池井昌樹「古い家」(思潮社、3月9日は発行)を読んだ。
巻頭の「どこかへと」に不思議なことばがある。
どこからか
いそぐたびでもなし なしと
こえがした
なぜ、なし、が繰り返されるのか。
たぶん「いそぐたびでもなし」は池井の父の口癖だろう。幼い池井は意味もわからず、いや、わからないからこそ、そのことばを聞きながら、知っていることば「なし」を繰り返した。
そのとき父はどう反応したか。これは、書く必要がない。
父と子には、そういう繰り返しで共有するものがある。
そのときの父の年を越えて、父を思い出しているというよりも、繰り返しによって、肉体になっているものを確かめている。
とてもいい詩だ。
「心から」には、きっとだれもが「いいなあ」とつぶやき引用するに違いない数行があるが、私は「なし」という対話の方が好きである。
表紙の絵は、池井の父が描いたもの。
私は、この家も、池井の父も知っている。泊まったことがある。風呂の浴槽が二つあって、とても奇妙だと感じたことを覚えている。
どうでもいいことなのだが、こういうどうでもいいことが、事実というものだろう。
「なし」も、事実なのである。
「心から」の感動的な数行が真実であるのに対し。
(退院後、もう一度書くつもり。上の感想はメモです。)
巻頭の「どこかへと」に不思議なことばがある。
どこからか
いそぐたびでもなし なしと
こえがした
なぜ、なし、が繰り返されるのか。
たぶん「いそぐたびでもなし」は池井の父の口癖だろう。幼い池井は意味もわからず、いや、わからないからこそ、そのことばを聞きながら、知っていることば「なし」を繰り返した。
そのとき父はどう反応したか。これは、書く必要がない。
父と子には、そういう繰り返しで共有するものがある。
そのときの父の年を越えて、父を思い出しているというよりも、繰り返しによって、肉体になっているものを確かめている。
とてもいい詩だ。
「心から」には、きっとだれもが「いいなあ」とつぶやき引用するに違いない数行があるが、私は「なし」という対話の方が好きである。
表紙の絵は、池井の父が描いたもの。
私は、この家も、池井の父も知っている。泊まったことがある。風呂の浴槽が二つあって、とても奇妙だと感じたことを覚えている。
どうでもいいことなのだが、こういうどうでもいいことが、事実というものだろう。
「なし」も、事実なのである。
「心から」の感動的な数行が真実であるのに対し。
(退院後、もう一度書くつもり。上の感想はメモです。)