学棟の1Fにある売店でお土産を買った記憶もあるから、見学等も当時からあったとは思います。
でも、最近の2回は、見学棟の見学だけ(1Fの売店は閉鎖)です。

福島の原発事故後に、いったん停止した後、早々に再稼働という話がありました。えっ!!それは困る、と息巻いた(わたし)ら、当時の菅首相が再稼働ストップを命じ、助かりました。

でも、電力会社としては、監督官庁の規制をクリアすれば再稼働できる方向に向かっているということです。
ふ~ん、また、再稼働ストップの声をあげなくっちゃ、とは思っています。

裁判所へ持ち込んでも、これは政治判断になるだろう。原発の専門家でもない、たまたま担当になった3名の裁判官に判断させるっていうのは、どうかな、という意見も聞こえる。佐賀県の場合、確か地元が稼働賛成らしい。生活が懸かっているからといっても、現段階で最終処理の方法がない放射能は忌避すべきだと思う。そんな意見を持っています。


この後、静岡県地震防災センターを見学して(御一行様で行動しているので、館内の案内やビデオ視聴、震度体験などがあります)宿に入りました。

宿は遠州灘の向こうに富士が見えるというベストロケーションの温泉ホテルでした。
お料理がお魚たっぷり。美味でした。
テーブルには一人分ずつの船盛りが並んでいたので、部屋にカメラを取りに帰って、お料理撮影。笑
この後、天ぷらとか茶碗蒸し、ごはん、デザートなどは適時出てきます。





写真がありませんが、昼食も「お魚自慢ですよ~」と聞こえてくるようなボリュームたっぷりでした。

翌朝は続きにします。



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