アレハンドロ・アメナーバル監督「海を飛ぶ夢」
主人公ラモンが外出するシーンがある。リクライニング式の車椅子に身を横たえ、車窓から外を見る。この描写、彼が見た風景がすばらしい。
路地からこどもが大通りに飛び出しそうになる。それを引き止める母親。交尾する犬。風力発電の風車が少しずつ見えてくる。
この描写に「詩」がある。
主人公は首を骨折して四肢が動かない。安楽死を願っている。そして彼は今、法廷で発言するために外出している。法廷へ向かっている。法廷で、彼は自分の精神状態が正常であることを証明したい。安楽死を求める気持ちが正常な判断力にもとづくものであることを証明したいと思っている。
この気持ちと、路地から飛び出しそうになる子供、その子供の危険を感じてひきとめる母親との間には何の関係もない。交尾する犬も何の関係もない。主人公が初めて見る風力発電の風車も何の関係もない。
そうした何の関係もないものが、今、ここに存在し、世界を同時に作っていると伝えるものが「詩」である。
世界は主人公の(つまり一人一人の個人の)思い入れにまみれている。染まっている。誰でもが自分の精神状態に支配されて色の世界を見ている。深刻な色、悲しい色にそまった世界を見ている。そうした「色」に統一があったとき、統一性を感じられたとき、その世界(というか、主人公の気持ち)がわかったような気持ちになる。
「詩」はしかし、そうしたある統一感のある「色」のなかには存在しない。あるいは、そこにも「詩」があるかもしれないけれど、人を驚かし、覚醒させ、新しい世界への入口を切り開いていく「詩」は、そういう統一感のある「色」のなかには存在しない。
「詩」は非情のなかにある。
主人公ラモンが外出するシーンがある。リクライニング式の車椅子に身を横たえ、車窓から外を見る。この描写、彼が見た風景がすばらしい。
路地からこどもが大通りに飛び出しそうになる。それを引き止める母親。交尾する犬。風力発電の風車が少しずつ見えてくる。
この描写に「詩」がある。
主人公は首を骨折して四肢が動かない。安楽死を願っている。そして彼は今、法廷で発言するために外出している。法廷へ向かっている。法廷で、彼は自分の精神状態が正常であることを証明したい。安楽死を求める気持ちが正常な判断力にもとづくものであることを証明したいと思っている。
この気持ちと、路地から飛び出しそうになる子供、その子供の危険を感じてひきとめる母親との間には何の関係もない。交尾する犬も何の関係もない。主人公が初めて見る風力発電の風車も何の関係もない。
そうした何の関係もないものが、今、ここに存在し、世界を同時に作っていると伝えるものが「詩」である。
世界は主人公の(つまり一人一人の個人の)思い入れにまみれている。染まっている。誰でもが自分の精神状態に支配されて色の世界を見ている。深刻な色、悲しい色にそまった世界を見ている。そうした「色」に統一があったとき、統一性を感じられたとき、その世界(というか、主人公の気持ち)がわかったような気持ちになる。
「詩」はしかし、そうしたある統一感のある「色」のなかには存在しない。あるいは、そこにも「詩」があるかもしれないけれど、人を驚かし、覚醒させ、新しい世界への入口を切り開いていく「詩」は、そういう統一感のある「色」のなかには存在しない。
「詩」は非情のなかにある。