詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ボルヘス「砂の本」(篠田一士訳)(2)

2021-02-19 09:13:23 | その他(音楽、小説etc)
ボルヘス「砂の本」(つづき)
きょうは「人智の思い及ばぬこと」を読んだ。
ボルヘスの文体の特徴は、非常に経済的なことである。説明が少ない。読者の想像力を掻き立てておいて、そのあとに、ぱっと短く具体的に書く。
たとえば、65ページ。伯父が死んだと書いた後。

ひとが死んだときには、だれもが抱く思いをわたしも持った。いまとなっては無益だが、もっとやさしくしておけばよかったという悔いである。

このふたつの文章は、順序が逆なら陳腐であるだけでなく、ことばが「わたし」に向かい、物語のスピードが落ちる。(日本によくある私小説になる。)
読者に、ほら、きみの想像通りだろう、とささやきかけ、励ましながら、一番むずかしい描写を読者にまかせてしまう。
小説のおわり。74ページ。

何かのしかかるような、そして緩やかで、複数のものが、斜面を昇ってくる気配を感じた。好奇心が恐怖にうちかち、わたしは両眼を閉じなかった。

さて、何を見たか。
読者が想像する通りである。
だから、書かない。
うまいなあ、と感心するしかない。

*

篠田の訳。最後の「両眼」は微妙だなあ。意味はわかるが、los ojos(たぶん)を、両眼と意識するひとはどれだけいるか。
眼ではなく、両眼の方が強烈でいい訳だとは思うが、ボルヘスに両眼という意識はあったか。
いや、なくてもかまわないし、この両眼は絶対的な力をもっているがゆえに、それが篠田の意図か、あるいは偶然か、それを知りたいと私は思う。
コメント
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