詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

黒(あるいは誤読の楽しみ)

2005-04-05 15:06:10 | 詩集
4月5日(火曜)

 ナボコフ「チョーブルの帰還」(「ナボコフ短篇全集Ⅰ」作品社)

木々の小枝を映す黒い舗道中央の小さな水たまりは、現像不足の写真のようだった。

 「黒い」は「舗道」を修飾している。しかし、私は「水たまり」を修飾している、と読んだ。この文章を読んだ瞬間、「黒い水たまり」が雨上がりの、灰色に輝き始めた空と、その空を背景にして黒く姿を映している小枝が見えた。水たまりのなかに、この文章には書かれていない灰色の空が見えた。そして、灰色の空を映すためには、水たまりは「黒」でなくてはならないと思った。

 意識のなかでは、ものを映し出すのは「白」である。「黒」はすべての存在を飲み込んでいるからものを映し出さない。――しかし、現実は違う。
 現実を、意識をひっくりかえす具合にして引き寄せるもの、それが「詩」である。



 「チョーサーの帰還」には、遠く離れた存在を引き寄せる形での「詩」もある。

彼女は、蔦の小さなキツネ色の葉を見ると、アイロンをかけたリンネルの、薄い錆色のしみを思い出すと言った。

 小説の長い文章のなかに隠しておくにはあまりにも美しい。美しすぎる「もの」と「もの」との出会いだ。



 ナボコフは、別の短篇で文学創造について、主人公に語らせている。

ありふれた事物を、未来の思いやりのこもった鏡に映し出されるように描くこと。(「ベルリン案内」)

 ナボコフはすべての存在が失われていくことを知っていた。取り戻すことができないものになることを意識していた。そして、失われていくものをいとおしさを込めて描いた。
 リンネルの錆色のしみ――いわば「汚点」のようなものさえ、人間の感情を揺さぶる。
 「枯葉」「キツネ色」「アイロン」「リンネル」「錆色のしみ」――その出会い。
 そこには「純粋感情」がある。「詩」とは「純粋感情」を発生させるものとものとの出会いである。
コメント
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